5-7リト過去3 一の字
過去の記憶の中の幼いリトが見たその足下の岩は、雨上がりのように濡れており、リトの足に軽い痛みを与えた原因は、ところどころにある小さなフジツボのようだった。
そして眺めていた自分の足下の側に、黒色の見慣れぬ鎖があることに気づいた。 もちろんそれはリトの足とは繋がっていない。 鎖はリトのすぐ脇の壁に刺さった杭から伸びている。
伸びている? どこに?
リトが鎖の先をたどるように視線を移すと、それは新世の足首に付けられた足枷と繋がっていた。
幼いリトにはその鎖が何を意味する物なのか分かっていなかったので、不思議だなあ、としか思わなかった。 リトは不思議だなぁという気持ちだけで、ただじっと新世の姿を足下から頭まで眺めた。
新世の靴は靴というよりも使い古しの革のサンダルのようなもので、所々がほつれて金具も錆びている。 新世の着ているズボンも上着も色あせた麻袋のような、お世辞にも着てみたいと思えるような代物ではない。 そして襟際に巻かれた濃い茶色のストール。
――確かこの服は陽炎の館で見た写真のものと同じだ。
15になったリトもその服が意味するところを正確には分かっていなかった。
幼いリトは周囲を見回した。
先日は気づく余裕もなかったが、今は違う。 黒々とした冷たい岩がものすごい圧迫感で周囲を取り囲んでいる。 柵のある海側からだけ差し込む光は牢の奥までは届かず、よってこれより先は真っ暗で、より深く奥に続いているのか壁になっているのか、それすらも分からない。
海から吹き上げる風がまるで海鳥の鳴き声のように甲高い音をたてた。
『……おばーちゃん……』
不安になったリトは小さくつぶやいた。
このお姉ちゃんと一緒にいることは嫌いではないが、祖母達に会いたい。
より、明るい方に進む。 それはもちろん、海に面した柵側だ。
柵ごしに外を見ると、ずうっと一面、海だけだ。 柵からほんの少し顔を出して下を見る。
切り立った岩の崖の下には、深い深い色をした碧い海が波となって岩にぶつかり白いあぶくを散らしていた。
オルガノ村は崖の上にあるため海岸というものに無縁だったリトにとって、それは初めて目にする波であった。
大自然のリズムに乗って白波が碧いキャンバスの上ではじける。
好奇心を刺激されたリトは、その光景に見入った。
ふと、碧いキャンバスの上にリトの姿が映ったように感じた。
幼いリトは柵から身を乗り出してもっと見ようと試みた。
足下から小さな岩のかけらがポロポロと落ちて、海に落ちていく。
みしっと足下が小さく音をたて――
『いとちゃんっ!』
慌てた新世の声が聞こえるのと、リトの視界が下へすべり落ちるのはほぼ同時だった。 しかしリトの視界の落下はほんの少しの距離で終わる。
足、おしり、背中を岩ですりむいた痛みが走る。
右の手の指が何かに掴まれて、痛い。
――痛い、痛い。
リトの視界が、痛みに驚いて涙でゆがむ。
二回しゃくりあげたあと、息を沢山吸い込み、
『う゛ぇええええん』
幼いリトは大声で鳴き始めた。
甲高く、精一杯、リトは泣いた。
痛くて嫌で、父や母や祖母に会いたかった。
『いとちゃん! いとちゃん!』
頭上で新世の声が聞こえる。リトが見上げると、新世が柵の間から片手を伸ばしてリトの右手の指を掴んでいた。
ただ、新世にとってこの柵の隙間は狭い。 顔が少し見えるだけだ。
『え゛え゛え゛え゛え゛ん』
リトは新世の姿を見ても泣きやまなかった。
『いとちゃん、おねがい、私の手を握って』と新世が何度も呼びかけていたが、頭の中にはまったく入ってこなかった。
新世は滑り落ちたリトをすんでのところで捕まえることができたが、それは指先を、しかも片手だけであり、いつ手が滑って離れてもおかしくはない。 せめて幼いリトがもう片手を上げて新世の手を掴んでくれれば話は違うだろうが、そのときのリトにとってはそこまでの考えはなく、いやむしろ掴まれた指先が痛いので泣くだけだった。
『いちとゃん!』
そう叫ぶ新世の手が小さく震え出す。 もう手が痺れて限界だ。
リトは新世を見ながらただ泣いた。
かすかに見える新世の顔も、体力の限界なのだろうか、青くなって汗をかいている。
『いとちゃん、おねがい、私の手を、しっかり握って』
新世が何度お願いしてもリトは泣くだけだ。
このままだと新世の力も尽きて手が離れ、リトは海へ真っ逆さまだ。
『いとちゃん……』
何度目の懇願の後だったろうか。
限界を感じた新世が願うように呟いた。
『助けて――。 ……一夢……!』
新世の背後で、突然現れた光がきらりとはじけた。
『新世ッ!!』
聞いたことのない男の声がリトの耳に届く。
そして大きな手が新世のすぐ後ろから伸びて、リトの手を新世の手とともにしっかりと掴んだ。
幼いリトを掴んだその逞しい手は、軽々とリトを持ち上げた。
柵の前まで来ると新世がリトを抱きかかえて中に入れる。
『ああ良かった! いとちゃん、もう大丈夫よ』
新世の胸にぎゅっと抱かれながらリトはまだ泣き続けた。
新世が何度も頭や背中をなでて落ち着かせてくれる。
『大丈夫よ、もう大丈夫よ……』
新世の優しい声とともにリトの体にふうわりと優しい力が入ってくる。
擦り傷を負ったであろう箇所がみるみる癒えていく。
『よしよし』
新世にあやされて、やっとのことリトは声を上げて泣くのを止めた。
しゃくりあげながら新世の顔を見ると、彼女は心底ホッとしたように微笑んだ。
視線を少し横に移すとそこに、見知らぬ男の人がいた。
その男の人は新世と同じくらいの年頃のお兄ちゃんだったが、眼光するどく、瞳は怒りで満ちていた。
――怒られる。
本能的にそう感じたリトは悲しくなって、再び息をすいこみ泣き声をあげようとしたので新世が慌てた。
『い、いとちゃん! 泣かなくて大丈夫よ! 一夢ッ! 怖い顔は止めて。 いとちゃんが怯えちゃう』
『お、俺っ? 俺のせい?』
『いいからっ! ……とりあえず笑って』
新世にそう言われたお兄ちゃん、一夢はとりあえず目は怒ったまま、口を大きく笑うように開き、つりあがっていた眉の形を無理矢理持ち上げた。
その顔は正直いって。
プッ、と小さく新世が吹き出した。
そしてアハハと笑い出す。
『一夢、すっごく変な顔』
新世の笑い。 それはとても安心したやさしい笑い方で。
『新世が笑えっつったのに、それは無くねぇーっ?!』
新世の笑顔に引きずられて、一夢の表情も和らいで目から怒りが消える。
『だって、可笑しいんだもん』
『新世ぇー』
参ったなぁ、という顔をして一夢も笑う。 リトと一夢の視線が合うと、一夢は先ほどの表情とはうってかわった明るい笑みを浮かべてリトの頭にそっと手を伸ばした。
『よしよし、よかったな』
そう告げながらリトの頭をくしゃっと撫でる。
――この人は怖くない
リトはほんの少し安心して、頷いた。
「ひゃ~。 リトは一の字とも会っていたって訳か。 こりゃあ驚いたな」
映像を見ていた佐太郎が思わず声に出した。
「やっぱり一夢さんも若いですね」
弓が嬉しそうに呟く。
そこに映し出された一夢。 やはり年頃はリトと同じくらい。 だが、その眼差しは大人びている、というか、「しっかりしている」感じがする。 茶色のくせ毛がはねてライオンのたてがみのようだ。 意志の強そうな顔立ちと、太陽のようにまっすぐな明るい笑顔。
「懐っかしいナぁ~」
一夢の友達であった佐太郎は心の底から懐かしがっていた。
――しっかし……。 ここで一の字まで出てきたってことは、この先の記憶の中にライマのことが必ず出てくるだろろうな……。
一夢の姿を見つめながら佐太郎は不安を抱き、ラムールにちらりと視線を向けた。
ラムールも気づいてるはずだ。
しかし、ラムールは映像を黙って見つめていた。
嬉しそうに目を細め、久々に目にする兄と姉の姿を目に焼き付けている。
『良かった、いとちゃん。 ちょっとご機嫌になった?』
新世の声があたりに響いて、佐太郎は慌てて再び画像に視線を向けた。




