5-6 リトの過去2 迫害歌
「新世の羽の香り……。 ああ、懐かしいなぁ……」
薄暗い部屋の中でラムールがぽつりと口に出した。 そしてリトもその感触、その香りをまざまざと思い出していた。
絹のように柔らかくビロードのようにすべすべで、いつまでも触れていたいその感触。
それらを思い出して少しだけ強張った表情を浮かべたリトを佐太郎が横目でちらりと見た。
しかし何も告げずに再びみんなで映像に見入る。
新世はリトを翼のカーペットの上に乗せたまま、彼女が退屈しないように話しかけた。
『いとちゃん。 何して遊ぼうか? おうた? 手遊び?』
新世は親指と中指と薬指を合わせてキツネの形を作り、リトの目の前に差し出した。
コミカルに動く指に見入りながら、リトは自らも指をキツネの形にしてはしゃいだ。
しばらくの間そうやって遊んでいたが、ふと新世がその動きを止めた。 その真面目な表情はどうや 聞き耳を立てているように見えた。 そしてすぐさまリトを片翼に乗せたまま体をひねり壁際に顔を寄せ岩壁に向かって呼びかけた。
『あのっ! すみません、あのっ! ――きゃっ!』
しかし壁から飛び出てきた握り拳大の黒い物体を避けるように身を引いて、そして困ったようにため息をついた。
壁から出てきたものが何だったのかリトには見えなかったが、『いとちゃんは見なくていいのよ』と新世がそれ以上見えないように翼で壁を作った。
そしてゆっくりとリトを抱き上げ、柵側へ寄る。 柵越しに見える海は夕日もほぼ沈みかけてその色を闇に溶かし始めていた。
『夜になっちゃう……』
静かな眼差しで水平線を見つめる新世を見て、幼いリトはこのお姉ちゃんが寂しがっていると思った。
寂しい、なんて感情を思い出したらリトだってお父さんやお母さんが恋しくなる。
リトは新世の目を見て告げた。
『めっ! いいこでおるすばん、してなきゃ』
少し怒った表情をしているであろうリトを見て新世はちょっとだけ目を丸くした。
リトは少し偉そうに続ける。
『おとーたんもおたーたんも、おしごとだから! ないちゃ、めっ! おうた、うたうよ?』
『おうた?』
新世の問いにリトは頷き、その可愛らしい口から舌足らずな歌を歌い出した。
その瞬間。
「――リト、……この歌って」
リトの隣で映像を見ていた弓が思わず困惑した声を上げた。 ラムールは反応しなかったが、佐太郎も苦笑した。
当の本人、リトは過去の自分の歌声を聞きながら頭を抱えた。
この歌は、覚えている。 お父さん、お母さんの言うことをきかなきゃ駄目だと自らに気合いを入れるために歌った曲だ。 意味のすべては分かっていないが、だが、言うことをきかなきゃ怖いよ、って歌。
そう、スイルビ村の孤児院を歌ったわらべ歌。
『悪いことするいけない子供は
北の孤児院に連れて行こう
そしたらあっというまに
むしゃむしゃむしゃむしゃ食べられる 』
そんな歌。
つまり、新世達を迫害する歌。
なんつー歌を歌うのだ、自分。
『わることする、いないこどもは、ちたのこじーんに……あっとゆーまのに、むたむたむたむたたべられる~』
しかし幼いリトはただ一生懸命に歌う。 寂しいの我慢しなきゃ、って気合い入れるために。
『ねっ? だたらね、いーこにしてなきゃ、めっなの』
『……え、ええ』
『いとがいるからね、ちゃみちくなんかないよ? わかた?』
よく分からないが新世を励ます始末。
『おへんじわ?』
リトがそこまで告げると、新世がクスクスと柔らかく笑った。
『はぁい。 わかりました。 いとちゃん』
『ちょちたら、いっちょにうたうよ? わることする~♪』
極めつけに、迫害歌、強制。
しかし新世は楽しそうに笑いながらリトの節に合わせて歌を歌う。 新世の歌声はこれが脅しの歌だということすら忘れてしまうような美しい響きを放っていた。
『むたむたむたむた、たべられる~♪』
リトは特にこのフレーズが気に入ったらしく、何度も新世と歌った。 その度に新世がリトの体をこちょこちょとくすぐるものだから、リトは上機嫌だ。 キャッキャッと笑い転げた。
何回か歌ったあと、再び新世の顔が何かを聞きつけたように動きを止めた。
すると、頭上――つまりこの牢の上にある崖側からだろうか、リトの名を呼ぶ村長達の声が風に乗って降りてきた。
新世はリトを抱き上げると急いで海側に寄る。 頭上から吹きおろす風が数人の大人の声を届ける。
『リトー!』
『どこにいる、リトー?! 帰っておいでー!』
その中にはリトの祖母の声もある。
新世は柵にぴったりと寄り添ってその声に応えた。
『あのっ! お嬢ちゃんはここにいます! ここにいます! 迎えにきてあげてください!』
しかし新世が何度、声を張り上げようとも、村長達のリトを探す声が止まることは無かった。
『風が……。 上から吹き下ろしてくる風が邪魔して私の声が聞こえていない……』
新世はほんの少し厳しい顔をしてリトの顔をしばし見つめた。
なんとなく不安になったリトはうっすらと涙目になる。
『ああ、大丈夫よ。 やっぱり泣かないで。 私が何とかするから……』
新世はあわててリトを抱きしめた。 幼子の泣き声はよく響く。 特にその子を探している者たちからすればなおさらだ。 リトを泣かせて村長達に気づかせようと思ったのかもしれない。
新世はリトをあやしながら呼吸を整えていく。
ふと。
リトの目の前に見えていた新世の耳が、人間と同じ形をしているそれの端が小刻みに震えてほんの少しだけ笹型に形を変える。
リトはちょっと不思議に思って新世の横顔を見つめた。
同じ人物なのに、どこか何か違う。
だけど、怖くはなかった。
その新世がすうっと息を吸い、細く細く息を吐き出しはじめた。
『θν――』
新世の口から聞き慣れない発音のすんだ響きが流れ始めた。
声というよりも、まるでフルートかオカリナの音色のような、きらきらと光る音。
すると牢の外の風の向きが渦をまいて変わり、海面から空へと流れ始めた。 その風の流れが新世の声を乗せて穏やかに響き渡る。
数秒間、新世はその声を出した後、ゆっくりと口を閉じた。 すると再び風の流れが変わり、祖母達の声が風に乗って上から降りてきた。
あんなに綺麗な音だったからさぞ感心した様子で口を開いただろうとリトは思ったが――
『な、な、何の音だっ!』
『か、風の流れが……』
どの声も戸惑いに満ちていた。
『まさか、あいつの声か?』
『まだ 生 き て い る の か ?』
『まさか!』
『もしかして、仲間を呼んでいるとか……?』
『ひ、ひ……』
ひいいっ、と叫び声をそれぞれにあげながら声は慌てふためきながら去っていった。 リト、リト、どこにいるんだい、リト、と、祖母の声が最後に小さく風に乗って届き、そしてその後は何も聞こえなくなった。
『……』
リトはただおずおずと新世を見つめた。
よく分からなかったが、村民は新世の声が気に入らなかったらしい、不思議だな、そんなことを思っていた。
新世はもう一度小さなため息をつき、それからリトを不安にさせないためだろうか、可愛らしい笑顔をこちらに向けた。
『さぁて、いとちゃん。 次は何をして遊ぼうかしら?』
天使みたいに愛らしい顔。
『それとも、おなか空いたかな? 待っててね、鳥さんに果物の実を持ってきてもらうから』
そして口笛を吹くと、カモメがよく熟れた桃の実をひとつ嘴にくわえて持ってきた。
新世はその桃の実にブツブツと小さく呪文をかけてからリトに与える。
呪文は回復呪文だったのだろうか、リトはその桃一つだけでおなかいっぱいになった。
それから再び、リトは新世の翼をカーペットがわりに敷いた上で遊び――眠たくなったら、新世が優しく抱っこしてゆらゆらと揺らしてくれた。
眠りについて、目がさめたら、もう柵の外はうっすらと明るくなりはじめていた。
周りを見回すと、リトは新世に抱っこされたままだった。
新世は壁に寄りかかって座ったまま、すうすうと小さな寝息を立てていた。
リトが体をねじると、回されていた新世の手がするりと離れる。
リトは新世を起こさないようにそっと身を離して地面に下りた。
ちくっ、と足の裏に軽い痛みが走り、リトは足下を見た。
「あれ?」
そこまで映像を見ていたリトが思わず小さな声を上げた。
「地面、濡れてる?」
呼び戻される感覚をつぶやいたとき、リトの祖母は、これから対峙する恐怖と戦う決意を固めるかのように唇を堅く結んだ。




