すやぴぴシンデレラ
隣のシートから応答はない。一騎は桜子を一瞥し、軽く腕を揺すってみるが、反応らしい反応はなし。
唯一、
「比良坂さん、起きてください」
「んっ………ぐー……」
「………図太いな」
見かけの割に。
この状況での爆睡は肝が据わりすぎている。無防備が過ぎると言ってもいい。
眠るまつ毛に、涙の粒が乗っている。眠り顔は青白く、一騎はホテル街で目の当たりにした桜子の号泣ぶりを思い出して、ため息とともに天を仰いだ。
(一体何があったんだろうか。あの社員があれほどまでに取り乱す事態となると――)
社内で見る比良坂桜子の印象。
それは質素で地味で――非常に物静かな中堅社員。
なお、営業事務としての能力は全くもって地味ではなかった。作成資料にそれとなく記載されている独自の見解や指摘の鋭さ。それらに一騎は感心しており、優秀だと常に数目置いていた。
その社員が「今日辞めたい」と子供のように泣き喚くなど、普段の成果物や就労態度を見る限りでは有り得ない事態。
余程の事情を抱えているのは確実だった。
その上で、桜子が口走っていた台詞の数々。それらは一騎の耳に、非常に不穏な響きに聞こえた。
――終わりです、何もかも。
――疲れたんです、だから……もう、いっそ……誰もいないところに……。
(まさか、自死する気じゃないだろうな)
その疑いを晴らす要素は、残念ながら得られていない。だから、ホテルではなくこの場所まで連れてきたわけなのだが――。
起きない桜子に痺れを切らし、一騎は車を降りて助手席を開ける。桜子の身体をそっと抱えて運び出すが、
「え、重っ……」
素で失礼な発言が出て口を噤んだ。
以降は黙ってエントランスまで向かい、最上階直通のエレベーターへと乗り込んだ。部屋の前に到着すると、虹彩認証が開始されてロックが外れる。音もなく開いた扉をくぐり、リビングフロアを突っ切って客間に向かうと桜子の体を慎重に、ベッドに下ろした。ぐっすり眠っていることを確認すると、速やかにその場を離れてドアを閉める。
「………さて、いつ起きるか……」
汗に濡れたシャツの襟元をぱたぱたとやる。
(起き次第、事情を聞こう。その後は親族に連絡して、ここまで迎えにきてもらおう)
リビングに戻りながら段取りを練る。
(家に入れたのは我ながら深入りしすぎか………いや、最善を尽くしたと思うしかない。放置して死なれるのが会社的には一番まずい)
スーツからスマートフォンを取り出し、上着を脱いで椅子の背に放る。
「けやき通りのホテル、と言ったな……」
検索して早々に特定する。通話履歴から発信し、応答した女性秘書にいつもと変わらぬ冷淡さで指示を出した。
「マリナ、けやき通りの……………ああ、そこだ。女性のみ向かわせて回収してくれ……詮索するな。誰にも言うなよ」
一方的に通話を終え、客間のドアを見てため息をつく。
――それから、数時間後。
桜子は、パチっと目を開けた。
「……んっ………?」
暗い。
目を凝らす。
薄ぼけた視界に、ぼやっ、と白い天井が見える。起きて下に着いた手には布――シーツが触れ、マットレスの弾力にベッドに寝ていたのだと確信するが、
「え………広い……」
目視できずともわかる、広すぎるベッド。
今朝いたホテルのシングルじゃない。
(……………というか、副社長は?)
心臓がドクドクと鳴る。ベッドを半ば飛び降りると、もつれる脚でドアを見つけてノブを掴み、力任せに押し開けた。
「っん――!」
パッ、と視界が一気に開ける。明るい光に目が眩み、桜子はンンッと顔をしかめた。
「っ……え……」
一言で言えばモデルルーム。高級な不動産広告で見るような絵面と同じ、あまりも広いリビングフロア。
正面には縦にも横にも大きな窓があり、ブラインドが少し開いた箇所からは、きらびやかな夜の風景がちらちらと覗いている。
そして、だだっ広いフロアの中央―――シックな黒いテーブルに一騎がいた。眼鏡をかけ、直前までノートパソコンを眺めていた目は今、僅かな驚きを孕んだ色で桜子の方に向けられていた。
「早いな。おはようございます」
「あの………ここって」
「私の家です」
「や、やっぱり………」
正直、ここがどこなのかは聞く前から明白だった。何故なら、目の前にいる一騎が今やスーツではなく私服を着て座っているから。
髪もセットされておらず非常にラフで、天上人の私生活を垣間見てしまったと、桜子は恐縮のあまりにドアに背中をつけたままで動けずにいた。
「朝まで寝るだろうと思っていました」
一騎はパソコンを閉じて眼鏡を外す。椅子を離れ、キッチンと思しき遥かかなたのスペースに向かうとコーヒーを淹れて戻ってきた。カップをテーブルに置き、桜子に示す。
「今20時です。………比良坂さん、どうぞ」
「はい………ありがとうございます」
促されるまま、桜子は一騎の対面に座る。
人間の適応力は侮れない。
羞恥心が極限を超えた結果、桜子の精神は逆に落ち着き、寝起きの際の混乱も今や鳴りを潜めていた。
一騎も桜子の様子に安堵をしつつ、それでも依然慎重に表情を窺っていた。
「あっ……お砂糖」
桜子はカップに添えられている角砂糖に目を丸くする。
「ひとまず5個にしましたが、足りますか?それで」
「はい……でも、どうして………」
「5階で何度も見ています。スティックシュガーを何本も束ねて開封し、カップに入れるあなたの姿を」
「……な、なんで、見て」
「会議に出ればわかります。私の席からだと、あなたの席が死角なく見える」
「え……」
(ということは……)
「………私、甘党なんです」
「知っています。フォークを使わずショートケーキを食べる人は初めて見ました」
「……コーヒー、いただきます」
(会社辞めよう。絶対に辞めよう)




