夢みたものは
静かな車内、二人はなかなか話さなかった。
フロントガラスの向こうには、大小のビルがみっしりと整列している。煌めく夜景は絶え間なく後方へと流れていき、外の灯りは、隣でハンドルを操作している彼の輪郭を一瞬間ずつ浮き彫りにする。
信号待ちのタイミングで、一騎はカーステレオをいじり始める。ザ、ザザッ、と羽音のようなノイズに次いで流れてきたのは八十年代の古い楽曲。
「あ……なつかし……」
思わず、桜子は呟いていた。
(昔、英語の勉強で良く聴いてたなあ。たしか、ボーカルの女の人は、三十代で亡くなってしまったんだっけ……)
「ご存じでしたか、この曲を」
「えっ……あっ、学生の頃に、良く聴いていまして……」
「奇遇だな。私もです」
「英語の教科書で知って……そこから他の曲も聴くようになって………副社長は……?」
「留学中に教授に勧められて知りました」
「シアトルでしたっけ、留学先……」
「ええ」
女性の優しいバラードと、一騎の低く静かな声。その二つを聴く内に、桜子の涙はいつの間にか止まっていた。
「他に好きな曲はありますか」
「えっと……この歌手の曲で、ですか?」
「この歌手に限らず、別のアーティストでも」
「私、日本の民謡……と言うのか、わらべ歌のようなものが結構好きで」
目を瞑り、思い出すのは――。
「《花いちもんめ》とか、《あんたがたどこさ》とか、《まるたけえびす》とか………変ですよね。もうとっくに大人なのに」
「別に変ではないかと。民謡特有の旋律には、私も心惹かれます」
共感に驚き、桜子は一騎の横顔を見る。
進路を見据える彼の顔は至って真面目で、茶化している風ではない。
(なんだろ、この時間……)
副社長と音楽を聴き、会話に興じて、そして何故か――このひとときに癒やしを求め、心地良く感じてしまう自分がいる。
(夢なのかな。寝れば、覚める夢……?)
夜景が霞む。
意識はおぼろに溶けていき、眩しい視界は徐々に、徐々にと暗転する。
*
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誰もいない5階のフロア。
桜子はキーを叩く指先を止め、時計を見やってため息をつく。
(22時?駄目だ、全然終わらない……)
腹の奥がズキンと痛む。重い痛みは一定のリズムで押しては引いて、じっとしていても体力を大幅に削ってくる。
(終わらせなきゃ。朝の会議に間に合わない……)
「はぁ……」
「――……比良坂先輩」
「っ!?すすす杉沢さん!」
「わわっ!ごめんなさい!」
ヒュン、と姫奈は頭を下げる。桜子はバクバク鳴る心臓を押さえ、後輩であり新入社員の女子を戸惑う瞳で眺めていた。
「ど、どうしたの?忘れ物?」
「違うんです。先輩のことが心配で」
長い巻き毛を指に絡め、姫奈は身を屈めて桜子の顔を覗き込む。
「先輩……もしかしてですけど、今日生理だったりしませんか?」
姫奈の視線はデスクに向く。そこには鎮痛剤の箱とカイロのゴミが散らばっており、桜子は曖昧に笑って頷いた。
「初日で少し重たくて。でも大丈夫」
「大丈夫じゃないです!手伝いますからっ!」
姫奈は椅子を引っ張ってきて桜子のすぐ隣に座った。ブランドバッグからノートパソコンを取り出すと電源を入れ、桜子の方に向き直った。
「指示をください!」
「で、でも時間も遅いし」
「先輩の力になりたいんです!」
屈託なく可愛い笑顔。
頼もしく、明るい言葉。
眩しかった。
………嬉しかった。
「じゃ、じゃあ、この邦訳を頼んでいいかな」
「はーいっ!」
作業は目に見えて進み始める。
それまでの停滞が嘘のように、資料ページはサクサクと完成していく。
「先輩!ウォッシュタイプチーズの評価、直訳していいものでしょうか?」
「ん……あー……『刺激臭』って訳すのも間違いではないんだけれど、製品の特徴が欠点ぽく見えてしまう表現はなるべく避けた方がいいかも」
「む……」
「『熟成香』とか『個性的で力強い香り』とかにした方がいいと思う。例えば、『外皮はウォッシュされており、熟成由来の力強い香りを持つ』って訳しておけば、そのまま販促ポップに使えて楽かな」
「ふわあ……さすがは桜子先輩」
「あとここの訳も『納屋のような風味』というのは食品説明としては不適格かも。『熟成が進むにつれて、土の香りや野性味溢れるニュアンスが現れる』とかって訳すのが無難かな、この臭いチーズを評する場合は」
「直します!」
姫奈は高速で打ち直し、桜子がそれをチェックする。
やがて、時計の針が午前の時刻を指し示す頃、
「……よし、終わった」
「やったー!」
桜子はほっと息をつく。
姫奈は腕を上げてバンザイし、パソコンを閉じて伸びをした。
「んんんっ……先輩!お疲れ様でしたっ!」
「杉沢さん、助けてくれて本当にありがとう」
「いえいえ!すっごく勉強になりました!」
二人で互いを労い合う。以降だらだらと気を抜いて、デスクの上を整頓したり、取り留めのない雑談に興じたりする。
最中、フロアの外でエレベーターが『チン』と鳴った。
こんな時間に誰?と二人は怪訝に振り向き、その人物を視認して、姫奈は「ヒャッ」と声を上げた。
「ヒャッ!っと、ととととと戸塚先輩……!」
「おつー」
「……戸塚さん。お疲れさまです」
凌は笑ってやってくると、持参したコンビニ袋をデスクに置いた。
「比良坂さんに差し入れしたくて」
袋の中には、チョコレートやシュークリーム、プリンなど、様々な甘味が詰められている。
「残業してるって聞いてさ。でも杉沢さんまで残ってるとは思わなかったな」
凌は姫奈に笑いかけ、桜子の肩をぽんと叩く。顔を寄せると耳元で、
「……馬鹿、無理すんなよ」
深夜のオフィス。
三人で甘い物に舌鼓をうち、愚痴をこぼして笑い合う。
間もなく各自が帰途につき、桜子と凌は途中合流をして手を繋いで夜道を歩いた。
平凡で、間違いなく幸せだった。
忘れたくても忘れられない、在りし日の夢――。
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都内マンションの地下駐車場。
その一区画、漆黒の高級車が影のように停止する。
「――……比良坂さん」




