裏切りと、伸びる魔の手と救いの手
(お昼……何食べよう……)
不思議と空腹は感じなかった。
昨晩から、何も食べてはいなかったのに。
桜子はカバンを漁ると、スマートフォンと財布を持って廊下に向かった。屋上に続く非常階段の扉を開けて、上の階へと登り始めた。
屋上まで、わざわざ脚を使って向かう者はほとんどいない。そのためこの階段は基本誰にも使われていない。
それこそ、桜子くらいにしか。
(ぅ……脚バッキバキ……)
呼吸は上がるが、椅子に座り続けて凝り固まった筋肉は少しずつほぐれて楽になる。一定の速度で地道に登り、三分の二ほどの地点に差し掛かった頃――。
「だから……話したって……」
ひた、と脚を止める。
上がる呼吸を必死に抑え、桜子はジッと耳を澄ます。
「本当だって。出ていかせたから大丈夫だ」
(………凌?)
この声、凌だ。
凌が女性と会話している。
「でも無理やりにでしょ?もしバレたら……」
(あれ?この声……)
桜子は身を屈めて、上階の踊り場をそっと覗いた。声の感じにまさかと思うが、見覚えのある亜麻色の巻き毛に呆然とする。
(姫奈ちゃん……?)
杉沢姫奈――桜子の後輩であり、唯一プライベートでも仲のいい女性社員。その彼女が今、凌と肩が触れる距離にいて話をしている。
「もしバレたらどうするの?私、お金持ってない……」
「平気だって。姫奈はなんも心配するな」
「うぅ……ねぇ、出ていく時、桜子先輩どんな感じだった?」
「ヒスってたよ。でも今朝は普通に話せてる。態度は少し悪かったけどな」
「えーん………絶対怒ってるよお……」
「無視してりゃあいい。親いないだけ良かったと思うよ、マジで。一家総出で来られると面倒だからな」
「そうだけどぉ……凌先輩のんきすぎるよぉ……」
(どういうこと?)
桜子は、爪が食い込むほどに拳を握る。
「それに、申し訳なくなってきちゃって……」
「あいつに?いや、思ってないだろ」
「思ってるもんっ!桜子先輩、三十路近いし……ひどいことしちゃったなって思ってる……」
「仕方ないだろ。好きになっちまったもんはさ」
「だけど………う、うぇっ……」
「うわっと、どうした」
「うー……胃のとこ、ずーっとムカムカしてる……」
「吐き気止めとか飲めないの?」
「薬は基本飲めないのー……」
「辛いよな。ごめんな、一人で頑張らせて」
「ううん………ね、ここ、ちょっと触って」
「ん?うわっ……え、マジ?ちょ、エロいって……」
「んふふっ……」
その先はもう、聞かなかった。
桜子はそっと後ずさり、靴の音を立てないように階段を下る。デスクに戻ってパソコンを切ると、上長の席まで一直線に歩いていった。
「課長すみません、体調が優れなくて――」
早退した。
(私、裏切られてたってこと?)
頭の中、疑問符が躍る。
(いつから?なんなのあの会話?)
(親いなくて良かったって、本気で言ってる?)
(「吐き気が」って………デキちゃったってこと?それで私が、邪魔になったってこと?凌……)
気がつけば、桜子はふらふらと繁華街を歩いていた。
亡霊のように行き交う人。
チカチカと点滅する信号。
クラクションの高らかな音。
光と音の洪水の中、目的地を決めずにひたすら歩いた。
そして、日没が近づくにつれて、桜子を取り巻く風景は怪しげな色彩へと変貌を遂げていく。
オレンジの空。
派手な看板のイルミネーション。
休憩3980円。
男女の睦む笑い声。
「……おっと!」
「!?あっすみませっ――」
すれ違い様、人にぶつかり我に返った。
よろめく腰に腕が回され、桜子は間一髪転倒を免れていた。
「すみません!よそ見、してて……」
「いえいえ、こちらこそすみません」
灰色スーツの中年男は、桜子が下げる後頭部に声を降らせる。
「顔色が悪いですよ。もしかして酔ってますか?」
「い、いえ……」
「心配だ。君は休んだ方がいいな」
腰に触れる男の腕に力がこもる。
「休める場所に行きましょう。一緒に行きます」
「い、いえ、結構です……」
「大丈夫、不快なことは何もしません。一人にするのが心配なだけですから、安心して」
「………いえ……」
これまで、凌ではない男性からの接触は頑なに拒み、回避してきた。ただ、この時は他人の温もりと優しさとに飢えていたのか、食事を取っていなかったからなのか――拒絶する気力と意志が極端に希薄になっていた。
「結構ですから……」
力が入らず、逃れられない。
「怖がらないでください。休ませてあげるだけですから。ほら、手がこんなにも冷たい。寒いでしょう?」
「………寒い……」
「私もです。一緒に、温かい部屋で温かい飲み物を飲みましょう。ご馳走しますよ」
「…………。」
その時、
「私の連れです!」
空気を切り裂く男の声に、桜子の鈍る意識は一瞬にして覚醒する。
次の瞬間、
「きゃっ!」
背後から腕を掴まれ、灰色スーツの男のそばから強引に身を引っ剥がされた。
桜子は驚きつつも自身を引っ張る男の手を見、「あ、ロレックス」などとのんきに思う。
それからようやく顔を上げ、その人物を視認して――「ひえっ」と小さく悲鳴を上げた。




