DVされても朝は来る
朝の日差しがちらりと揺れて、桜子の閉ざした瞼をいたずらに撫でる。
「っ……まぶしっ………」
腕を伸ばしてスマートフォンを確認する。時刻は朝5時30分。アラームで仕掛けた時刻より一時間以上も早い。
(……二度寝しよ)
手の甲で目元を覆う。目を瞑り、訪れる闇に意識はすぐさま持ってかれるが、
――女に見れないって言ってんだろ!
「……っ、はぁ………最悪………」
(もう起きよう)
二度寝を諦め、体を起こした。
直後、ズキッ、と横腹のアザに痛みが走り、身を縮めて呻きを上げた。
「痛い…………」
痛むのは当然、体だけじゃない。
「…………ひどいよ」
膝を抱えてうずくまる。
しばらくそのまま動けなかったが、また一つ息を吐き出すとノロノロとベッドを降りた。
「はぁ……」
憂鬱。
朝だというのにため息が出て止まらなかった。そのくせ、鏡に映る自分の顔は、いつもと大して変わらない。
(良かった。泣いて目を腫らしてなくて)
自身の気丈さを褒め称えつつ、少し熱めのシャワーを浴びた。長い黒髪を丹念に乾かし、いつも通りキッチリとしたポニーテールに結い上げた。
「……今日も一日、頑張ろうねー……」
から元気を振り絞る。それでも無理やり笑顔を作り、鏡の自分にエールを送った。
スーツの上着に袖を通してコートを羽織ると、何食わぬ顔で部屋を出た。
桜子の足が向かった先は、大手商社の有山商事。
世界各国から飲料や食材、菓子類を輸入し、国内の小売や外食産業へと流通させる、食分野に強みを持つ総合商社だ。
大通りに面した高層オフィスは、宿泊しているホテルからそう離れていなかった。いつもより時間に余裕があるため、道中のカフェでコーヒーを買った。備え付けの角砂糖を何個も落とし、冬の澄んだ晴天を見上げて悠々と散歩気分を味わった。
間もなくオフィスに到着すると、エレベーターで5階に上がる。チン、と鉄の扉が開いた瞬間、ざわめく声と人いきれとが体をワッと包み込む。
聞こえてくる。
キーボードのカタカタ鳴る音。
書類の擦れるカサカサ音。
恋人に捨てられた翌日でも、桜子を取り巻く世界――戦場は何も変わらない。
そしてもちろん、彼もいる。
当たり前に、自分のデスクに。
桜子の席の斜め前方、ほんの数メートル先に、凌の茶色い髪が見える。彼は背筋を伸ばしてあくびをしており、スッと後ろを振り向くと、
「おっはよ!比良坂さん」
「……おはようございます」
バチッ、と目が合う。
凌の口角が、ニィッ、と上がる。
無表情の桜子とは対照的に、凌は笑顔でやってくると、手に携えた書類を広げた。
「覚えてる?この案件」
「オーガニックワインの販促企画の件ですね」
「そそ、それそれ」
凌はタメ口、桜子は敬語。
周囲に交際を隠している都合上、特に桜子の方が気を遣って他人行儀を貫いていた。
「その案件が何か」
「上層部との会議用にプレゼン資料を作ってほしい。国内の輸入ワインの価格帯別シェアと、最近伸びているECチャネルの販売比率をグラフで載せて。あと競合ブランドの販促事例も」
「期限は?」
「今日の午前」
「午前………また短納期ですか?」
「うん。大丈夫大丈夫!比良坂さんなら余裕っしょ!」
「はぁ……?」
毎度のことだが、凌は平気で急ぎの仕事を投げてくる。普段は何も言わずに請け負っている桜子だったが、昨日の今日でその態度?と内心非常にモヤッとしていた。せめて一言謝るなり、悪びれるなりしてくれれば良かったものを、と。
「会議の日時は?」
「今日の午後一を予定してる。だから今日の午前にほしいって話で………あ、そうだ。ついでに各種メーカーのブランドストーリーを日本語訳で載せてくれるとありがたいんだけど」
「必須ですかそれ」
食い気味に遮り、ぴしゃりと返す。
「時間が足りません。必須事項ならともかく、仏・独・伊の訳までやるとなりますと、プレゼン資料の完成度を三割程度下げる他ありません。上層部にお披露目される資料であれば、思いつきの事項はなるべく入れないほうがいいと思います」
「あー……まあ、そうか。じゃあいいや。それは後で」
「承知しました。出来次第メールします」
「お、おう」
反論されると思っていなかったのか、凌の笑顔は引きつっていた。桜子はパソコン画面に向き直って作業を始め、凌は物言いたげな視線を向けて暫しその場に立っていたが、やがて茶髪をくしゃくしゃ乱すと、何も言わずに自分の席へと戻っていった。
(せいせいした)
桜子は溜飲を下げつつ、データベースを検索する。並ぶ数値をグラフの形に落とし込み、資料の体裁を整えていく。
気がつけば、小休憩すら一度もとらずに資料を完成させていた。最後のエンターキーを押し、顔をあげて前方を見る。
凌は、デスクにいなかった。
(早めに休憩行ったのかな?会議は午後一と言っていたから)
深読みはせず、作成した資料をメールに添付し、本文に定型文を書き添える。
「……送信っ」
その時、
――リーン……ゴーン……
古めかしいチャイムの音がビル全体に鳴り響いた。昼休憩を告げる合図に、人々の波は一斉に移動を開始する。
桜子も席を立ち、腰をさすって背筋を伸ばした。




