第六話 七つの春
第六話 七つの春
牛若が七つになった春、常盤は庭に置かれた椀の数に気づいた。
いつも使うものが二つ、客に出すものが三つ。祖母の椀まで混じっている。
「牛若、夕餉の支度ができなくなるわ」
「もう少しだけ」
牛若は土の上に小石を並べ、椀と椀の間を指でなぞっていた。
常盤が近づくと、町で見た道を表しているのだと言う。
「ここが市で、こっちが六波羅?」
「うん。車が通ると、この道が塞がる」
牛若は石を一つ脇へ動かした。
「でも、こっちの道を使うと、荷を運ぶ人が遠回りになる。どちらを先に通せばいいのかな」
常盤は、牛若が六波羅の道を覚えていたことに驚いた。
あの日、薪を落とした男を見てから、通るたびに道幅を気にしていたらしい。
「今日は、まだ決めなくていいわ」
「でも明日も車は通るよ」
牛若が顔を上げたところへ、長成の家人が庭先に現れた。
「常盤様。六波羅より、清盛殿がお見えです」
常盤の表情が変わった。牛若は小石を見下ろす。
「片づけたほうがいい?」
「その前に、手を洗ってきて」
牛若が井戸へ向かう間、常盤は椀を拾った。土に残った道筋は、消さずにおいた。
長成が廊から庭へ出てきた。牛若を呼び止める。
「牛若殿。清盛殿がお見えになる。母君と一緒に、こちらへ」
「はい」
牛若は手を洗い、常盤のそばに戻った。長成は二人を連れ、客を迎える場所へ向かった。
*
清盛は、供を庭の入口に残していた。長成が迎えに出ると、二人は短く挨拶を交わす。
「大相国様。ようこそお越しくださいました」
「急に参ってすまぬな」
長成は一礼し、常盤と牛若のもとへ清盛を案内した。牛若もその隣で膝をつく。
土の上に描いた道が、まだ消えていない。清盛はそれに目を留め、足を止めた。
「これは?」
「牛若の遊びでございます。すぐに消させます」
常盤が言うと、清盛は首を振った。
「消さずともよい。牛若、何を描いた」
牛若は顔を上げた。六波羅で会ったときの清盛を覚えてはいない。
ただ、母がこの人に向ける声は、ほかの客に向けるものと違う。
「京の道です」
「椀を置いておったそうだな」
「はい。人や荷を載せた車のつもりで」
清盛は、線を踏まないよう庭へ入った。牛若が描いた道のうち、一本だけが大きく曲がっている。
「この道は、ずいぶん遠回りだ」
「車が通ると、ほかの人はそちらへ回ります」
「車を退ければ済むではないか」
牛若はすぐには答えなかった。相手は道の車を動かせる人だ。
そう思ってから、自分が知りたいのは車を退けられるかどうかではないと気づく。
清盛は答えを急がせず、牛若を見ている。
長成も、土の上の道へ目を落としていた。
*
「明日も車が通るなら、また退けねばなりません」
牛若は土の上の、曲がった道を指した。
「車の通る刻が分かれば、その前に荷を運ぶ人は通れます。
歩く人も、いつ道を空ければよいか分かります」
「荷車のほうが遅れたら?」
「少し待ってもらいます。通りの人に、何刻も待たせるよりは」
清盛は牛若の指先を見ていた。
「それを、誰が決める」
牛若は口を閉じた。
餅屋の前で薪を落とした男のことは、まだ覚えている。
道を行く人が「車は後にしてくれ」と頼んでも、聞き入れられなかっただろう。
常盤の手が肩に触れる。牛若は土から顔を上げ、言葉を選んだ。
「車を通すお方が、決めてくだされば」
供の者が庭の入口でわずかに身を動かす。清盛は振り返らなかった。
「その者が、人の話を聞かなければどうする」
「車が通る道を、自分の足で歩いていただきたいです」
言い終えてから、牛若は母を見た。常盤は何も言わない。ただ、肩に置かれた手に力がこもっている。
清盛は土に描かれた道を見下ろした。
指で曲がり道の端をなぞり、その先に置かれた小石を一つ動かす。
「ここを広げてはならぬのか」
「家があります」
「家を移せばよい」
「そこに住む人は、どこへ行くのですか」
清盛の指が止まった。牛若も、それ以上は続けなかった。
*
清盛は小石を元の場所へ戻した。
「では、そなたならどうする。車も通し、家も動かさぬと申すなら」
牛若は線の端を見た。すぐには答えず、市へ向かう道を指でたどる。
「ここに人を立てます。車が来る前に知らせれば、荷を担ぐ人は先に通れます。
車も、道を空けるのを待たずに済みます」
「その道番の働きに、誰が銭を払う」
「車を通していただくお方です」
清盛が笑った。
「わしに、道番を養えと言うか」
常盤の手が牛若の肩から離れた。牛若は清盛の顔を見て、言葉を選び直す。
「人が通れぬほど車を待たせるよりは、少なく済むと思います」
清盛は答えなかった。土の上に引かれた線を、端から端まで眺める。
七つの子が描いた拙い道だが、車を通すために何を変え、誰がその手間を負うのかまで考えている。
「牛若」
「はい」
「面白いものを見せてもろうた」
清盛は供の者へ振り向いた。
「紙と筆を持ってまいれ。この子への褒美だ」
常盤は深く頭を下げた。牛若も倣う。顔を上げると、清盛はまだ自分を見ていた。
先ほど笑ったときと同じ顔のはずなのに、牛若は少しも笑い返せなかった。
供の者が紙と筆を取りに去る。清盛は常盤に聞こえる声で、穏やかに言った。
「描いた道を、今度は紙に残してみよ」
「……かしこまりました」
牛若が答えると、清盛はうなずいた。その視線が、牛若の背後に立つ長成へ移る。
*
供の者が紙と筆を運んできた。
「受け取れ」
牛若は両手を差し出す。紙を載せられると、思っていたよりずっと重い。
筆が転がらないよう、上からそっと押さえた。
「道の続きを描いてみよ」
清盛は牛若に笑いかけ、それから常盤に言った。
「七つになったそうだな」
「はい」
「兄らは寺で学んでおる。牛若にも、頃合いであろう」
常盤の顔から色が引く。牛若は紙を持ったまま母を見た。
「どちらへ、参らせるおつもりで」
「鞍馬がよい」
牛若は山の名を知っていた。兄たちからの文にも、京から遠く見える山のことが書かれていた。
けれど、自分がそこに住むとは考えたことがない。
「この子は、まだ私のそばにおります」
常盤の声は、清盛に向けるには強かった。
「寺へ入れば、会えぬわけではない」
長成が、常盤の隣で静かに口を開いた。
「鞍馬は、今若殿や乙若殿のお寺よりは近うございます。
しかし、気軽に訪ねられる距離ではありません。常盤殿のお気持ちも、すぐには整いますまい」
「承知しておる」
清盛は常盤へ向き直った。
「寺へ入れるのは、そなたから引き離すためではない。書を読ませ、世を知る機会を与えるためだ」
「この子は、まだ私のそばにおります」
常盤は同じ言葉を繰り返した。牛若は、紙の端を握る指に力を込める。
長成は牛若を見たあと、清盛へ一礼した。
「寺との話や、送り出す支度は私が整えましょう。
入山の後も、母子の便りが途切れぬよう取り計らいます」
常盤は長成を見た。止めてほしかったのかもしれない。けれど、長成はその目を受け止め、続けた。
「常盤殿。牛若殿が学ぶことを、妨げたくはありません。
ただ、送り出す日まで、母子で過ごす時をお与えください」
清盛は短くうなずいた。
「支度が整えば知らせよ。急がせはせぬ」
常盤は返事をしなかった。牛若も紙を抱えたまま、母の顔を見上げる。
清盛は、土に描かれた道を踏まぬよう庭を出ていった。
長成がその後を見送り、供の者たちへ礼を述べる。
常盤は牛若の前に膝をついた。紙を持つ手へ、自分の手を重ねる。
*
永万元年(一一六五年)、牛若が鞍馬へ向かう朝、常盤は荷を何度も確かめた。
「紙と筆は、ここにあるわね」
「あります」
「寒いときの衣も」
「入れてくださいました」
「そうだったわね」
常盤は荷を結び直す。牛若は黙って待った。
庭に描いた道は、雨でとうに消えている。清盛から賜った紙には、まだ何も描いていなかった。
「寺へ行けば、兄上たちのように文を書けますか」
「ええ。習わせていただけるはずよ」
「母上にも送ります」
「待っているわ」
常盤は答えたが、荷の紐から手を離さなかった。
牛若がその手に触れると、ようやく顔を上げた。
門には、長成が手配した送りの者が待っていた。
長成自身も見送りに出て、牛若の荷が揃ったのを確かめている。
「寺へ入ったら、和尚様に頼んで文を出しなさい。こちらからも便りを届ける」
「兄上たちにも、会いに行けますか」
「すぐには難しい。だが、日を選んで訪ねよう」
長成はそう答えた。常盤も牛若の襟を直す。
「私が余計なことを言ったから、母上まで……」
「牛若」
常盤は牛若の前に膝をついた。
「あなたは、通りで見たことを話しただけよ」
「でも、清盛殿は笑っておられました」
「ええ」
常盤はそれ以上を言わなかった。長成も、口を挟まず二人のそばにいた。
「紙をくださったのも、あの方よ」
常盤の言葉に、牛若はうなずいた。
褒美をもらったことも、寺へ行くことになったことも、同じ日の出来事だった。
迎えの者が門で待っている。常盤は荷を牛若に渡し、乱れた襟を直した。
今若と乙若を送り出した朝にも、こうして襟に触れた。
「会いに行くわ」
「はい」
「文が書けるようになる前にも」
牛若は少し笑った。常盤が手を離す。長成は、送りの者へ牛若を頼むよう告げた。
牛若は荷を抱えて門へ向かった。一度振り返り、母と長成の姿を見てから、迎えの者のあとを追った。
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