第一話 山の戸
第一節 山の寺
第一話 山の戸
門をくぐっても、牛若はしばらく振り返っていた。
母の姿はもう見えない。山道の曲がり角に、揺れる枝があるばかりだ。
「寒かろう。中へ入るぞ」
迎えに出た僧が声をかけた。牛若はうなずき、母から持たされた包みを抱え直す。
中には着替えと、清盛から賜った筆が入っている。
僧の後について廊を歩くと、どこかで子どもが笑った。
すぐに年長の僧にたしなめられ、ぱたぱたと足音が遠ざかる。
「ここには、おまえと同じ年頃の稚児もおる。じきに顔を合わせよう」
「はい」
「牛若、といったな」
「はい。母上は、そう呼びます」
僧は歩みを緩め、牛若が隣に来るのを待った。
「今はそれでよい。まずは、寺の暮らしに慣れなさい」
通された部屋には、畳まれた寝具が一つ置かれている。僧は部屋の隅を指し、荷をそこへ置くように言った。牛若が包みを下ろすと、中の筆が転がり、布の端からのぞいた。
「筆も持ってきたのか」
「いただいたものです」
「ならば、しまっておくとよい。書くことは、これからいくらでもある」
牛若は筆を包み直した。母が結んだ紐は固く、ほどくときには苦労しそうだった。
僧が廊へ出る。牛若も続こうとして、開いたままの戸から山道のほうを見た。
「帰りたくなったか」
振り向いた僧に、牛若はすぐ答えられなかった。
「母上は、もう京へ着かれたでしょうか」
「まだ麓であろう」
僧は急かさずに待っている。
牛若は戸を閉めた。
「では、明日には」
「そうだな。明日には着かれよう」
牛若は僧のそばへ歩いていった。母に呼ばれたら、まだ振り向いてしまいそうだった。
僧について廊を曲がると、さっきの笑い声がまた聞こえた。
板敷きの部屋に、牛若より少し大きな子が三人並んでいる。
一人だけ口を押さえていたが、目が笑っていた。年長の僧がその頭を軽く小突く。
「客が来た途端に騒ぎよって」
「まだ騒いでおりませぬ」
「『まだ』とは何だ」
ほかの二人まで笑い出す。牛若を案内してきた僧も、困ったように眉を上げた。
「今日からここで暮らす牛若だ。面倒を見てやってくれ」
口を押さえていた子が牛若を見る。
「おまえ、どこから来た?」
「京」
「山道、きつかったろ」
「少し」
「少し?」
その子は牛若の細い足を見て、信じられないという顔をした。
「私は途中で二度も座り込んだぞ。荷を持ってくれた僧に、三度目は置いていくと言われた」
「置いていかれたの?」
「いや。だからここにおる」
牛若が笑うと、子も得意げに笑った。
やがて膳が運ばれてきた。牛若はほかの子の手つきを見てから箸を取る。
隣の子は、さっきまでよく喋っていたのが嘘のように黙って食べていた。
汁を飲むと、体の奥が温まった。朝から何も口にしていなかったことを思い出す。
牛若が夢中で食べていると、隣から小さな声がした。
「熱かったか」
「ううん。おいしい」
「そうか。初めは皆、薄いと言う」
「おまえも?」
「言うた。聞かれて、明日の分はいらぬのかと叱られた」
牛若は吹き出しそうになり、慌てて口を閉じた。
向かいの僧に見られた気がしたが、何も言われなかった。
食事が終わると、子どもたちは器を下げに立った。牛若も自分の膳を持ち上げる。
「そこじゃない。こっちだ」
隣の子が肘で道を示してくれた。
夜、部屋へ戻ると、母が結んだ包みが朝と同じ場所にあった。牛若は寝具に入る前に紐へ触れる。ほどけば、母の手で畳まれた着物が見える。それは明日に取っておくことにした。
戸の向こうを誰かが走り、年長の僧に呼び止められる。昼に笑っていた子の声だった。
牛若は少し笑ってから、寝具にもぐった。明日、あの子の名を聞こうと思った。
袖を引かれて、牛若は目を覚ました。
「母上……?」
「違う」
昨夜、汁の話をした子が寝具の脇にしゃがんでいる。
牛若が目をこすると、その子は口元を袖で隠した。
「鐘が鳴った。起きぬと呼びに来るぞ」
外はまだ薄暗い。牛若は寝具から出て、戸の隙間に見える山を眺めた。朝なら母はもう起きているだろう。都の家では、自分が目を覚ます頃には、いつも台所から声が聞こえた。
「早く」
せかされて振り向くと、子は牛若の寝具まで半分畳んでいる。
「自分でできるよ」
「なら、残りをやれ」
牛若が端を持つと、二人の手がぶつかった。子の指先は冷たい。
「名を聞いてもいい?」
「千寿」
「ぼくは牛若」
「昨日聞いた。おまえは、私の名を聞いておらなんだな」
少し拗ねた声だったので、牛若は笑ってしまった。
千寿は寝具を畳み終えると、何も言わずに戸を開ける。
廊に出た途端、冷気が頬を刺した。千寿が先を行き、牛若も後を追う。
曲がり角で千寿が立ち止まった。
「桶を持つ」
「何に使うの?」
「水だ。朝の分を汲んでおく」
二人で裏手へ回ると、細い流れのそばに桶が置かれていた。
千寿が一つを取り、牛若に渡す。牛若は教わる前に水を汲んだが、持ち上げた途端に縁からあふれた。
「あ」
履物の先まで濡れてしまう。
「いっぱい入れると、そうなる」
「先に言ってよ」
「聞く前に汲んだろう」
言い返せずにいる牛若の手から、千寿が桶を取った。少し水を戻して、持ち手を握らせる。
「これくらいなら運べる」
「千寿のも、半分だ」
「私もこぼしたことがあるからな」
千寿は得意げな顔のまま、先に歩き出した。
牛若は桶を揺らさぬよう、歩幅を小さくする。母と並ぶときは、向こうがいつも自分に合わせてくれた。前を行く千寿も、振り返りはしないが、角を曲がらずに待っている。
「千寿」
「何だ」
「さっき、母上と間違えてごめん」
千寿の肩が少し動いた。
「……寝ぼけておったのだろう。別に怒っておらぬ」
牛若が追いつくと、千寿はまた歩き始めた。二つの桶の水面に、明るくなりかけた空が揺れていた。
二つの桶を台所へ運び終えると、牛若の履物はすっかり濡れていた。
「何をした」
水を受け取った僧が足元を見る。牛若が口を開くより早く、千寿が「水を汲みすぎました」と答えた。
「誰が」
「……二人で」
僧は二つの桶を見比べた。千寿のほうは少ししか減っていない。
問い詰める代わりに、乾いた布を牛若へ渡す。
「足を拭いておいで。冷えたまま座っては、腹を痛める」
牛若は礼を言い、廊の端に腰を下ろした。千寿も隣にしゃがむ。
「どうして、二人でって言ったの?」
「私が先に教えておれば、こぼさずに済んだ」
「でも、勝手にいっぱい汲んだのはぼくだよ」
「そうだな。次は聞け」
千寿が涼しい顔で言うので、牛若は布を握ったまま笑った。
千寿は立ち上がりかけたが、牛若の手を見てまた座った。指が赤い。
「水、冷たかったな」
「うん」
「明日は私が先に汲む。どれくらい入れるか見ておれ」
牛若は足を拭きながらうなずいた。明日も千寿と水を汲むのだと思うと、朝が少しだけ怖くなくなる。
部屋に戻って着替えを出す。母が結んだ紐は、やはり固かった。
牛若は何度か引いてから、爪を結び目に入れる。ほどけた途端、布の間から小さな紙が落ちた。
母の字で、寒いときには重ねて着るように、とある。短い言葉の最後に、牛若の名が書かれていた。
牛若は紙を裏返した。ほかには何もない。
「何か入っていたか」
戸口から千寿がのぞく。
「母上が、着物のことを」
「そうか。早く着ろ。また叱られるぞ」
牛若は紙を畳み、着物の袖にしまった。指先がまだ冷たい。
母はそれを見たわけでもないのに、ここで寒がる自分のことを考えていた。
千寿が廊から呼ぶ。
「牛若、来られるか」
「うん。今行く」
返事をしてから、もう一度袖の上を押さえた。帰りたいとは思う。
それでも明日は、千寿が水の汲み方を見せてくれる。
廊へ出ると、千寿は牛若の足元を見た。
「乾いたか」
「うん」
「なら、こちらだ」
千寿に連れられて入った部屋には、ほかの稚児たちが座っていた。
前にいる僧の傍らには、紙と筆が積まれている。
牛若が空いた場所に座ると、僧は一枚ずつ紙を配った。
「今日は昨日読んだところを書いてみよ。牛若は、書ける字だけでよい」
牛若の前に置かれた紙は白い。筆を持つと、母の包みに入っていた短い文が浮かんだ。寒いときには重ねて着るように。あれを書いたとき、母は自分がこの部屋に座っていることなど知らなかったはずだ。
牛若は筆先を墨につけた。
「違う」
隣から千寿がささやく。
「まだ始めると言われておらぬ」
牛若が顔を上げると、僧もこちらを見ていた。
「何を書くつもりだった」
牛若は筆を戻した。
「母上へ、文を」
「今か」
「……はい」
ほかの子がこちらを見る。牛若は紙の白いところに目を落とした。
僧は少し考え、積んであった紙をもう一枚、牛若の脇へ置く。
「こちらは稽古の紙。母君への文は、そのあとに書きなさい」
「よいのですか」
「まずは私の話を聞けるならな」
部屋の端で誰かが笑った。牛若も笑い、筆を置いて背筋を伸ばした。
教わった字を書き終える頃には、窓の外が明るくなっていた。
僧からもらった紙を前に、牛若はしばらく筆を持ったまま動けない。
母に会いたい。そう書けば、母を困らせるだろうか。
「何を書くか、決まらぬのか」
千寿がのぞこうとするので、牛若は紙を腕で隠した。
「見ないでよ」
「まだ真っ白ではないか」
千寿は笑って離れたが、牛若が筆を下ろすまで、隣で自分の道具を片づけながら待っていた。
牛若は初めに、寺へ着いたことを書いた。
それから水を汲んだこと。少し迷って、千寿という子が一緒に運んでくれた、と続ける。
最後の行に来て、筆が止まった。
母の文を、もう一度読みたい。牛若は袖から紙を取り出し、膝の上で開く。
母の字の下に、自分の名がある。
牛若は新しい紙に向き直った。
母上に、会いたいです。
書いてみると、思っていたより短い言葉だった。
「牛若、終わったか」
「うん」
千寿に答え、墨が乾くのを待つ。文を畳むとき、牛若はその一行を消さなかった。
「京へ届けてもらえますか」
牛若が畳んだ文を差し出すと、僧は両手で受け取った。
「明日、都へ下る者がいる。託しておこう」
「明日ですか」
「早すぎるか」
「いえ」
牛若は文の端をもう一度だけ見た。書き直したければ、まだ返してもらえる。
けれど、あの一行を消した文を母に送りたくはなかった。
「お願いいたします」
僧が文を懐にしまう。牛若は頭を下げてから、廊で待つ千寿のもとへ走った。
数日後、常盤のもとに鞍馬から文が届いた。
牛若の字は、ときどき行から外れている。寺へ着いたこと。千寿という子と水を運んだこと。
履物を濡らしたことまで書いてあった。
「まったく、この子は」
常盤は笑いながら読み進め、最後の一行で声を失った。
母上に、会いたいです。
初めての朝に袖へ入れた紙を、牛若は見つけただろうか。
着物を重ねたか、足を拭いたか。文に答えはない。ただ、会いたいと書いてある。
常盤は筆を取った。
元気にしていること、食事を取っていることを書きかけて、やめる。
牛若はそんな返事を待っているのではない気がした。
紙を替え、牛若の名を初めに書く。
私も会いたいです。
墨が乾くまで、常盤はその文字を見ていた。たった一行でも、
牛若に届くには山を越えなければならない。続きを書こうと筆を持ち直し、今度は千寿の名を記した。
水を運ぶときは、千寿と仲よく。履物を濡らしたら、すぐに乾かすこと。
書き終えてから、常盤は少し笑った。これでは包みに忍ばせた紙と、言っていることが変わらない。
けれど最初の一行は、あの紙には書けなかった言葉だった。常盤はそれを消さずに文を畳んだ。
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