第二話 父の名
第二話 父の名
「牛若、それを戻してくれ」
僧に頼まれ、牛若は文の束を棚へ運んだ。紙の端がずれないよう両手で抱え、一つずつ重ねていく。
最後の一通を置こうとして、手が止まった。
義朝。
紙の表に、父の名があった。
「どうした?」
僧が近づいてくる。牛若は文を持ったまま振り向いた。
「父上のことが書いてあるのですか」
僧の視線が紙へ落ちる。
「古い文だ。ここへ出すものではなかったな」
取り上げようとした手から、牛若は文を引いた。自分でも驚くほど強く握っていた。
「読んではいけませんか」
「牛若」
「母上には、あまり聞けなかったのです」
父のことを尋ねると、常盤は答えてくれた。
だが話し終えたあとは、いつも少し黙った。その顔を見るのが嫌で、牛若も聞かなくなった。
「寺なら、分かると思っていました」
僧は手を下ろした。
「母君を困らせたくなかったか」
牛若はうなずく。文の端が指の下で折れかけていることに気づき、慌てて力を緩めた。
「それは父上が書いた文ではない」
「……はい」
「おまえの父上を、ほかの者がどう見たかを書いたものだ。それでも読むか」
牛若は紙を見た。知らない者の言葉で父を決めたくはない。
だが、何も知らないままでいるのも嫌だった。
「読みます」
「一度読んで、分かったつもりになるなよ」
僧は牛若の手から文を取らず、近くの机を指した。
「まず折れたところを直そう。そのあと、私と一緒に読め」
牛若が机に向かうと、廊の向こうから千寿が顔を出した。
「ずいぶん遅いな。まだ手伝いが終わらぬのか」
「少しかかる」
「また筆か?」
「父上の名があったんだ」
千寿はそれ以上、ふざけたことを言わなかった。
牛若の抱えた文を一度見て、「では、先に行っておる」とだけ言う。
牛若は机に文を広げた。紙の端を丁寧に伸ばし、父の名へ指を置く。
知っているのは、母から聞いたことだけだ。今日はもう少し知りたかった。
僧は文を広げ、牛若が追える速さで読み始めた。
都の戦が終わったこと。義朝が都を離れたこと。傷を負った者が、幾人も寺を頼ったこと。
牛若は父の名が出たところで身を乗り出した。だが僧は、すぐ次の行へ進んでしまう。
「待ってください」
「読めぬ字があったか」
「父上のことは、それだけですか」
僧は文を確かめた。
「ここには、それだけだ」
「都を離れて、どこへ行ったのですか」
「この文を書いた者は、知らなかったのだろう」
「そのあと、何をしたかも?」
「書いておらぬ」
牛若は文を見つめた。父の名は、確かにそこにある。なのに、いつも母と話していたときより、父が遠くなった気がした。
「これを書いた人は、父上と会ったのですか」
「いや。都で聞いたことを知らせた文だ」
「会っていないのに、どうして父上のことを書けるのですか」
声が大きくなった。牛若は唇を結ぶ。僧は叱らず、文の上に指を置いた。
「戦がどうなったかを伝えるためだ。おまえが知りたい義朝殿のこととは、違うな」
牛若はうなずかなかった。
「母上に聞けば、教えてくれます。でも、話したあとはつらそうで。
ほかに聞ける人がいると思ったのに」
父を知りたいと言ったのは自分だ。僧も文を読ませてくれた。
それでも、ここで終わりなのが悔しかった。
「父上は、どんな人だったんですか」
僧はすぐには答えなかった。
「私はお会いしたことがない」
「……そうですか」
「会ったことのある者なら、違う話をしてくれるかもしれぬ」
牛若は文から手を離した。父と話した人が、どこかにいる。
その人なら、紙に書かれていないことを知っている。
部屋を出ると、千寿が廊の柱に寄りかかっていた。
「先に行くって言ったのに」
「待っておらぬ。ここが涼しいだけだ」
「さっきから?」
「うるさい。腹が減った。行くぞ」
千寿は牛若の返事を待たずに歩き出す。牛若もその後を追ったが、角を曲がる前に文を振り返った。
父の名は、あの部屋に残っている。父を知る人の声を、いつか聞いてみたかった。
角を曲がると、千寿は食事の部屋の前で履物を脱いでいた。牛若も並んで座る。
千寿がいつもより静かなので、かえって落ち着かなかった。父の文を読んだことを、何か聞きたいのかもしれない。だが千寿は膳が来ると、牛若の分を先に寄せてくれただけだった。
牛若は汁を飲み、しばらくして口を開く。
「千寿は、父上の顔を覚えてる?」
「覚えておるよ」
「声も?」
「よく覚えておる。叱られると、寺の鐘より大きな声が出た」
千寿は笑いかけ、途中でやめた。
「牛若、私は……」
「今若兄上なら、覚えてるかな」
「今若殿?」
「うん。兄上は父上に会ったことがあるから」
牛若は箸を置いた。今若に聞こうと思ったことがない。
母に尋ねたときのように、兄も悲しい顔をするかもしれなかった。
「文を書いてみようかな」
「それがよい」
「でも、兄上が覚えてなかったら?」
千寿はすぐに答えず、自分の膳へ目を戻した。
「覚えておらぬなら、そう書いてくるだろう」
「……うん」
「私は今、父上のことをうまく話せなんだ。おまえの兄上なら、話せるかもしれぬ」
牛若は千寿を見た。千寿は照れくさそうに飯を口へ運ぶ。
無理に父の話をしてくれなくても、隣にいてくれるのは嬉しかった。
その夜、牛若は夢を見た。
知らない屋敷で、年上の男と向かい合っている。男が湯呑みを差し出した。
牛若はその手を見た途端、懐かしくなった。
「兄上」
男が顔を上げる。その顔を見る前に、牛若は目を覚ました。
鞍馬の部屋には、千寿の寝息が聞こえる。今若のことを考えて眠ったから、夢に見たのだろうか。
牛若は寝具の中でもう一度目を閉じた。今若の顔を思い浮かべる。
夢の男とは違う。そのことだけは、はっきり分かった。
朝、牛若は僧に紙を一枚頼んだ。
「また母君へか」
「今若兄上に」
紙を受け取っても、何と書くかは決めていなかった。
昨夜の夢に出てきた男のことは、今若に話しても分からないだろう。
牛若は筆を取り、父の顔を覚えていますか、と書いた。少し考えて、声のことも尋ねる。
文を畳んで僧に預けたあと、二つも聞くべきではなかったかと思った。
今若から返事が届いたのは、十日ほど後だった。
牛若は廊に座り、その場で文を開く。今若も、父の顔はもうはっきりと思い出せないという。
その先を読んで、牛若は顔を上げた。
「何だ」
そばを通りかかった千寿が足を止める。
「父上がね、栗をくれたんだって」
「おまえに?」
「今若兄上に。乙若兄上には内緒だって」
今若がこっそり受け取るところを、乙若に見つかった。
乙若も欲しがり、父は自分の栗を渡してしまったらしい。
「父上がいちばん損をしたって、兄上が書いてる」
「それで父君は怒ったのか」
牛若は文へ目を戻した。
「笑ってたって」
千寿が牛若の横にしゃがむ。
「顔は覚えておらぬのに、そんなことは覚えておるんだな」
「うん。栗をもらったときの父上の声も、少し」
「何と言った」
牛若は文の続きを読んだ。今若に栗を渡すとき、父は乙若に聞こえないよう小声で言ったのだという。
「見つからぬうちに食べよ、って」
「見つかったのか」
「すぐに」
千寿が笑う。牛若も笑った。
母の話に出てくる父は、いつも戦の中にいた。僧と読んだ文でも、都を離れる人だった。
今若の文にいる父は、内緒話が下手だ。
「千寿、これ、もう一度読む」
「勝手に読め。私は飯に行く」
「待って。すぐ行くから」
牛若は文を開き直した。
父の声を知りたいと書いて、今若が返してくれた言葉を、もう一度自分の声で読んだ。
牛若は今若の文を袖にしまい、千寿のあとを追った。
飯を食べても、栗を分けた父の話が頭に残っている。
今若が覚えていたのは、牛若の知らない父だった。母も、また違う父を知っているのだろう。
ならば、清盛はどうだろう。
七つの春に屋敷へ来たとき、清盛は牛若の父の名を一度も口にしなかった。
けれど、知らないはずがない。
牛若は食事を終えると、先日一緒に文を読んだ僧を捜した。
廊の端で筆を洗っている僧を見つけ、ほかの者が通り過ぎるのを待ってから近づく。
「清盛殿は、父上を知っておられますか」
僧は洗っていた筆を置いた。
「知っておられる」
「敵だったからですか」
「初めから敵だったわけではない。保元の乱では、同じ側で戦っている」
牛若は返す言葉がなかった。
今若の文にいた、栗を取られて笑う父。牛若に筆を与えた清盛。
二人が同じ戦場にいたというのに、どうしても姿がつながらない。
「いつ、敵になったのですか」
「それは保元の戦よりあとのことだ」
僧は答えてから、廊の向こうへ目をやった。牛若も振り返る。人の姿はない。
「保元では、おまえの父上が身内と戦うことにもなった」
「身内?」
「為朝殿。義朝殿の弟だ」
牛若は袖の上から今若の文を押さえた。自分と今若が、別々の側に立つ。
そんなことは考えたこともない。
「兄弟で戦ったのですか」
「そうだ」
「どうして」
僧は筆についた水を布で拭い、牛若を見た。
「話せば長くなる。それに、ここでは声を落としなさい」
「はい」
牛若が答えると、僧は少し驚いた顔をした。父の名をいつどこで口にしてよいか、
牛若は母の顔を見ながら覚えてきた。
「でも、知りたいのです」
僧は布を置いた。
「では、保元の戦から話そう」
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