幕間 母の新しい家
幕間 母の新しい家
今若と乙若の寺を訪ねる日は、別々に決めた。
今若のいる醍醐寺は京の南東にあり、乙若のいる園城寺は山を越えた近江にある。
牛若を連れて二つの寺を同じ日に回るのは難しい。
訪ねた日は、どちらか一人と会って帰るだけで日が暮れた。
兄たちの顔を見られるのは、そう何度もではなかった。
会えた日には、今若は寺で読んだ書のことを話し、乙若は庭の草花や僧たちのことを話した。
牛若はそれを聞き、帰り道に何度も振り返った。次に会える日がいつになるか、まだ分からなかった。
*
ある晩、祖母が常盤を奥の部屋へ呼んだ。
牛若は、今若から届いた文を膝に広げていた。読めない字もあったが、兄の名だけは分かる。
文の端をなぞっていると、奥から祖母の声が聞こえた。
「このままでは、お前も牛若も苦労が絶えない」
「分かっています」
「長成殿は、お前を妻に迎えたいと仰っている。牛若も一緒に暮らせるそうだ」
常盤は、すぐには答えなかった。
「私は、義朝様を忘れたわけではありません」
「忘れよとは言っていないよ。お前が生きていくための話をしているんだ」
牛若は文を畳んだ。
父の名が出ると、母はしばらく黙る。顔を見たことのない父のことを、母が覚えている。
そのことだけは知っていた。
戸が開き、常盤が戻ってくる。牛若は文を袖へしまった。
「母上、どこかへ行くの?」
常盤は牛若の隣に座った。
「長成殿のお屋敷へ移ることになりそうです」
「母上も行くの?」
「ええ」
「ぼくも?」
「もちろん。一緒に行きます」
牛若は、常盤の袖をつまんだ。
「おばあさまは?」
「ここに残るわ。でも、また会いに来られるわよ」
「今若兄上と乙若兄上は?」
「二人は、それぞれのお寺で暮らします」
「兄上たちにも、会いに行ける?」
「ええ。ただ、二つのお寺は離れているから、一度に両方へ行くことはできないわ。
日を決めて、一人ずつ訪ねましょう」
牛若はうなずき、袖を握ったまま母を見た。
「新しいお屋敷でも、父上の話をしていい?」
常盤は牛若の髪を撫でた。
「もちろん。父上のことを聞きたくなったら、いつでも話しましょう」
牛若は、膝に置いた文をもう一度取り出した。折り目を指でなぞり、今若の名を確かめる。
*
長成が祖母の家を訪ねたのは、数日後だった。
常盤が頭を下げる。牛若もその隣で膝をついた。
長成は、まず祖母に挨拶をし、それから二人に向き直った。
「長成殿」
「常盤殿。先日の話を、改めてさせていただきたい」
常盤はうなずいた。
長成の視線が牛若に移る。
「牛若殿も、こちらへ来ることになる。母君と離すつもりはない」
牛若は常盤の袖をつかんだまま、長成を見上げた。
「今若兄上と乙若兄上に、会いに行ってもいいの?」
「寺へ伺う日は、私にも知らせてほしい。道の支度はできる」
「一緒に来てくれるの?」
「必要であればな」
長成は、それ以上約束を重ねなかった。ただ、牛若の返事を待っている。
「長成殿」
「うむ」
「兄上たちの文も、持っていっていい?」
「もちろんだ。大切なものなのだろう」
牛若は、袖の上から文を押さえた。
*
移る日は、朝から小雨が降っていた。
荷は多くない。衣と書物、それに兄たちから届いた文。祖母が包みを一つずつ確かめ、紐を結び直す。
「これは牛若のものだね」
「うん。今若兄上と乙若兄上の文」
「なくさないようにね」
「分かってる」
祖母は笑い、常盤を見た。
「何かあれば、いつでも戻っておいで」
「ありがとうございます」
常盤が深く頭を下げる。牛若もまねた。
牛車に乗る前、牛若は祖母を振り返った。祖母は軒下に立ち、手を振っている。
牛車が動き出しても、姿が見えなくなるまで顔を戻さなかった。
長成の屋敷は、祖母の家より広かった。門をくぐると、庭に敷かれた砂利が雨に濡れて光っている。
奥から人の行き交う音が聞こえ、牛若は常盤の袖をつかんだ。
「ここで暮らすの?」
「そうよ」
常盤が答える。
長成は屋敷の奥から出てきた。衣は整い、足取りは静かだった。
「道中、難儀はなかったか」
「はい。お迎えをありがとうございました」
長成はうなずき、それから牛若へ目を向けた。
「部屋を用意してある。母君のそばにいたければ、そうしなさい」
牛若は、何と呼べばよいのか分からず、常盤を見上げた。
「長成殿でよろしいのよ」
「長成殿」
「それでよい」
案内された部屋には、まだ何も置かれていなかった。
牛若は包みを開き、今若と乙若からの文を並べた。二通を離さぬよう、文机の端へそろえて置く。
「ここから、兄上たちに文を出せる?」
「ええ。長成殿が届けてくださるわ」
常盤が硯を置いた。牛若は、二通の文に手を載せる。
「兄上たちのお寺へ行くときは、いつ?」
「すぐには決められないわ。道の支度もいるもの」
「そっか」
牛若はうなずき、文を包み直した。兄たちのいる寺は遠くなった。
それでも、会いに行く道がなくなったわけではない。
*
それから、季節がいくつか過ぎた。
兄たちの寺へは、日を選んで一人ずつ訪ねた。
道中に牛若が疲れれば休み、帰りが遅くならぬよう、早いうちに屋敷を出た。
訪ねる間隔は空いたが、長成は道の支度を整え、常盤と牛若を送り出した。
長成は、牛若に何かを呼び替えるよう求めなかった。牛若も、長成殿と呼び続けた。
常盤は、その呼び方を直さなかった。
今若と乙若から文が届いた日は、牛若は何度も袖の中を確かめた。
返事を書き終えると、長成のもとへ持っていく。
「届けていただけますか」
「ああ。預かろう」
長成は文を受け取り、折り目を確かめてから包みにしまった。
父のことを尋ねる言葉は、文には書けなかった。母に聞けば答えてくれる。
それでも、聞くたびに母の目が遠くなることもあった。
牛若は、兄たちの文をしまった箱の隣に、父の名を書いた紙を置いた。
まだ何も書けない。ただ、その名を忘れぬようにするためだった。




