第五話 京の昼
第五話 京の昼
朝になると、牛若は夢に出てきた兄の顔を思い出せなかった。
常盤に髪を結ってもらっている間も、何度か目を閉じてみる。
浮かぶのは門の形ばかりで、手に抱えていた書物の重さも、もう分からない。
「痛かった?」
常盤の手が止まる。
「ううん。夢を思い出してた」
「昨日の?」
牛若がうなずくと、常盤は髪を結び終え、肩を軽く叩いた。
「今日は外へ出ましょう。いい天気よ」
通りには、焼いた餅の匂いが漂っていた。牛若は店の前で足を止め、常盤を見上げる。
「見るだけよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあるもの」
常盤が笑う。牛若は自分の頬をこすってから、そんなところに字はないと気づいた。
餅を焼く女が二人のやり取りを聞き、声を上げて笑った。
牛若は少し恥ずかしくなり、常盤の手を引いて歩き出す。
陽の当たる通りには人が行き交い、店先からは値を言い合う声が聞こえる。牛若が立ち止まれば、常盤も待ってくれた。桶を運ぶ人を避けるときは手を引き、離れればまた牛若の歩幅に合わせる。
夢の中の門は静かだった。兄が去ったあと、誰の声も聞こえなかった気がする。
牛若は通りを振り返った。餅屋の女が客と話しながら、忙しく手を動かしている。
すぐそばでは子どもが二人、どちらが先に買うかで言い争っていた。
「どうしたの?」
常盤に聞かれ、牛若は首を振った。握った手が温かい。牛若はそのまま、母と通りを歩いた。
角を曲がると、牛若の手を引く常盤の歩みが止まった。
向こうから牛車が来る。先を行く者が道を空けるよう声をかけ、人々は店の軒下へ寄った。
常盤も牛若を連れて下がる。
「誰が乗ってるの?」
「静かに」
常盤は牛若の手を包むように握った。
薪を背負った男が、道の真ん中で足を滑らせた。
束ねた紐がほどけ、薪が牛車の前へ転がる。先を行く武士が男を叱りつけた。
男は頭を下げ、薪を拾おうとする。だが、牛車が近づいていた。
拾うために出れば進路を塞ぎ、拾わなければ車輪に踏まれる。
牛若は常盤を見上げた。常盤の視線も、道に散った薪へ向いている。
武士が足で一本を脇へ蹴った。男はさらに深く頭を下げる。
牛車が通り過ぎるまで、そのまま動かなかった。
軒下にいた餅屋の女が、残った薪を拾い始めた。牛若も行こうとすると、常盤が手を離した。
「車のそばには寄らないでね」
「うん」
牛若が拾ったのは細い一本だけだった。男に渡すと、男は目を丸くし、「ありがとな」と受け取る。
牛若は男の背に戻された薪を見た。せっかくまとめてあったのに、紐は切れたままだ。
「これ、どうやって持って帰るの」
「結び直すさ」
男は切れた紐を見せて笑ったが、その長さでは足りそうにない。
常盤が自分の持っていた細い紐を差し出すと、男は何度も礼を言った。
帰り道、牛若は何度か牛車の去ったほうを振り返った。通りにはもう人が戻り、
餅屋の女も客を呼んでいる。さっきの男だけが、紐を結ぶためにまだ道端へしゃがんでいた。
「母上、あの車に乗っていた人は、薪が落ちたのを知ってる?」
牛若が尋ねると、常盤は少し考えた。
「見えていなかったかもしれないわ」
「外の人は、みんな見てたのに」
牛若は道端を振り返る。薪の男は結び目を確かめ、ようやく背負い直したところだった。
重さに身体を傾けながら、人の流れへ戻っていく。
「車の中から見えるものと、道を歩いて見えるものは、違うのでしょうね」
常盤の答えは、牛若にも分かる言葉だった。けれど、どうしてそうなるのかは分からない。
車の中の人が少し顔を出せば、男はあんなに何度も頭を下げなくてもよかったのではないか。
牛若は常盤の手を引き、餅屋の前へ戻った。
「また見るだけ?」
女に聞かれ、牛若は首を振る。
「さっき、あの人を手伝ってくれてありがとう」
女はきょとんとして、それから笑った。
「お前さんも一本、拾ってくれただろ」
「一本だけ」
「一本、助かったよ」
女は焼き上がった餅を並べ直す。
牛若がじっと見ていると、常盤が横から「今日は一つだけよ」と言った。
「まだ何も言ってない」
「また顔に書いてあるもの」
餅屋の女が笑う。牛若は頬をこすらず、今度は常盤を見上げた。
「半分ずつ食べよう」
「ええ、そうしましょう」
包んでもらった餅を二人で分け、歩きながら食べた。
さっき牛車が通った道にも、もういつもの人声が戻っていた。
数日後、常盤は牛若を連れて今若のいる寺を訪ねた。
迎えに出た今若は、二人の姿を見つけると足を速め、途中で僧の目を気にして歩みを緩めた。
常盤の前ではきちんと頭を下げる。
「元気にしていた?」
「はい、母上」
返事も少し大人びている。けれど牛若が駆け寄ると、今若は膝をつき、両腕で受け止めた。
「大きくなったな」
「歩いて来たよ」
「母上に抱いてもらわずに?」
「うん。坂も」
牛若が得意になって話すと、今若は「それは偉い」と笑った。
常盤は隣で、今朝、牛若を抱いて坂を上ったことは黙っている。
今若が袖から折り畳んだ紙を出した。
「乙若にも、渡してくれますか」
常盤が受け取ろうとすると、牛若が先に手を伸ばす。
「ぼくが持つ」
「大事なものだぞ」
「なくさない」
今若は少し迷ってから、牛若の手に紙を載せた。牛若は両手で持ち、今若の真似をして袖へしまおうとする。紙が落ちそうになり、常盤がそっと支えた。
兄と別れたあと、牛若は何度も袖を押さえて歩いた。
「乙若兄上のところへ、次に行くの?」
「ええ。今若からの文を届けましょう」
牛若はうなずく。自分の手から乙若へ、文が渡るところを早く見たかった。
乙若は、牛若が差し出した文を見るなり声を上げた。
「兄上から?」
「ぼくが預かったんだ。落とさずに持ってきたよ」
「ありがとう」
乙若は文を開いた。牛若も隣からのぞき込む。
今若の字を目で追いながら、乙若はときどき小さく笑った。
「何て書いてあるの?」
「ここのところ、朝早く起きられるようになったかって」
「起きられる?」
「……ときどき」
乙若は文を持ち上げ、牛若に見えないようにする。
「ほかには?」
「寺の庭に花が咲いたんだって。牛若がもう少し大きくなったら、見せてやりたいって書いてある」
「もう大きいよ」
「じゃあ、兄上にそう返事を書こうか」
牛若がうなずくと、乙若は常盤に筆と紙を借りたいと言った。
牛若は返事も自分が届けると言い張り、乙若に「まだ一字も書いてないよ」と笑われる。
帰る時刻が近づいても、乙若は今若からの文を手元に置いていた。
牛若が門のところで振り返ると、文を持つ手を上げて見せる。
「返事、忘れないでね」
「分かってる。書けたら頼むよ」
牛若は大きくうなずいた。
寺を出てしばらく歩いても、牛若は何度か袖を確かめた。
今朝、今若の文を入れていた場所は空っぽだ。
「返事ができたら、また来ようね」
常盤が言うと、牛若は袖を押さえるのをやめ、母の手を握った。
家に戻ると、祖母が牛若の袖を見て笑った。
「今日は文を入れていないのかい」
「乙若兄上に渡した。今度は返事を持って帰るんだ」
「それなら、袖を破らないようにしないとね」
牛若は慌てて袖を確かめる。祖母がからかっていると分かると、「破らないよ」と言い返した。
夕餉のあと、常盤が畳に座ると、牛若もその隣へ来た。昼間に買った餅のことを祖母に話し、
薪を拾ったことも話す。車が来て、男が叱られたところでは、牛若の声が小さくなった。
「その人は、帰れたのかい」
祖母に聞かれ、牛若は常盤を見た。
「紐を結んで、歩いていったよ」
「なら、よかった」
牛若はうなずく。餅屋の女が笑っていたことも、話しておけばよかったと思った。
夜、常盤が寝床に来ると、牛若はまだ起きていた。
「兄上たち、今ごろ何してる?」
「もう眠っているでしょうね」
「明日も?」
「明日は起きるわよ」
「そうじゃなくて、明日もお寺にいる?」
常盤は牛若のほうを向いた。牛若は昼間、二人と話したばかりだった。
「ええ。今若も乙若も、あちらで暮らしているの」
牛若は返事をせず、袖に手を入れた。文のあった場所を探り、何もない手を出す。
「返事が書けたら、また会いに行きましょう」
常盤が言うと、牛若は「うん」と答えて目を閉じた。
眠りの中で、遠くから人を呼ぶ声がした。兄たちの声かと思ったが、違う。
追いかける前に途切れてしまい、牛若が目を覚ましたときには、何と呼ばれたのか思い出せなかった。
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