第四話 別れの春
第四話 別れの春
門を出るなり、乙若が祖母の手を引いた。
「早く帰ろう。おばあさま、ぼく、話したいことがいっぱいあるんだ」
「そうかい。歩きながら聞かせておくれ」
祖母は乙若に引かれ、今若もその後を追う。常盤は牛若を抱いて歩き出しかけ、ふと足を止めた。
振り返れば、六波羅の門はまだ開いている。
「母上」
今若が戻ってきた。常盤が差し出した手を握り、今度は一緒に歩き出す。
乙若は祖母に、雪道で泊めてくれた男の話をしていた。自分たちが飲んだ湯のことまで、
身振りを交えて話している。祖母が笑うと、乙若も嬉しそうに声を弾ませた。
今若は常盤の横を歩いていた。
「あの方は、怖かった?」
「……怖かったわ」
今若が意外そうに顔を上げる。
「母上も?」
「ええ。あなたが返事をしたときは、もっと」
「叱られると思った」
「叱りたかったわ」
常盤が言うと、今若は肩をすくめた。
けれど手を伸ばしてきたので、常盤は空いているほうの手で握る。
「でも、来てくれて心強かった」
今若は答えず、前を向いた。赤くなった耳が常盤から見える。
牛若が常盤の腕で声を上げた。乙若が振り返り、駆け寄ってくる。
「牛若も帰れるって分かるのかな」
「どうでしょうね」
「ぼくが教えてあげる」
乙若は牛若の前へ顔を寄せた。
「もう、お家に帰るよ」
牛若は兄の鼻へ手を伸ばす。乙若が笑って逃げ、祖母に呼ばれてまた駆けていった。
春になれば、今若と乙若は寺へ入ることになる。常盤がそれを知るのは、もう少し先のことだった。
雪が消えるころ、牛若は畳の上を這うようになった。
乙若が紐の先で小さな布切れを揺らすと、牛若は夢中になって追いかける。
今若はその様子を見ていたが、布が炉のほうへ近づくと、さっと牛若の前に手を置いた。
「そっちは駄目だ」
「分かってるよ」
乙若が紐を引く。牛若は急に目当てを失い、今若の手にしがみついた。
「ほら、兄上のほうが好きだって」
「お前の布に飽きただけだろう」
二人の言い合いに、常盤は針仕事の手を休めた。
牛若は今若の指を両手で握り、口へ持っていこうとしている。
戸口から声がかかった。
訪ねてきたのは、六波羅からの使いだった。常盤が庭へ出ると、男は家の中へ視線をやる。
「お子らは?」
「奥におります。お話は、こちらで」
男は懐から文を出した。常盤が受け取り、封を開く。今若と乙若の名が、並んで記されていた。
家の中から乙若の声がする。今度は牛若が布をつかんで離さないらしい。今若も笑っている。
「この子たちを、寺へ」
常盤は文から目を上げた。
「御沙汰にございます」
男は頭を下げたまま待っている。常盤はもう一度、二人の名を見た。
いつかこんな日が来ると思っていた。
それでも、戸を一枚隔てた向こうで笑っている子らと、文に並ぶ名がすぐには結びつかなかった。
「いつ、参ればよろしいのでしょう」
常盤が尋ねると、使いの男は日を告げた。指を折って数えるほどしかない。
「二人とも、同じ寺へ?」
「いえ。それぞれに行き先が定められております」
常盤は文を握り直した。今若と乙若を離すのか。もう一度尋ねようとしたとき、背後で戸が開く。
「母上?」
今若が庭へ下りてきた。乙若は戸の内側から顔を出し、見知らぬ男を見て隠れる。
牛若の声も聞こえた。
「中へ戻っていて」
常盤が言うと、今若は使いの男と文を見比べた。
「僕たちのこと?」
男は常盤に一礼し、返事を待たずに門へ向かった。足音が遠ざかっても、今若はその場にいる。
常盤は文を畳み、今若と一緒に家へ入った。乙若は牛若を抱えようとして、祖母に止められている。
二人の顔を見て、常盤は今若を先に座らせた。
「お寺へ行くことになったの」
「お参り?」
乙若が聞く。
「住んで、学ぶのよ」
乙若は牛若から手を離した。
「帰ってこないの?」
常盤は「帰ってこられる」と言いかけた。使いの男に、会いに行けるかさえ確かめられなかった。
「私が、会いに行くわ」
「牛若も?」
「連れていく」
乙若は今若のほうを向いた。今若は畳の上の布切れを拾い、牛若の前で揺らす。
牛若が手を伸ばすと、いつものように少しだけ遠ざけた。
「兄上も一緒だよね」
乙若の声に、今若の手が止まる。
常盤は文を伏せた。二人の行き先が違うことを、まだ告げられずにいた。
「今若と乙若は、別々のお寺なの」
常盤が告げると、乙若は今若の袖をつかんだ。
「兄上は、ぼくと来ないの?」
「……うん」
今若も文を見ていたから、分かっていたのだろう。それでも乙若に問われると、声が小さくなった。
「母上に、同じところにしてって頼んで」
乙若は袖を離さない。常盤は二人の前に膝をついた。
「頼んでみるわ。けれど、かなうかどうかは分からないの」
「どうして? 六波羅では帰してくれたのに」
常盤は答えられなかった。乙若は今若の腕に顔を押しつける。
今若が常盤を見る。
「乙若だけでも、牛若と一緒にいられない?」
「私も、そう願っている」
「なら、ぼくが一人で行く」
乙若が勢いよく顔を上げた。
「やだ。兄上だけ行くのもやだ」
「どっちだよ」
「どっちもやだ!」
今若は困って、乙若の背中をぽんと叩いた。牛若が二人の声につられて笑う。
乙若は涙を拭いながら、牛若の顔を見た。
「牛若はいいな。まだここにいられて」
常盤は牛若を抱き上げた。乙若が寄ってくると、今若も隣へ座る。
牛若は兄たちの間で腕を伸ばし、今若の袖をつかんだ。
今若がその小さな指を見下ろす。
「牛若が歩けるようになったら、会いに来る?」
「ええ。牛若を連れて行くわ」
「乙若のところへも行ってね」
「もちろん。あなたたち二人に、会いに行く」
乙若は常盤の言葉を聞いても、まだ今若の袖を握っていた。
常盤が二人を同じ寺へと願い出ても、行き先は変わらなかった。
返事を聞いた乙若は、今若と口をきかなくなった。怒っているのは今若にではない。
それでも今若が話しかけると、乙若はそっぽを向く。
出立の前夜、常盤が衣を畳んでいると、隣の間から牛若の笑い声がした。
のぞくと、今若が床に伏せ、背中に牛若を乗せている。
乙若は脇に座って、その背が揺れすぎないよう手を添えていた。
「落ちるわよ」
「見てるから大丈夫」
今若はそう言ったが、牛若が髪を引っぱると、情けない声を上げる。乙若が吹き出した。
今若もつられて笑い、牛若を背から下ろして膝に抱く。
常盤は畳みかけの衣を手に、二人のそばへ座った。
「それ、明日持っていくもの?」
乙若が衣を指す。
「ええ。寒い日にも着られるように」
「もう春だよ」
「また寒くなる日もあるでしょう」
乙若は衣を受け取り、膝の上に広げた。常盤が袖を少し長めに仕立てたことに気づいたらしい。
腕を通し、指先を袖の中へ隠す。
「こんなに長い」
「すぐに、ちょうどよくなるわ」
乙若は袖を見たまま、しばらく黙っていた。
今若が牛若を常盤の膝へ戻す。乙若は脱いだ衣を畳み直し、今若の衣の隣に並べた。
二つが重ならないよう、間を少しだけ空けて。
出立の朝、乙若は仕立てた衣の袖を何度も折り返していた。
「このくらいなら、手が出る」
常盤が折り目を整えると、乙若は腕を伸ばして見せる。
今若も新しい衣を着ていたが、着慣れないのか、襟元ばかり直している。
門の外には、それぞれの寺から迎えが来ていた。今若は乙若のそばへ行き、袖を見て笑う。
「また伸びてる」
「兄上のも、襟が曲がってるよ」
乙若が直そうと手を伸ばす。今若は逃げずに、黙って直してもらった。
牛若は祖母に抱かれ、兄たちを見ている。今若が顔を近づけると、昨夜と同じように髪をつかんだ。
「痛いって」
今若が笑いながら指を外す。牛若は今度、乙若の袖に手を伸ばした。
折り返したところを握るので、乙若は腕を引けなくなる。
「牛若、放して」
言いながら、乙若は少しも困った顔をしていなかった。
迎えの者が声をかける。祖母が牛若を抱き直すと、袖をつかんでいた手がほどけた。
乙若はそこを見て、それから常盤のほうへ向き直る。
「会いに来てね」
「ええ」
「兄上のところにも」
「二人に会いに行くわ」
常盤は今若の襟に触れた。今朝直したばかりなのに、また少し曲がっている。
指を掛けると、今若はじっとしていた。
「母上も、元気で」
その言い方が大人びていて、常盤はすぐに返事ができなかった。
今若の襟を整え、ようやく「あなたも」と答える。
二人は別々の迎えと歩き出した。乙若が振り返って手を振る。
今若も一度だけ振り返り、乙若の姿を見てから、常盤たちへ手を上げた。
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