第六話 峠の向こう
第六話 峠の向こう
沢が大きな岩の下で深くなっていた。二つ目の淵だった。
その脇を通り過ぎると、景綱が足を止めた。
「石積みがございます」
山側に石が重ねてあった。そのすぐ脇から、細い道が斜面へ延びている。
遮那王は杖で低い枝を払い、坂へ足を掛けた。
登るにつれ、沢の音が遠ざかっていく。
道には人の足跡と、馬の蹄の跡があった。窪みに溜まった水を避けて進むと、やがて木々の間が明るくなった。
尾根へ出た。
向こうには、幾重にも山が続いている。その低くなった所に畑が見え、細い道が家々の間を縫っていた。
遮那王は額の汗を袖で押さえた。
弁慶は隣で立ち止まり、下り道を見ている。
「昨日よりは、歩きよさそうだな」
「まだ、ここから見える所だけですよ」
「では、下りてみるか」
薙刀を持ち直し、先へ進む。
遮那王も肩の紐へ指を入れ、衣のねじれを戻した。昨日より、荷の収まりはよかった。
*
坂を下る途中で、鈴の音が聞こえた。
前を行く弁慶が歩みを緩める。
木立の先に馬の尻が見えた。背の両側には、炭を詰めた俵が掛かっている。男が一人、手綱を引いていた。
追いつくにつれ、炭の匂いがした。
男は足音に振り返った。
「先へ行かれるか」
道の少し広くなった所で馬を止め、山側へ寄せようとする。
弁慶が近づいた。
馬の耳が動く。
鼻を鳴らし、急に尻を横へ振った。俵が枝をこすり、黒い粉が落ちる。
「おう、待て」
男が手綱を短く持った。
弁慶も足を止める。
馬は首を上げたまま、こちらを見ていた。
「その得物を、少し下げてくれぬか」
男の目は、弁慶の肩越しへ向いていた。
鞘に収めた薙刀の穂先が、馬の目の高さより上で揺れている。
弁慶は柄を下ろし、身体の脇へ沿わせた。
男が馬の首を撫でる。
「よし。何もせぬ」
耳が前へ戻った。手綱を引くと、馬はようやく一歩進んだ。
弁慶が、下げた薙刀を見た。
「これが気に入らなんだか」
「見慣れぬものを、上で動かされるのを嫌がるのでな」
男が馬を脇へ寄せようとしたが、弁慶は首を振った。
「よい。後ろを歩こう」
「弁慶殿も、馬には道を譲られるのですね」
「蹴られてはかなわぬ」
答えが早く、遮那王は笑った。
男も笑いながら、手綱を緩めた。
「この先で道が広くなる。そこまで後ろについておいで」
三人は馬から間を取り、その後を歩いた。
炭の俵が左右に揺れる。馬は道の真ん中を選び、石のある所では自分から足をずらしていた。
男の草鞋も、迷いなくその先へ置かれていく。
「毎日、この道を通られるのですか」
「炭ができればな。雨が続けば、下ろせぬこともある」
「下で売るのですか」
「買い取る家がある。そこから先は、また別の者が運ぶ」
男が振り返った。
「そなたらは、どちらまで」
「東へ向かっております」
「ならば、下で道が分かれる。右へ行けば川沿い、左へ行けば村を通る」
景綱が口を開いた。
「川沿いからも、東へ抜けられますか」
「抜けられる。ただ、途中に家はないぞ。食うものが要るなら、村で求めた方がよい。村の先でも、同じ道へ出る」
遮那王は景綱を見た。
「村で、食糧を補っておきませんか」
「そういたしましょう」
「では、拙僧らも左だな」
弁慶が申すと、男は頷いた。
「わしもそちらだ」
馬へ声を掛け、坂を下っていく。
鈴が鳴った。
*
木立を抜けると、日が肩に当たった。
畑の畝が斜面に沿って並んでいる。鍬を持つ者が顔を上げ、馬を引く男へ手を振った。
「今日は早いな」
「道が空いておったからな」
男が返す。
その後ろを歩く弁慶へ目が移り、鍬の手が止まった。
弁慶は気にした様子もなく、薙刀を低く持ったまま進んだ。
遮那王は畑の端へ寄り、伸びた葉を踏まぬよう歩いた。背後では景綱が、来た道を一度振り返っていた。
道は家々の間へ入った。
軒先で籠を繕っていた老人が、馬を通すために足を引く。男は短く礼を言い、さらに先の家へ向かった。
屋根の大きな家だった。
脇に壁のない小屋があり、奥には炭俵が積まれている。馬はその前まで来ると、手綱を引かれずとも止まった。
「こちらの家で、米も扱っておる。尋ねてみるとよい」
「ありがとうございます」
男は家の奥へ向かい、声を張った。
「炭を持ってきたぞ」
返事があり、女が一人出てきた。手を前掛けで拭きながら、馬の荷を見上げる。
「悪いね。今日は手を貸せる者がおらぬのだよ」
「若い者は留守か」
「川向こうへ行っている。すぐには戻らぬよ」
男は馬を柱につなぎ、俵を縛った縄へ手を掛けた。
反対側の荷へ目をやり、結び目を確かめる。
弁慶が薙刀を遮那王へ差し出した。
「少し持っておれ」
受け取ると、大きな手が炭俵の下へ入った。
「こちらを支えればよいか」
男が顔を上げた。
「ああ。縄を解く間、そのまま頼む」
弁慶は俵を支えた。男が縄を緩めると、そのまま両腕で抱え取る。
「どこへ置く」
女が小屋を指した。
「あちらへ。奥に積んでおくれ」
遮那王は薙刀を軒下へ置き、背負った荷を下ろした。
弁慶が炭俵を抱え、小屋へ入った。
「待っておくれ。そちらではないよ」
女が先へ回り、積まれた俵の脇を指す。
「古いものを出せなくなる。新しいのはこちらへ」
「ここだな」
腰を屈め、俵を置く。炭の砕ける音もなく、大きな手が離れた。
男は馬の反対側へ回っていた。景綱がそちらの荷を支え、遮那王は解かれた縄を引き抜く。
藁の間から黒い粉がこぼれ、手の甲についた。
「縄は、こちらへまとめてよろしいですか」
「ああ、頼む。山へ持って帰るのでな」
男が俵へ腕を回す前に、弁慶が戻ってきた。
「これも小屋か」
「同じ所へ置いておくれ」
女の返事を聞き、俵を抱えていく。
男は空いた馬の背を見て、それから景綱と顔を見合わせた。
「ずいぶん、早く済んだな」
「拙僧には軽い」
小屋から声がした。
遮那王は縄を巻きながら笑った。
「まだ、誰も重いとは申しておりませぬよ」
弁慶が入口に立った。
袖も胸元も、炭の粉で黒くなっている。自分の衣へ目を落とし、大きな掌で払おうとした。
「ああ、そこで叩かぬように」
女が声を上げる。
「飯を置く所まで真っ黒になるよ」
振り向くと、小屋の隣に低い縁があった。女がその上から笊を取り、奥へ運ぶ。
弁慶は上げた手を下ろした。
「どこならよい」
「裏に水がある。手も顔も洗っておいで」
「顔までついたか」
こちらを見る。
額を示すと、弁慶は黒くなった手で触れかけ、途中で止めた。
「……洗ってくる」
男が笑い、馬を日陰へ移した。
*
裏の水桶のそばで、景綱が柄杓を取った。
差し出した手へ、水を掛けてくれる。指の間から黒い水が土へ落ちた。
「ありがとうございます」
手拭いで拭いていると、表から女の声が届いた。
「手間を掛けたね。少し休んでおいき」
縁には椀が三つ置かれていた。湯の中に、刻んだ菜が浮いている。
「朝の残りで悪いけれど」
「いただいてよろしいのですか」
「手を貸してもらったのだもの。座っておくれ」
遮那王は礼を言い、太刀の鞘を脇へよけて腰を下ろした。
隣へ弁慶が座ると、縁板が鳴った。
女が足元を見た。
「そこは少し傷んでいる。柱のある方へ寄っておくれ」
弁慶は黙って腰をずらした。
今度は鳴らなかった。
椀を受け取り、両手で包む。湯気が頬に触れた。
男は馬のそばで草鞋を脱ぎ、足の指を開いていた。
「山から、ずっと歩いてきたのかい」
「はい」
女が弁慶の肩と、こちらの荷を見比べる。
「よい連れがおいでだ。あの腕なら、道中も心強かろう」
「はい。助けていただいております」
弁慶は椀に口をつけていた。
少し飲んでから、こちらを見る。
「そなたも、よく手を出すではないか」
「縄を巻いただけです」
「誰かが巻かねば、持って帰れぬ」
男が、足元へ置いた縄を持ち上げた。
「そのとおりだ。こちらも助かったぞ」
遮那王は椀へ目を落とした。菜を口へ含むと、思っていたより熱く、ひと息吹いてから飲んだ。
*
女が家の奥から銭を持ってきた。
男は椀を縁へ置き、足を揃えて座り直す。
差し出された銭を受け取り、指で分けて数えた。
途中で、手が止まった。
「残りは?」
女は前掛けの端を握った。
「すまぬね。今日は、それだけにしてもらえぬか」
「前の分も、まだ残っておるぞ」
「分かっているよ」
男は掌の銭を見た。
「これでは、山で待っている者へ渡せぬ。飯を買う分も要る」
「せめて半分は渡せると思っていたのだけれど、こちらへ入るはずの銭が、まだ届かなくてね」
弁慶が椀を下ろした。
女は小屋へ目を向けた。先ほど下ろした炭俵が、古い俵の脇に並んでいる。
「先に持っていかれた分があるのか」
男が尋ねる。
「京の、平家のお屋敷へ届ける分だよ。代は後からと申されて、それきりなのだ」
「いつの分だ」
「そなたが前に来た、その翌日」
男は息を吐いた。
銭をひとまとめにし、掌で包む。
遮那王は景綱へ目を向けた。景綱も話を聞いていたが、口を挟まず、女の前に置かれた銭の包みを見ている。
「届け先へ、お尋ねには?」
遮那王が問うと、女は頷いた。
「使いは出したよ。次に来る者へ申せと返されてね。来るたびに頼んではいるのだけれど」
男が小屋へ顔を向けた。
「銭がないなら、今日の分は持って帰るしかないな」
「ほかへ売れ次第、残りを山へ届けさせる。もう少し待ってもらえぬか」
「前にも、次には払うと申しておったぞ」
女は前掛けを握ったまま、目を伏せた。
遮那王は空になった椀を置いた。
馬の鈴が、小さく鳴る。
男が握っていた銭を、もう一度開いた。
「今日はこれを持って帰る。だが、次は残りも頼むぞ」
「ええ。すまぬね」
銭を包む布の上へ、一枚ずつ移していく。
景綱が女へ声を掛けた。
「米を分けていただくことはできますか。持って歩ける干飯があれば、そちらを」
「少しならあるよ。見てこよう」
女が立ち上がったとき、通りから男の声がした。
「炭は入ったか」
足音が近づいてくる。
太刀を帯びた男が二人、門口に立った。一人は小屋をのぞき、もう一人は馬から下ろしたばかりの縄を見た。
「ちょうどよい。今日は、ここにある分を持っていく」
女の足が止まった。
炭を運んできた男は、銭を包む手を膝へ下ろした。
女は前掛けから手を離した。
「前にお納めした分のお代は、お持ちいただけましたか」
「その話は、館の者へ申せ」
「館へ使いを出しましたら、次に来られる方へ申し上げるようにと」
男は小屋へ向けていた顔を戻した。
「わしらは炭を受け取りに来た。銭を預かってきたわけではない」
女は口を閉じた。
もう一人が小屋へ入り、俵の口を確かめる。縄の間から炭を一本引き出し、手の中で返した。
「これでよい。外の車へ積め」
炭を俵へ戻すと、門の外へ声を掛けた。
通りから、車輪の軋む音が近づいてきた。
「お待ちください。今日の分までお持ちになられては、こちらも仕入れの銭が……」
「こちらが逃げるとでも申すか」
女の肩が縮んだ。
「さようなことは」
「ならば、いつものように控えておけ。平家のお用を滞らせるな」
男はそれで話を終え、小屋へ入った。
弁慶の膝から手が離れた。
軒下に、預けた薙刀がある。
その手は柄へ伸びず、縁の端をつかんだ。
遮那王は腰を上げた。小屋の前では、男たちが炭俵を抱え出している。女はその脇に立ち、一俵運び出されるたび、唇を動かしていた。
目が合う。
女はわずかに首を振り、また俵へ顔を向けた。
通りへ出た炭俵が、車へ積まれる。
先ほど弁慶が置いた二俵も、その上へ運ばれていった。
山から連れてきた馬が首を振った。鈴が鳴ったが、男はそちらを見なかった。
*
車輪の音が遠ざかっても、女は門口に立っていた。
小屋の入口には、炭の粉と、解けた縄が残っている。
景綱が縁から立ち上がった。
「あの方々は、いつもこちらへ?」
「ええ。前は代も一緒に持ってきてくださったのだけれど」
「どちらの館へ納めておられるのですか」
女が答えた館の名に、景綱は頷いた。それ以上は尋ねず、小屋へ目を向ける。
炭を運んできた男が、包んだ銭を懐へ入れた。
「帰る」
草鞋へ足を入れ、鼻緒を引く。
女が振り返った。
「すまぬね。今日の残りも、必ず」
「炭は、もうないぞ」
男は空いた所を指した。
「あれを売って、どう届ける」
女は何か言いかけ、俯いた。
遮那王は二人の間へ進んだ。
「先ほど、米はあるとおっしゃいましたね」
「旅に持っていく分だったね。今、出すよ」
「その前に、こちらの方へ。残りのお代の一部を、米でお渡しすることはできませぬか」
男が顔を上げた。
女も、家の奥へ目を向ける。
「米なら、あるよ」
「山では飯を買うと申されておりました。それなら、ここから持ち帰れませんか」
男はしばらく考え、懐の銭を押さえた。
「米を買う分は、これで残せるが……山の者へ、銭で渡す分もある」
「ええ。足りぬ分は、こちらの借りとして残しておく」
女が答えた。
「いつもの値でよいかい」
「ああ。持ってきてくれ」
女は奥へ入っていった。
遮那王は小屋の前へ屈み、残っていた縄を拾った。炭の粉を払い、男へ差し出す。
男は受け取ると、先ほどまとめた縄と重ねた。
「思いつかなんだ。銭のことばかり考えておった」
声に、先ほどまでの強さはなかった。
「これから山へ戻られるのですか」
「ああ。暗くなる前には着けよう」
*
女が米の袋を運んできた。
量を確かめ、銭で残す分を二人で数え直す。男は指を折りながら聞き、最後に頷いた。
空いた馬の背へ、米が載った。
弁慶が袋を支え、男が縄を掛け直す。
「炭よりは軽いな」
「こぼさぬよう頼むぞ」
「承知した」
結び終えるまで、その手は動かなかった。
女は三人の干飯も持ってきた。景綱が量を確かめ、代を渡す。受け取った銭を、女はしばらく掌に載せていた。
「助かったよ」
それから家の奥へ戻り、小さな布へ包んだ。
遮那王も荷を背負った。
弁慶が薙刀を取り、景綱は通りへ出て左右を見た。炭を積んだ車は、もう見えなかった。
「そなたらは、東だったな」
馬を引く男が言った。
「はい」
「村を抜けると、道端に大きな榎がある。そこを右だ。川へ出たら、流れに沿って下ればよい」
「ありがとうございます」
男は女へ顔を向けた。
「次の炭を下ろす前に、一度、使いを寄こす」
「分かった。待っているよ」
馬が歩き出した。
縄も鈴も、山を下りてきたときと同じだった。背に載っているものだけが変わっている。
男の姿が家の陰へ消えてから、三人も歩き出した。
女が門口まで来た。
「法師殿」
弁慶が振り向く。
「また通ることがあれば、寄っておくれ」
「荷を下ろすためにか」
「そのときは、飯も多めに炊いておくよ」
弁慶は一度こちらを見て、それから女へ向き直った。
「ならば、寄ろう」
*
家並みを抜けた所で、景綱が歩みを緩めた。
「先ほどの館には、私から代金のことを伝えます」
遮那王は顔を向けた。
「取り次ぐ者に、心当たりが?」
「ございます。ただ、いつ支払われるかまでは、お約束できませぬ」
「お願いいたします」
景綱は頷いた。
弁慶が、薙刀を持つ手を変えた。
「銭を持ってこぬなら、持ってくるまで待てばよい。それだけであろうに」
返す言葉を探した。
あの女も、同じことを幾度も申したのだろう。館へ尋ね、次に来る者へ頼み、その次を待っている。
景綱は前を向いたまま歩いていた。
道端に、大きな榎が見えてきた。
その下を右へ曲がる前に、遮那王は一度、村を振り返った。炭を扱う家は、もう見えなかった。
杖をつき、二人の後へ続く。
山で焼かれた炭は、京へ運ばれていく。
その代を待つ者は、山へ帰っていった。




