第五話 山の一夜
第五話 山の一夜
沢へ下りた頃には、木々の影が長くなり始めていた。
水は岩の間を細く流れていた。景綱が上手で筒に水を汲む。その少し下で、遮那王は手についた土を洗った。
指の節をこすると、細かな泥が流れに溶ける。掌には根を握った跡が赤く残っていた。
隣へ来た弁慶が、両手で水をすくった。
一度に顔へ浴びせる。顎から滴が落ち、僧衣の胸元まで濡れた。
「生き返るな」
「衣まで濡れておりますよ」
「この程度、歩けば乾く」
もう一度すくい、今度は首筋へ掛ける。
遮那王も顔を洗った。冷えた水を額へ当てると、張りついていた髪が離れた。
弁慶は草鞋を脱ぎ、石の上へ腰を下ろした。片方を逆さにして振ると、小石が二つ落ちる。
「よう入ったものだ」
「ずっと入っていたのですか」
「先ほどからだ。斜面で脱ぐわけにもいかなんだ」
大きな足が流れへ浸かる。遮那王も隣へ座り、草鞋の紐を解いた。
足を入れると、思わず息が漏れた。
冷たい。
けれど、しばらくそのままでいたかった。
景綱は汲み終えた筒を三人の荷のそばへ並べていた。こちらへ戻ってきても、立ったまま道の方へ目を向ける。
「景綱殿も休まれませんか」
「では、交代で。先にお二人の足元を整えてください」
弁慶が水から足を上げた。
「拙僧はもうよいぞ」
手拭いで足を拭き、草鞋を履き始める。
遮那王も足を引こうとしたが、弁慶が手を伸ばして止めた。
「そなたは、もう少し浸けておれ」
「ですが」
「拙僧が見ておく。そなたは休め」
景綱が腰を下ろした。太刀を身体の脇へ寄せ、草鞋を脱ぐ。
弁慶は沢へ下りてきた道の見える岩へ移り、薙刀を手元へ置いた。
遮那王は足を水へ戻した。
流れが足の甲をなでていく。隣で景綱が紐をほどく音まで、よく聞こえた。
*
足を乾かしている間に、弁慶の腹が鳴った。
顔を向けると、本人も腹へ目を落としている。
「先ほどの飯では足りませなんだか」
「食えば、そのときは足りる」
「今は?」
「足りぬ」
あまりにはっきり答えるので、笑ってしまった。
弁慶がこちらを見る。
「そなたは減らぬのか」
「減っております」
「ならば、同じであろう」
景綱が荷の包みへ手を伸ばした。
「夕餉にいたしましょうか」
「それはありがたい」
弁慶はすぐに座り直した。
包みが開かれる。干飯と、小さく分けた塩。景綱が開いた包みを三人の間へ置くと、弁慶の手が伸びかけた。
遮那王は、沢の下へ目を向けた。
水沿いに、人が踏んだ道が続いている。木の間には畑が見え、その先に茅葺きの屋根がのぞいていた。
「あちらで、何か分けていただけるでしょうか」
景綱も屋根を見た。
「尋ねてまいります。買えぬようなら、持ってきたものを」
弁慶の手が止まった。
「では、まだ食わぬ方がよいのか」
「先に少し召し上がっていてください。何があるか、まだ分かりませぬので」
「少し、か」
弁慶が包みの中を見ている。
景綱は干飯をひとつかみ取り、弁慶の前へ置いた。
「こちらを」
「そなた、拙僧を童と思うておらぬか」
「残りは夕餉の分にございます」
遮那王は口元を押さえた。
弁慶がその手元を見たが、何も言わず、干飯を口へ放り込んだ。
景綱は必要な銭を懐へ入れ、荷を背負い直した。
「今夜は、この近くで休みませんか。戻ってから寝場所を整えるとなれば、暗くなりましょう」
「そういたしましょう」
沢から少し離れた木立の奥には、土の乾いた場所があった。下の家々からは斜面と木に遮られ、直接は見えない。
弁慶もそちらへ目をやった。
「では、拙僧らで場所を空けておく」
「お願いいたします」
景綱が沢沿いの道へ下りていった。
遮那王は足を拭き終え、草鞋の紐を結んだ。
弁慶は残った干飯を口へ入れ、水を飲んで立ち上がる。
「さて」
先ほど指した木立へ入っていく。落ちた枝を拾い、道の邪魔にならぬ場所へ寄せた。
遮那王も荷を運んだ。地面の小石を拾い、尖ったものを除く。
「こちらなら、三人並べそうです」
弁慶が振り返った。
「拙僧を、端へ置いておけ」
「狭いのですか」
「そなたが隣におれば、寝返りも打てぬ」
その肩幅を見て、敷こうとしていた衣を少し離した。
「これほどで?」
「もう少し」
さらに離す。
弁慶は満足したように腰を下ろした。
遮那王は、その足が伸びてきたところを見た。
「横より、縦が足りませぬね」
弁慶も自分の足を見た。
「……そちらの枝も、退けるか」
二人で、寝場所をもう少し広げた。
*
景綱が戻ってきたとき、寝場所には乾いた落ち葉が敷き詰められていた。
弁慶がその上へ腰を下ろし、手で地面を押している。
「そなたの分も空けてある」
「ありがとうございます」
景綱は荷を下ろし、抱えていた包みを広げた。
葉に包んだ飯が三つ。その脇には、塩漬けの菜と、少しの味噌が入っている。
「飯を炊いておられたので、分けていただきました。こちらの菜も」
遮那王は葉を開いた。
麦の交じった飯から、ほのかに湯気が上がった。
「まだ温かい」
「冷めぬうちにどうぞ」
手についた土を沢で落とし、戻ってくる。弁慶と入れ替わりに腰を下ろすと、景綱が飯の包みを寄せてくれた。
待つ間に菜を一本食べた。
塩が利いている。少しずつかじり、その後から飯を口へ運んだ。
干飯とは違い、噛むと柔らかくほどけた。
弁慶も戻ってきた。濡れた手を拭きながら、飯の前へ座る。
三人で食べ始めると、しばらく沢の音だけになった。
弁慶は飯を半分ほど食べたところで、ようやく顔を上げた。
「下では、何か申しておったか」
「この辺りを通る旅の者は、近頃減ったそうです」
景綱は菜を折り、飯の上へ置いた。
「山を越す者なら、早めに下りた方がよいとも。日が落ちると、道を見失いやすいそうです」
「それは、どこの山でも同じだ」
「ええ。泊まる場所はあるかと尋ねられましたので、仲間と休める場所を探すとだけ申しました」
遮那王も、沢の下へ通じる道を一度見た。景綱が戻ってから、人の足音は聞こえていない。
「この先の道も伺いました。沢を上ると、炭を運ぶ道があるそうです。尾根を越える道へ出られると」
「上り口は?」
弁慶が尋ねた。
「二つ目の淵を過ぎた所に、小さな石積みがあると申しておりました」
「ならば、明日はそちらを探すか」
遮那王は頷いた。
「食べ物は、まだ買えそうでしたか」
「米は余るほどにはないとのことでした。今夜の飯を分けていただき、明日からは持ってきた分を使います」
「飯や菜の代は、受け取っていただけましたか」
「はい。お渡ししてまいりました」
遮那王は残っていた菜を口へ入れた。
弁慶はもう飯を食べ終えていた。指についた粒を取り、葉を畳んでいる。
自分の手元には、まだ半分ほど残っていた。
弁慶は畳んだ葉を脇へ置き、薙刀を取った。
「先に、向こうへおる」
沢へ続く道が見える木立の端へ移っていく。
遮那王は残りの飯を口へ運んだ。冷め始めていたが、まだ柔らかかった。
*
食べ終えると、景綱が空になった葉をまとめた。
遮那王は寝場所へ敷いた衣を持ち上げ、落ち葉を均した。腰の辺りに当たっていた枝を一本抜き取る。
景綱が水の筒を持って木立の端へ向かい、弁慶と入れ替わる。
戻ってきた弁慶が、遮那王の手元へ目を留めた。
懐から出した笛を、布で拭いていた。
「それは、傷まなんだか」
何のことかと顔を上げる。
弁慶が自分の指を曲げた。
「橋で、拙僧の手を打ったであろう」
「そうでしたね」
笛を日に透かした。穴の縁を指でなぞり、細かな傷を確かめる。
「割れてはおりません」
「そなた、笛まで武器にするとは思わなんだ」
「太刀へ手が伸びてきましたので」
「……」
弁慶は指を開き、それから膝へ置いた。
遮那王は笛を布で包み直そうとした。
「吹かぬのか」
手を止める。
沢の音が、木立の中まで届いていた。
「今夜は、やめておきます。また誰か来られても困りますので」
「拙僧は笛に呼ばれたのではないぞ」
「では、太刀に?」
「分かっておるではないか」
遮那王は笑いながら、笛を懐へ戻した。
弁慶は背後の木へ肩を預けた。昼間、斜面で踏ん張っていた足を伸ばす。
「だが、悪い音ではなかった」
顔を上げたときには、もう目を閉じていた。
遮那王は少し考え、それから声を落とした。
「では、またお聴かせいたします」
「そのときは聴こう」
弁慶は目を閉じたまま答えた。
沢の方で、水を飲む音がする。
景綱が筒を下ろした。木々の向こうを確かめ、また沢沿いの道へ顔を向ける。
遮那王は衣を敷き直し、その上へ腰を下ろした。
樹間に差していた日が、少しずつ細くなっていた。
*
木々の間に残っていた光が消えると、沢の音が近くなった。
景綱が戻ってきた。腰を下ろす前に、沢へ下りる道を振り返る。
「こちらへ上がってくる者はおりませぬ」
弁慶は伸ばしていた足を引き寄せた。
「では、そなたから休め。拙僧が起きておく」
「まだ眠くはございません」
「昼から、ろくに座ってもおらぬであろう」
景綱は答えず、肩に残る紐の跡を片手で押さえた。
「次は私が代わります」
遮那王が申すと、弁慶は膝に置いた薙刀へ目を落とした。
「そなたも寝ておれ」
「一晩中、起きておられるつもりですか」
「一晩くらい、どうということはない」
「明日、眠くなられても、背負えませぬよ」
弁慶が顔を上げた。
景綱は荷の紐を整えていたが、口元が緩んでいる。
「誰が背負えと申した」
「では、私も起こしてください」
弁慶はしばらくこちらを見ていたが、やがて頷いた。
「分かった。刻が来たら起こす。今は寝ておれ」
景綱が太刀を外し、手元へ置いた。
「最後は私が。明るくなる前に、お二人を起こします」
弁慶は頷き、沢へ通じる道の見える場所へ移った。幹に背を預け、薙刀を身体の脇へ沿わせる。
遮那王も太刀を外し、枕元へ置いた。
横になると、落ち葉を敷いても地面は硬かった。肩の下に衣を寄せ、腰の位置を変える。頭の下には包みを置いた。
向こうで景綱が身じろぎした。
弁慶は木立の切れ目へ顔を向けたまま、片膝に腕を載せている。
目を閉じる。
沢の水が、絶えず岩を越えていた。
*
肩に手が触れた。
身体を起こしかけると、すぐそばで声がした。
「拙僧だ」
弁慶の顔が、暗がりに浮かんでいた。
「何かありましたか」
「何もない。見張りの交代だ」
息をつき、ゆっくり起き上がる。頬には、頭の下へ敷いた衣の跡がついていた。
「分かりました。お休みください」
景綱は衣を肩まで掛け、横向きに寝ていた。
太刀と杖を持ち、弁慶のいた幹へ移る。腰を下ろすと、沢へ下りる道が木々の間に見えた。
弁慶がその脇を指した。
「あそこは石が浮いておる。暗いうちは踏むな」
「分かりました」
薙刀を拾い、寝場所へ戻っていく。
大きな背が落ち葉の上へ収まり、衣の擦れる音がした。
道へ向き直る。
目が慣れてくると、幹と幹の間に、下の斜面が見分けられるようになった。
枝先で何かが動いた。
顔を上げる。葉が揺れ、小さな影が幹を走って消えた。
手元の杖から力を抜いた。
昼間つかんだ根の感触が、まだ掌に残っていた。指を曲げると、皮の擦れたところが引きつる。
背後から、低い寝息が聞こえ始めた。
弁慶だった。
橋の上では、あれほど近づけまいとした身体が、今はすぐ後ろで眠っている。
肩越しに見ると、大きな手が衣の外へ出ていた。
また道へ目を戻す。
膝へ夜気が染みてきた。持ってきた衣を広げ、足元へ掛ける。
母に見られれば、また叱られるところだった。
*
景綱の肩へ手を掛けると、すぐに目が開いた。
「交代ですか」
「はい。お願いいたします」
景綱は身体を起こし、木立の外へ目を向けた。
「お休みください」
場所を譲り、寝床へ戻る。
弁慶は同じ姿勢で眠っていた。衣の裾から、片方の足が出ている。
起こさぬよう足元を避け、太刀と杖を枕元へ置いた。
横になると、包みの置き方を直す間もなく眠った。
*
鳥の声で目を覚ました。
枝越しの空が、薄く白んでいる。景綱はもう荷をまとめていた。
「起こそうと思っておりました」
「弁慶殿は?」
尋ねたところで、沢の方から草を踏む音がした。
弁慶が水の筒を提げて戻ってくる。顎には滴が残っていた。
「顔を洗うなら、下の平たい石へ下りよ。上は滑るぞ」
差し出された筒を受け取った。
水が満ちている。
「ありがとうございます」
「飯にしよう。腹が減った」
景綱が包みを開いた。
遮那王は筒を荷のそばへ置き、沢へ下りた。水へ手を入れると、眠気が引いた。
顔を拭きながら戻ると、弁慶が草鞋の緩んだ藁を締め直していた。鼻緒を引き、裏返して底を確かめる。
その隣へ座り、干飯を受け取った。
飯を噛む間に、木々の向こうが明るくなっていく。
「石積みは、二つ目の淵を過ぎた所でしたね」
景綱が頷いた。
「はい。そこから山側へ入る道を探しましょう」
弁慶が沢の上流へ目を向けた。
食べ終えた包みを畳む。
敷いていた衣を持ち上げると、落ち葉が何枚もついてきた。手で払い、荷へ収める。
弁慶も立ち上がった。その背の跡だけ、落ち葉が深く沈んでいる。
「よく眠れましたか」
「よう寝た。そなたは」
「私もです」
弁慶は草鞋の爪先を土へつき、足の収まりを確かめた。
「では、今日は遅れるなよ」
「分かれ道では、お待ちください」
景綱が先に荷を背負った。
「お二人とも、沢へ下りる足元はお気をつけて」
弁慶が薙刀を持ち、その後へ続く。
遮那王も太刀を帯び直し、杖を取った。
木立を抜けると、朝の光が沢の石に差していた。




