第四話 山道へ
第四話 山道へ
夜明け前、長成の屋敷では、旅支度の音が小さく続いていた。
戸口に三人分の荷が並んでいる。替えの衣と草鞋、干飯、薬。遮那王は自分の包みを背負い、肩に掛かる紐を締め直した。昨夜まで広げていた道の紙は、布に包んで懐へ収めてある。
長成が座敷から出てきた。
「支度は整ったか」
「はい」
「山道へ入れば、足場の悪いところもある。急ぐあまり、歩みを乱すな」
「心得ました」
奥から来た常盤が、遮那王の旅衣へ手を伸ばした。襟元の合わせを直し、袖口を確かめる。
「牛若。顔を上げて」
母の顔を見た。
「山では冷えましょう。寒くなったら、荷の衣を重ねなさい。無理に薄着で通してはいけません」
「はい、母上」
「行っておいで。戻ったら、旅の話を聞かせてください」
「必ず」
弁慶は戸口に立ち、預けていた薙刀を手にしていた。景綱も旅の装束に改め、腰に太刀を帯びている。
家人が最後の包みを運んできた。弁慶が受け取って背負い、紐を引く。荷はその背に収まると、小さく見えた。
長成が家人を呼び、裏門を開けるよう命じた。
表の通りから、荷車の軋む音が聞こえていた。朝市へ向かう者が、もう動き始めている。
景綱が裏門の外へ出た。路地の先を確かめ、戻ってくる。
「今なら、人はおりませぬ」
弁慶が薙刀を持ち、門を抜けた。路地へ出ると、二人を待つ。
遮那王は長成と母へ向き直り、頭を下げた。
「行ってまいります」
顔を上げると、母は門のそばまで来ていた。長成はその隣に立っている。
もう一度、二人の顔を見てから敷居を越えた。
景綱が続き、背後で門が閉じた。
*
細い路地を抜け、屋敷の並ぶ通りから離れていく。
角を曲がろうとしたところで、前を行く弁慶が足を止めた。道の向こうを、籠を背負った男たちが横切っている。
三人は軒下に寄り、その背が見えなくなるのを待った。
遠くで寺の鐘が鳴った。
男たちが向かった通りには、店先を開ける音や、人を呼ぶ声が増えていた。弁慶はそちらへ目をやると、反対の細道へ歩き出した。
後ろから景綱の足音がついてくる。
家並みが途切れ、畑の間へ出た頃には、空が白み始めていた。道の先に山裾が見える。
懐から紙を取り出す。昨日つけた道の曲がりと、目の前の細道を見比べた。
「あちらです」
指した先を弁慶が見た。畑を回り込む細道へ、三人で足を向ける。
紙をしまい、杖を握った。
山裾の畑を過ぎると、道は木立の中へ入った。
朝露を含んだ草が、草鞋の鼻緒を濡らす。土には木の根が張り、所々に石が浮いていた。都では気にならなかった荷の重みが、坂を上るにつれて肩へ掛かってくる。
前を行く弁慶の歩幅は大きかった。足場を選びながら進んでも、少しずつ背が遠ざかる。
曲がり角で、その姿が消えた。
追って坂を上ると、弁慶は木の幹に肩を預けて待っていた。
「お待たせしました」
「この先で分かれる」
薙刀の石突が、木々の間を指した。
下へ続く道は踏み固められている。上の道は細く、落ち葉に半ば隠れていた。
遮那王は懐の紙を開いた。尾根へ上がる分かれ道には、昨夜つけた印がある。
「上ですね」
「そうだ。下は村へ出る」
紙を畳み直す間に、景綱が追いついた。歩いてきた道を振り返り、それから上の道へ目を向ける。
「先をお願いいたします」
弁慶は坂へ足を掛けた。
細道では薙刀を肩に担げなかった。枝へ引っかからぬよう、柄を身体に沿わせて進んでいく。その後ろを、少し間を空けて追った。
斜面を回るところで、太刀の鞘が幹に当たった。
足を止め、吊った位置を直す。飾りの金が、葉の間から差す日に光った。
「扱いにくいか」
弁慶が振り返っていた。
「山道では、杖のほうが頼りになります」
「橋でも、そうであったな」
答える前に、弁慶は歩き出した。
杖の先を土へつき、後を追う。あの夜、薙刀の柄を受けた場所には傷が残っていた。握る位置を少し変えると、手の内にいつもの感触が戻った。
*
尾根に近づくにつれ、登りが緩くなった。
細道は山腹を横切るように続いている。右手には斜面が迫り、左手は木々の間へ落ち込んでいた。下から時おり人の声が届く。姿は見えなかった。
弁慶が立ち止まった。
倒れた木が道を塞いでいる。根元は山側の土を抱え、幹が谷へ向かって斜めに掛かっていた。周りの枝も巻き込まれ、そこだけ木立が途切れている。
幹は腰より少し高かった。
弁慶が谷側をのぞく。土が崩れ、根が露わになっていた。
「端へは回るな」
その場で身を沈め、幹の下をくぐった。背負った荷が樹皮に擦れ、途中で止まる。片手で荷を押さえ、身体を横にして抜けていった。
遮那王は荷を下ろした。幹の下へ押し出すと、向こうで弁慶が受け取る。
片膝をつき、頭を低くしてくぐった。最後に景綱の荷を受け取り、三人とも道の向こうへ出た。
背負い直そうとすると、弁慶が包みの紐を指した。
「緩んでおる」
結び目が枝に擦れ、片方だけ長く垂れていた。
「ありがとうございます」
紐を結び直し、木立の中へ入る。二十歩ほど先で、道は岩の張り出しを回っていた。
「少し、お待ちを」
景綱の声に足を止めた。
視線は下の木立へ向いている。
耳を澄ますと、葉の擦れる音に交じり、何か硬いものが触れ合って鳴った。続いて、人の声がする。
弁慶の手が動き、薙刀の石突が土を離れた。
景綱が山側へ寄った。低い枝の間から、斜面の下をうかがう。
遮那王も隣へ膝をついた。
下には、幅の広い道が通っていた。
数人の男たちが歩いてくる。先頭の者が立ち止まり、後ろを振り返った。腰の太刀へ手を添え、何かを言っている。声は聞き取れなかった。
「六波羅の者です」
景綱が声を落とした。
「あの先頭の男に、見覚えがございます」
男たちは旅人のように荷を背負っていなかった。後ろには弓を持つ者もいる。
弁慶が木立へ近づく。袖を引くと、その場で身をかがめた。
下の道で、一人が山側を指した。
先頭の男がそちらを見る。三人が進む方向の、少し先だった。細い登り道が、斜面を折れながら上へ延びている。
途中からは岩に隠れ、どこへ出るのか見えなかった。
懐の紙に手を掛けかけ、やめる。遮那王は目の前の道へ視線を戻した。
先へ続く細道も、同じ岩の向こうへ回り込んでいる。
「景綱殿。あの登り道は、こちらへつながっていますか」
「上がれば、この辺りへ出るはずです。ただ、合わさる場所までは存じませぬ」
先頭の男が登り口へ入った。
後ろの者たちも続く。草を押し分ける音が、先ほどより近くなった。
弁慶が薙刀を握り直す。
「先へ行くか」
岩陰の向こうは見えない。今進めば、登ってきた者と鉢合わせる恐れがある。
来た道を振り返った。
倒木の辺りだけ、斜面が下の道へ開けていた。戻るなら、もう一度あそこを横切ることになる。
登り口には、弓を持つ男が一人残っていた。時おり顔を上げ、上の斜面にも目を向けている。
「伏せてください」
弁慶が膝を折った。景綱も枝の陰へ身を寄せる。
倒木の幹には、荷で擦った白い跡が残っていた。上がってきた者があそこまで進めば、目に留まるかもしれない。
遮那王は杖を身体へ引き寄せた。
「いったん、道から離れましょう」
山側の木陰を示し、腰を低くしたまま二人を招いた。
低い枝の下へ入り、幹を背にした。
すぐ脇の道を、登ってくる者たちの声が伝ってくる。まだ岩の向こうだ。枝越しに見える下の道では、弓を持つ男が腰を下ろしかけ、また立ち上がった。
弁慶が薙刀を引き寄せる。
「ここなら、一度には掛かってこられぬ」
声は低かった。
「拙僧が留める。その間に先へ行け」
遮那王は斜面の上へ目を向けた。
道から離れるにつれ、地面は急になっている。途中に土が削れた段があり、その上に太い木が生えていた。根が土を抱え込み、段の下に窪みを作っている。
そこを越えれば、岩の張り出しの上へ出られそうだった。
「上へ出ましょう」
「道はないぞ」
「岩の向こうを見ます。登ってきた者たちが、どちらへ進むかも」
弁慶が斜面を見上げた。
「荷を下ろしてください。ここでは枝に掛かります」
景綱が包みを足元へ置いた。弁慶も紐を肩から外す。
遮那王は杖を斜面へついた。土が崩れ、先端が滑る。少し横へずらすと、石に当たって止まった。
杖を景綱へ預け、そこへ足を掛ける。
根をつかみ、身体を引き上げたところで、下から声が届いた。
「二人はそちらへ回れ」
動きを止めた。
岩陰から男が出てくる。続いて、もう一人。三人が歩いてきた細道を、こちらへ向かって進み始めた。
幹の陰で、景綱が身を低くする。
男たちは落ち葉を踏み、時おり道の脇を見ていた。まだ、こちらに気づいた様子はない。
二人が木の陰へ入った。
その間に膝を段の上へ乗せ、腹ばいになる。肘で身体を引き、太い幹の裏へ身を寄せた。
景綱が杖を差し上げた。受け取って脇へ置き、もう一度手を伸ばす。
今度は弁慶が荷を持ち上げた。続いて景綱の荷、最後に自分の荷を差し上げる。受け取るたび、幹の裏へ寄せた。
布が枝に掛かった。
片手で枝を押さえ、少しずつ外す。
下で足音が止まった。
「ここを通った者がおるな」
倒木の方だった。
景綱は幹に身体を寄せていた。弁慶の背も、その隣に沈んでいる。薙刀は斜面に沿わせ、穂先を枝の下へ収めてあった。
男の足が木々の間を動く。
「下へは回れぬ。くぐったのか」
「向こうまで見ろ」
衣の擦れる音がした。
倒木を越えてくる。
遮那王は景綱へ手を差し出した。景綱が斜面へ片足を掛け、根をつかむ。下から弁慶が腰を支えた。
段の上へ届いた手をつかみ、引き寄せる。
景綱は声を立てずに這い上がった。
残る弁慶へ目を向ける。
太い指が根へ掛かった。
足を置こうとした土が崩れ、小さな塊が道へ転がっていく。
「何だ」
足音が近づいた。
遮那王は、根の下にできた窪みを指した。
弁慶が身を沈める。上げかけた頭を引き、肩を幹の裏へ寄せた。握った根から手を離さず、そのまま動きを止める。
景綱が太刀の柄へ手を添えた。
その手首を押さえ、首を横に振る。
男の草鞋が枝の間に見えた。
止まった。
太刀の鞘が道端の草を払う。男は斜面へ顔を向けた。
鞘が根元の枯れ草を押し分けた。
その奥で、弁慶は窪みに身を押し込んでいた。大きな背は土の段に隠れ、肩は幹の陰に収まっている。
男が一歩、道の端へ寄った。
遮那王は腕を伸ばさなかった。今、弁慶を引けば、根の上へ姿が出る。
鞘が下りた。
「どうした」
倒木の向こうから、もう一人が呼んだ。
「土が落ちてきた」
男はしばらく斜面を見上げていた。それから鞘を腰へ戻し、倒木の方へ歩いていった。
景綱の手首から指を離す。
弁慶は、まだ動かなかった。
倒木をくぐった男が戻ってくる。二人は言葉を交わし、岩の方へ引き返した。
その背が隠れてから、遮那王は弁慶へ頷いた。
先ほど杖で確かめた石を指す。
弁慶の足がゆっくり横へ移り、石を踏んだ。
肩が段の上へ出る。
薙刀を先に受け取り、景綱へ渡した。空いた手を伸ばすと、弁慶が腕をつかむ。
重い。
膝を土へ押しつけた。隣から景綱も腕を伸ばす。
弁慶は自分で根をたぐり、身体を持ち上げた。二人で腕を支え、大きな肩が段を越える。
三人とも、しばらく動かなかった。
岩の向こうから声が届く。
「そちらはどうだ」
「倒れた木の先にも、道は続いておる」
「では、二人は先を見てこい。こちらは下へ戻る」
遮那王は顔を上げた。
岩の上から、先ほど見えなかった道がのぞける。登り道は岩の裏で細道へ合わさっていた。戻った二人は、そこで待っていた二人と別れた。
二人が先へ進み、残る二人が斜面を下りていく。
弁慶も同じ方を見ていた。
「このまま待つのか」
耳元で問われた。
「先の二人が、もう少し離れるまで」
木立の間を、太刀の鞘が揺れている。
やがて姿が消え、足音も遠ざかった。
景綱が下を確かめた。戻った二人は、弓を持つ男と何か話している。こちらを見上げてはいなかった。
遮那王は斜面の先を指した。
「道へは下りず、この上を回ります」
山側には木が生え、根の間に足を置ける場所があった。平らではないが、岩の上を横切ることはできそうだった。
景綱から薙刀を受け取った弁慶が、荷へ手を伸ばす。
「一つ寄こせ」
「ご自分の荷もあります」
「先に立つなら、身を軽くしておけ」
荷を渡すと、弁慶は二つをまとめて肩へ掛けた。
遮那王は脇に置いた杖を拾い、先へ進む。
足を置く前に土を確かめた。木の根をまたぎ、幹を回る。浮いた石を踏まぬよう、歩幅を狭めた。
後ろから二人が続いてくる。
下の道へ目を向けながら、少しずつ岩から離れた。
*
再び道が見えた頃には、日が高くなっていた。
斜面を回り続けたため、どれほど進んだかは分からない。景綱が木立の端まで下り、道の前後を確かめた。
男たちの姿はなかった。しばらく待っても、足音は聞こえてこない。
三人は木立の奥で腰を下ろした。
弁慶から荷を受け取る。肩へ掛けようとしたが、腕が重い。そのまま足元へ置いた。
景綱の手の甲にも土がついていた。
干飯を口へ入れ、水でふやかしながら噛む。
弁慶は食べる手を止め、こちらを見ていた。
「拙僧が出ておれば、斬らずとも退けられた」
「できたでしょう」
「ならば、なぜ止めた」
遮那王は水の筒を閉じた。
「一人でも下へ戻れば、人を呼びます。逃がさぬために追えば、あの弓の前へ出ることになる」
弁慶は道の方へ目を向けた。
やがて、根をつかんでいた手を開く。掌についた土を、膝の上で払った。
景綱は食べ終え、木々の間から道を見ている。
残りの干飯を包み直した。懐の紙を開くと、折り目に汗がにじんでいた。
予定していた道から、山側へ大きく回っている。日が落ちる前に水を得られる場所を、確かめ直さねばならなかった。
「この辺りに、沢へ下りる道があったな」
弁慶の指が紙の上へ伸びた。
「昨日お話しくださった道ですか」
「そうだ。まず、下り口が残っておるか見てこよう」
遮那王は木々の向こうを見た。
「一緒に参ります。道が分かれるところでは、待っていただけますか」
「今朝も待ったであろう」
顔を上げると、弁慶は包みをしまっていた。
「では、またお願いします」
弁慶が荷を背負う。
今度はその背が遠ざかる前に、遮那王も立ち上がった。




