第三話 屋敷の客
第三話 屋敷の客
長成の屋敷へ着いた頃には、夜も更けていた。
門前の灯が、遮那王と、その後ろに立つ大男を照らす。僧衣に薙刀。門を守る者たちが、すぐに身構えた。
「遮那王様、お戻りでございますか」
「はい。長成殿にお目通り願いたいのです」
門番の目が、弁慶の薙刀に留まる。
「その者は……」
「私が連れてまいりました。まずはお取り次ぎください」
門番はためらいながらも屋敷の内へ走った。弁慶は何も言わず、その場に立っている。
やがて常盤が出てきた。
「牛若、何があったのです」
常盤の目が遮那王の顔を確かめ、それから隣の大男へ向く。
「武蔵坊弁慶殿です。五条の橋で太刀を求められ、勝負になりました。私が勝ち、屋敷までご一緒いただいております」
長成も奥から現れ、弁慶の姿に足を止めた。
「五条の橋で太刀を奪っているという法師か」
「はい。橋の上で向き合いました」
後ろに控えていた清盛の供、伊藤景綱が一歩進み出る。
「弁慶と名乗る法師が、遮那王様の太刀を奪おうといたしました。橋上で遮那王様が退けております」
長成の眉が寄った。
「ならば賊ではないか。六波羅へ引き渡すべきだ」
家人たちが動きかける。
「お待ちください」
遮那王の声に、足が止まった。
「弁慶殿を、伊豆への旅にお誘いしました」
常盤が息を呑む。長成は弁慶から目を離さずに尋ねた。
「太刀を奪おうとした者をか」
「はい。橋の上では薙刀を思うように振るえません。広い場所で向き合っていたなら、私が敗れていたやもしれません」
長成は弁慶を見た。
「そなたが敗れていたかもしれぬ相手を、旅に誘うのか」
「はい。弁慶殿と共に行きたいと思いました。来てくだされば、嬉しいです」
長成は黙って弁慶を見た。それから景綱へ目を向ける。
「今宵のことは、六波羅へ報告するのだな」
「はい。大相国様より、道中の様子を知らせるよう命じられております。今宵のことも報告いたします」
「ならば、弁慶殿を屋敷に留めたことも伝わろう。賊を匿ったと見なされれば、どのような沙汰が下るか分からぬ」
長成は遮那王へ目を戻した。
「連れてきた以上、話も聞かずに追い返すわけにもいかぬ。今夜は客間を使っていただく。ただし、薙刀は戸口で預かる」
「お待ちください。弁慶殿と話がしたく存じます。今夜は、私も同じ部屋で話を伺いたいのです」
常盤が遮那王を見た。
「牛若、そなたも同じ部屋で過ごすつもりですか」
「母上……はい。弁慶殿のお話を聞きたいのです」
「牛若! 同じ部屋で休み、寝込みを襲われたらと思うと……」
「戸口に人を置いてください。何かあれば、すぐに声を上げます」
常盤は長成を見た。長成は弁慶の顔を見てから、廊下に控える家人へ告げた。
「戸口に人を置け。何かあれば、すぐに知らせよ」
常盤は不安げな目を遮那王へ戻した。
「そなたが見込んだ方です。今宵は、そなたの目を信じましょう。牛若、あまり心配をかけないでおくれ」
「はい、母上」
弁慶は肩の薙刀を下ろした。家人が受け取ろうとすると、ひと呼吸置いてから柄を差し出す。
「預けておく」
長成は弁慶に向き直った。
「今宵は客間をお使いくだされ」
「承知した」
*
客間では、弁慶が壁際に座った。薙刀は戸口の外に預けられ、家人が廊下に控えている。
遮那王は、その向かいに腰を下ろした。運ばれた湯は、まだ湯気を立てている。
「あの太刀を抜かなかったのは、なぜだ」
「父上が使っていた太刀だと聞き、先日、清盛殿から譲り受けました」
弁慶の視線が、遮那王の腰の鞘に留まる。
「それで、抜けなんだか」
「父上の太刀を人に向けることに、ためらいがありました。それに、あなたを斬るつもりもありませんでした」
弁慶は湯呑みに手を伸ばした。ひと口飲んでから、遮那王を見る。
「伊豆へ向かうと申したな。何ゆえだ」
「伊豆には、腹違いの兄、頼朝殿がおられると聞きました。私は父上を覚えておりませぬ。頼朝殿は父上と長く過ごされたと聞き、父上のことを伺いたいのです」
「父を覚えておらぬと申したな。先ほどの屋敷の主は、そなたの父ではないのか」
「長成殿は、私を養子として迎えてくださった方です。父上は、私が幼い頃に戦で亡くなりました。七つの頃に鞍馬へ預けられてからは、長成殿とも離れて暮らしてきました」
弁慶は、すぐには答えなかった。
幼い頃、比叡山へ預けられた日のことがよみがえる。自分の行く先を、自分で選べる身ではなかった。あの山を出るまで、幾度も門の外へ目を向けた。
「拙僧も、幼い頃に比叡山へ預けられた」
遮那王は、弁慶の顔を見た。
「そうでしたか」
「寺におれば心が鎮まると考えた者がおったのだろう。だが、あの山は拙僧の居場所にはならなかった」
弁慶は湯呑みを包む指に力を入れ、それから静かに緩めた。
「山を出た後は、どちらへ向かわれたのですか」
「行く先々で、長くは留まれなんだ」
それきり、弁慶は口を閉ざした。
遮那王も先を尋ねなかった。湯呑みを持ち上げると、湯はすっかり冷めていた。
「鞍馬を出るとき、寺に残る者たちが見送ってくれました」
「別れを惜しまれたか」
「はい。帰る場所を残しておくと言われました」
「そなたは、帰る場所を置いて旅に出るのか」
「置いていくのではありません。帰る場所があるから、出られるのだと思います」
弁慶は遮那王を見つめた。心を許したわけではない。その目には、まだ測りかねるものを見る色が残っていた。
「そなたは、拙僧を伊豆への旅に誘った」
「はい」
「なぜだ」
「橋であなたの声を聞いた時、昔の友を思い出しました。あなたと話してみたいと思ったのです」
弁慶は湯呑みを置いた。
「……そんなに似ているのか」
「気性が、です」
弁慶は、遮那王の顔をしばらく見ていた。やがて視線を外し、冷めた湯を飲み干した。
廊下の向こうで家人が控えている。薙刀は戸口の外にある。二人の間には、まだ越えられぬ距離が残っていた。
*
朝、六波羅から使いが文を届けに来た。
長成は封を確かめてから、遮那王と常盤、弁慶を座敷へ呼んだ。弁慶の薙刀は、戸口の外に置かれている。廊下には家人が控えていた。
長成は文を開き、目を通した。
「清盛殿は、弁慶殿を六波羅へ引き渡すよう申し付けておられる」
弁慶が立ち上がった。
「ならば、捕まるわけにはいかぬ」
弁慶は戸口へ向かう。
「弁慶殿……」
足が止まった。
「このままでは、そなたや長成殿にも咎が及ぶ。拙僧はここを出る」
「お待ちください。私があなたを連れてきたのです。私から事情を申し上げます」
長成が文を持った手を上げた。
「弁慶殿。話は最後まで聞きなさい」
弁慶は足を止めた。長成は文へ目を戻す。
「清盛殿は、弁慶殿の狼藉を見過ごすことはできぬと書いておられる。六波羅の者も襲われ、太刀を奪われた。これを咎めずに済ませれば、治める側の示しがつかぬ。ゆえに、六波羅へ引き渡すよう命じる、と」
弁慶は座敷へ戻った。戸口の外に置かれた薙刀を一度見たが、取りには行かなかった。
長成は文を続けた。
「一方で、遮那王の伊豆行きを止めるつもりはないともある。弁慶殿を伴うなら、人目の多い道は避けよ。六波羅が捜すとなれば、まず京の近道と東へ向かう往来を押さえる。そこを通れば、長成殿の屋敷を出たことも、誰を伴ったかも、すぐ知れよう、と」
「清盛殿は、拙僧を逃がすおつもりか」
「そうとは書いておられぬ」
長成は文面を確かめながら答えた。
「弁慶殿の罪を消すとも、追捕を止めるともない。ただ、遮那王が進む道を示しておられる」
文の末には、道中の備えについて記されていた。どこで糧を得るか、どこに宿を求めるか、川や山をどう越えるか。道を示すだけでは旅は成らぬ。そなた自身で組み立てよ。其方ならできるだろう、と。
さらに、その下に短く続いていた。
「大男を討つべしとの沙汰が、六波羅で持ち上がっておる。兵が動く前に決めよ。時はない。――清盛」
遮那王は文を受け取った。
許しとは書かれていない。弁慶を伴えば、追われる身になる。清盛は、その先に進む道と、残された時を示していた。
常盤が遮那王を見た。
「牛若。文にある道を進めば、六波羅の者と行き違うこともありましょう」
「はい」
「あなたは、どうするのです」
「弁慶殿を連れて行きます。私が誘いました」
常盤は遮那王を見つめた。やがて、長成へ目を向ける。
「支度を急がねばなりませんね」
「そうだな。兵が動くまで待つわけにはいかぬ」
「道と糧を整えます」
遮那王は、鞍馬を出る前に書き留めた道筋を取り出した。長成の家人が、伊豆へ向かう道を記した地図を広げる。
清盛の文にある道は、京を東へ抜ける大路を避け、山沿いに進むものだった。人の往来が少ない分、宿や食糧を得られる場所も限られる。
「村で補えると決めてかかるのは危ういな」
長成が言った。
「はい。村へ着く前に一日進めなくなった場合も考えます」
遮那王は道筋に印をつけた。宿を得られるとは限らぬ場所には、休める場所と水場を別に記す。川が増水して渡れぬ場合に備え、家人から聞いた迂回路も書き足した。
「ここは雨の後、渡れぬことがございます。上流へ回る道はありますが、荷を担いで越すことになります」
「水が増していたら、無理に渡らず村へ戻ります」
弁慶が地図をのぞき込んだ。
「その尾根を越えれば、川へ出る前に細道がある。旅の途中で通った。荷を担ぐ者なら通れるが、馬は難しい」
「水場はありますか」
「沢があった。今も水があるかは分からぬ」
「では、確かな道とは分けて記しておきます」
弁慶は、遮那王の手元を見ていた。話した道をそのまま頼りにするのではなく、使える条件を確かめ、まだ知らぬことは別に記している。
「拙僧の話を疑うのか」
「疑っているのではありません。確かなことと、まだ確かめていないことを分けているのです」
弁慶は答えず、地図の端を押さえた。
長成は家人に、道沿いの村へ使いを出すよう命じた。常盤も女房を呼び、替えの衣や薬を確かめ始める。旅に持つ干飯の量、途中で水や食糧を補う村、雨で道が塞がれた際の迂回路。必要なことが一つずつ定まっていった。
弁慶は、しばらく皆の話を聞いていた。やがて地図の端を指す。
「この先の山道は、拙僧も通ったことがある。道が残っておれば、力になれるやもしれぬ」
「それは助かります」
「まだ通れるとは限らぬぞ」
「確かなことと分けておきます」
弁慶は地図から手を離した。
「拙僧が共に行けば、六波羅に追われる」
「はい」
「清盛殿は、罪を許したわけではない」
「分かっています」
弁慶は長成と常盤を見た。二人はまだ弁慶を信じたわけではない。それでも、遮那王の言葉を受け、旅支度を進めている。
やがて弁慶は、戸口の外に置かれた薙刀を取りに行った。柄を握り、しばらく立ち止まる。
「拙僧が加われば、道中で何が起こるか分からぬぞ」
「だから、道を考えます」
弁慶は地図に目をやり、それから遮那王を見た。
「……伊豆まで共に参ろう」
遮那王は、深く頭を下げた。
弁慶は返礼を求めなかった。清盛の文は長成の手元に残り、旅の道筋は座敷に広げられている。
弁慶は六波羅へ引き渡される身だった。清盛が示した道を進むにも、まだ支度がいる。
遮那王は地図に目を戻した。伊豆までの線は、途中で途切れている。そこから先は、実際に歩き、確かめながら進むしかなかった。
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