第二話 千振り目の太刀
第二話 千振り目の太刀
「女人かと思えば、若武者か」
笛を懐へしまう。西詰では清盛の供が通行人を遠ざけていた。橋の上に残るのは、二人だけだ。
「その太刀、もらい受ける」
「欲しいのなら、力ずくで来るがよい」
腰の太刀には触れず、稽古で使った杖を構えた。
男の眉間に深い皺が寄る。
「なぜ抜かぬ」
返事を待たず、薙刀が横に走った。
杖の先で柄を打ち、軌道をそらす。木と木が鳴り、切っ先が頬の前を抜けた。風圧で髪が揺れる。遅れて橋板が軋み、衝撃が足裏まで伝わった。
杖を握る手が痺れていた。逸らしただけで、腕に重さが残る。
「抜かぬのか」
薙刀が欄干から引き抜かれる。砕けた木が川へ落ちた。
男の左足が前へ出る。腰が沈む。突きの起こりを見て、切っ先が伸びる前に半歩身をずらした。
切っ先が橋の外へ抜けた。内へ踏み込み、柄を押さえようとする。男は手首を返し、薙刀を回した。
石突が迫る。
杖を立てて流す。衝撃で腕が跳ね、草鞋が橋板を滑った。踏みとどまった背後には欄干が迫っている。男の荒い息が、近くなった。
橋の幅は狭い。後ろへ下がれば、いずれ行き止まる。ならば、間合いはこちらで決める。
「逃げてばかりか」
「太刀を奪うために来たのでしょう」
「その太刀を持つ者を倒し、奪う。それだけだ」
「ならば、まず私を倒さねばなりません」
「だから抜けと言っている」
声が橋を震わせた。
杖を握り直す。腰の太刀は鞘に収まったままだ。抜けば、刃を交えることになる。守るために振るったとしても、その刃がどこへ届くかは選べない。
男は、迷いが消えるのを待ってはくれなかった。
薙刀が唸る。横薙ぎをかわした先へ、返す刃が迫る。杖を柄に当てて押し流し、足を引く。男はただ力任せに振っているのではない。こちらが避けた先を狙い、退く場所を一つずつ潰してくる。
「拙僧の前に立ちながら、腰の太刀に手もかけぬ。侮っておるのか」
「侮ってはいません」
「では、なぜ抜かぬ!」
「あなたを斬るつもりはありません」
男の目が燃えた。
「ならば、斬らずに拙僧を止めてみよ」
薙刀が迫る。
杖で柄を打ち、切っ先をそらす。男は間を空けず、杖ごと押し切るように踏み込んできた。力には逆らわない。腰を落とし、押されるままに身体を回す。
刃が橋板を削った。木屑が跳ね、川面に散る。男が薙刀を引いた。
肩が動く。次は、橋幅いっぱいを払う一撃。
後ろへ退けば欄干に追い詰められる。横へ逃げ場はない。ならば、退く先を自分で選ぶ。
腰が回る。杖を斜めに当てた。刃ではなく、柄の根元へ。
衝撃に杖がしなり、薙刀の軌道がわずかに逸れた。切っ先が橋板へ突き立つ。男が引き抜こうとする。その一瞬、杖で柄を押し下げ、中央へ踏み戻った。
「杖では、拙僧の薙刀は止められぬ」
「止めるつもりはありません」
「では何をする」
「届かせぬだけです」
男の口元が歪む。
次の踏み込みは、さらに速かった。横薙ぎをかわしたところへ石突が回る。肩をひねり、頬のすぐ脇を通す。石突が欄干を打ち、橋全体が大きく鳴った。
男は柄を引き、杖を巻き込むように押し込んだ。
杖が手から弾け飛ぶ。衝撃で指が開いた。橋板を二度跳ね、右手の欄干の根元で止まった。
薙刀が胸元へ突き込まれる。身を沈めた。切っ先は空を切り、背後の欄干を深く削る。砕けた木が川面へ落ちていった。
男が柄を返す。
左足を欄干に掛けた。薙刀の刃が、そのすぐ下を払う。先に裂けた箇所へ刃が食い込み、男の腕が止まった。
右足を刃の背へ置き、踏み込む。衝撃が膝に跳ねた。薙刀が欄干へ押しつけられ、柄が軋む。男の腕が沈んだ。
左足で欄干を蹴り、橋の内側へ跳ぶ。着地と同時に、欄干の根元にあった杖を拾った。男が薙刀を引き戻すより早く、杖の端を手首へ打ち込む。
男の指が緩む。
杖を柄にかけ、身体ごとひねった。男は力ずくで引き戻そうとする。その力に逆らわず、柄を横へ流す。
薙刀の切っ先が橋板から離れた。踏み込んだ足が空を踏む。
膝裏を払う。
大きな身体が傾き、片膝が橋板に落ちた。薙刀が手を離れ、音を立てて転がる。
杖を構えたまま、正面に立つ。
「勝負ありです」
男は立ち上がらなかった。荒い呼吸が、夜の橋に響く。伸ばされた手が、腰の太刀へ向かう。
笛を抜き、指先を打った。
乾いた音に、手が止まる。
「太刀は渡せません」
男はすぐには手を引かなかった。片膝をついたまま、転がった薙刀へ目を落とす。やがて指を曲げ、手を引いた。
「……今宵は、拙僧の負けだ」
大男は太刀から目を上げ、遮那王の顔を見た。遮那王は杖を構えたまま、薙刀への警戒を解かない。その様子に、大男の眉間の皺がわずかに緩んだ。
杖を下ろす。目を閉じる。
戦場に響いた友の怒声が、胸の奥によみがえる。翼徳。
一息だけ、その声の余韻に浸った。
目を開ける。橋に膝をつく大男は、こちらを見ていた。
「私と共に行かないか」
差し出した手を、男は見つめた。
怒りの残る顔に、戸惑いが浮かぶ。伸びかけた手が止まり、指先がわずかに震えた。
「……拙僧を、必要とされるのですか」
「必要です。伊豆までの道で、あなたの腕を借りたい」
男は、差し出された手から遮那王の顔へ視線を移した。
遮那王は手を引かない。
男はその手を取り、立ち上がった。握り返す指に、力がこもる。すぐに薙刀を拾った。
「名を聞かせていただけますか」
「武蔵坊弁慶」
「私は遮那王です」
「まずは、どこへ行く」
「長成殿の屋敷です。母上にも会っていただきたい」
「屋敷までなら同行しよう。その先は、そこで決める」
「分かりました」
西詰で待っていた清盛の供が近づいてきた。
「お怪我はございませんか」
「ありません」
供は手足を確かめた。弁慶は黙って薙刀を肩に担ぐ。
橋板には傷が走り、欄干は欠けていた。
笛を懐へ戻す。腰の太刀は、鞘に収まったままだった。
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