第一話 長成の屋敷
第一話 長成の屋敷
鞍馬を下りた遮那王は、京の町を抜け、長成の屋敷へ向かった。
背には小さな荷、手には稽古で使った杖がある。清盛から賜った紙には、伊豆までの道を書きつけてあった。濡れぬよう、懐にしまっている。
門をくぐると、母の常盤が待っていた。
「よく戻りましたね」
「母上」
常盤は遮那王の頬に手を添えた。顔色を確かめるように見つめてから、ようやく手を離す。
屋敷の主、長成も奥から出てきた。
「鞍馬を発ったと聞いた。道中、何事もなかったか」
「はい。和尚様や千寿たちに見送られました」
「そうか。まずは休みなさい。これからのことは、落ち着いてから話せばよい」
遮那王はうなずいた。けれど、休む前に済ませておきたいことがあった。
「長成殿。清盛殿へ文を届けていただけませんか」
常盤の表情がわずかに変わる。長成は理由を尋ねず、遮那王の顔を見た。
「何と書く」
「鞍馬を出たことと、伊豆へ向かう前にお目にかかりたいことを。お許しを得ずに進むつもりはないと、私の言葉でお伝えしたいのです」
「分かった。人目につかぬよう、こちらから使いを出そう」
長成は文を受け取ると、すぐに家人を呼んだ。使いは文を懐へしまい、門の外へ出ていく。
その背を見送りながら、常盤が言った。
「清盛様にお会いした後も、すぐに伊豆へ発てるとは限りません」
「はい」
「旅支度も、道中のことも、これからです。急いで答えを出さぬように」
「分かっています」
そう答えたが、懐の紙が歩くたびに胸へ触れた。
*
翌々日、長成のもとへ清盛からの返事が届いた。
日暮れの後、六波羅へ来るようにとの短い文だった。供は最小限にし、訪問を人に知られぬように、と添えてある。
長成は文を読み終えると、すぐに常盤へ渡した。
「清盛様は、お会いになるそうだ」
「ありがとうございます」
「わたしも同行する。常盤殿はここでお待ちくだされ」
常盤は何か言いかけたが、遮那王を見て口を閉じた。
「行ってまいります」
「話すことを、もう一度心の中で確かめてから行きなさい」
「はい」
長成と遮那王は、日が落ちてから屋敷を出た。
六波羅の館では、案内された部屋に清盛が一人で待っていた。長成が一礼し、遮那王も頭を下げる。
「久しいな、牛若」
「ご無沙汰しております」
「わしに会わずに行くつもりか」
遮那王は顔を上げた。
「そのつもりはございません。お許しをいただく前に、まずお話ししたいと思いました」
「ならば、文を寄こしたのはよい判断だ」
清盛は長成へ目を向けた。
「長成殿、同席を頼む。これはそなたにも関わる話だ」
「承知いたしました」
清盛は遮那王に向き直った。
「では、そなたの考えを聞こう」
遮那王は懐から紙を取り出した。道の名と宿の候補、日数を書きつけてある。清盛の前に差し出した。
「道を調べました。ですが、まだ分からぬことが多くあります。長成殿にも相談し、母上にも話をしてから進みたいと考えています」
清盛は紙を受け取らず、目だけで書きつけを追った。
「伊豆までの道を、これだけで歩けると思うか」
「思いません。書いた道が通れるとは限らぬことも、山裾で知りました。雨で橋が流れ、荷車が通れなくなりました。道があるだけでは、人も荷も運べません」
「それで、行くのをやめるか」
「いいえ。道が変わるなら、その時に確かめます。知らぬことを知ったふりで進むつもりはありません」
清盛は、書き付けに視線を落とした。
「会えぬこともある。道中で思いどおりにならぬこともあろう」
「承知しております」
「それでも進むか」
「はい」
しばらく沈黙があった。
「よかろう。伊豆へ向かうことを許す」
長成がわずかに息をついた。遮那王は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ただし、供をつける。道中の安全のためでもあるが、そなたの行き先をわしに知らせる役目も負わせる」
「承知いたしました」
「その者は明日、長成殿の屋敷へ行かせる。そなたの供として遇せよ。道中で何を話すか、どこへ立ち寄るかは、そなたが考えればよい」
遮那王は、清盛の言葉に含まれたものを受け止めた。許しと引き換えに、行く先を見られることになる。
「隠れて進むつもりはありません」
「ならば、困ることもあるまい」
清盛はそこで話を切り、脇に置いていた細長い包みを取り上げた。
「もう一つ、渡しておきたいものがある」
包みを解くと、太刀が現れた。鞘には金の飾りが施され、柄にも細かな細工がある。華やかだが、手に取れば重みのある品だった。
「これは、義朝が保元の乱で帯びていた太刀だ」
遮那王は、すぐには手を伸ばさなかった。
「父上の……」
「父や弟たちに刃を向けたときも、これを帯びていた」
指先が冷たくなる。父が戦場で帯びていた太刀が、今ここにあるとは思わなかった。
清盛は太刀を見つめている。
「乱の後、朝廷は義朝に、父の為義を斬れと命じた」
遮那王は息を止めた。
「父上に、父上を斬れと……?」
「そうだ」
清盛の声は静かだった。遮那王は太刀から目を離せない。
「なぜ、勝った後にそのような命が下ったのですか」
「敗れた者を生かせば、再び兵を集める恐れがある。朝廷は、源氏の力を削ぐためにも、義朝に父を始末させようとしたのだろう。命に背けば、義朝自身も逆賊と見なされかねぬ」
遮那王は膝の上で手を握った。父は戦に勝った。それなのに、父親を斬るよう命じられた。
「父上は……為義殿を斬ったのですか」
「斬らなんだ。別の者が首を落とした」
言葉が途切れた。
遮那王は太刀の鞘に目を落とした。父がこれを握って戦い、その後、父親を斬れと命じられた。その手に、どれほどの力が入っていたのか。想像しようとして、できなかった。
「義朝は、為義が亡くなった後、この太刀をわしに預けた。もう持ってはおれぬ、と」
清盛は太刀を遮那王へ差し出した。
「そなたに渡す。父のものだからといって、持つかどうかはそなたが決めよ」
遮那王は両手で受け取った。金の飾りは冷たく、太刀の重さが腕へ伝わる。
「なぜ、私に」
「父の形見を持つことが、そなたの道を決めるわけではない。だが、父が何を背負ったかを忘れぬための品にはなろう」
遮那王は太刀を膝の上に置いた。
「お預かりいたします」
「預けるのではない。そなたのものだ」
清盛はそう言って、長成へ目を向けた。
「旅支度には日が要る。急がせるな。必要な物を整え、出立の日を決めよ」
「承知いたしました」
遮那王はもう一度、太刀へ目を落とした。父の手から清盛の手へ渡り、今、自分の膝の上にある。その重さを、まだ受け止めきれなかった。
*
長成の屋敷へ戻ったのは、夜も更けてからだった。
常盤は起きて待っていた。遮那王の顔を見て、清盛の許しが出たことを聞くと、安堵とも不安ともつかぬ息を漏らした。
「行くことを許されたのですね」
「はい。供もつけるそうです」
「清盛様のお目のある供でしょう」
「おそらく」
常盤は太刀を見た。清盛から受け取ったと告げると、柄の飾りに触れず、ただ静かに頭を下げた。
「お父上のものなのですね」
「保元の乱で帯びていたそうです」
それ以上、遮那王は話さなかった。常盤も尋ねなかった。
翌朝、清盛の供として遣わされた男が屋敷へ来た。旅の間、遮那王に付き従い、道中の様子を清盛へ知らせる役目を負うという。
「伊豆へ向かう道筋は、長成殿と相談して決めます。出立まで、こちらにおります」
「よろしくお願いいたします」
長成が男を迎え、旅支度の相談を始めた。
替えの衣、草鞋、干飯、薬。荷を増やしすぎれば歩みが鈍る。遮那王は道の書き付けを広げ、長成の家人と宿や渡し場を確かめた。
「この道は雨の後にぬかるみます」
遮那王が示すと、家人は首をひねった。
「その先に、村人が使う脇道がございます。荷を担ぐなら、そちらのほうがよろしいかと」
道筋に新しい線を加える。どこまで行けるかだけでなく、どこで足を止めるかも書き込んだ。
支度には数日かかった。
ある日の昼下がり、常盤が小さな布包みを持ってきた。
「旅に持っていきなさい」
包みを開くと、横笛が一本入っていた。表面には細かな傷があり、端の色も少し褪せている。
「これは……」
「幼い頃、お前に贈った笛です。鞍馬へ上がるとき、屋敷に置いていったでしょう。ずっと、ここで預かっていました」
遮那王は笛を手に取った。指に馴染む形に、幼い頃の記憶がかすかによみがえる。母の前で、教わった短い節を何度も吹いた。
「まだ吹けるかしら」
「忘れてはいないと思います」
息を吹き込む。最初の音はかすれたが、もう一度試すと、細い音が庭へ流れた。覚えていた節をたどる。最後の音が消えるまで、常盤は黙って聞いていた。
「持っていきます」
「道中、心細くなったときにでも吹きなさい」
遮那王は笛を布で包み直した。太刀とは違う、軽い重みが手に残った。
旅の準備を続ける間、遮那王は屋敷の外へ出て、町の様子も見るようになった。人の流れ、荷車の通る道、店が閉まる刻。清盛の供がついてからは、長成の家人とともに近くの通りを歩いた。
ある日の昼下がり、布を売る店先で、平家の家人が店主に声を荒らげていた。
「この布を持っていく。清盛様への献上に使う」
「それは、明日の市で売る品でございます。代金をいただければ――」
「平家への献上に、銭を求めるか」
家人が布をつかんだ。店主は手を伸ばしかけたが、途中で止めた。周りの者も目を伏せる。荷を抱えた女が、子どもの肩を引いて道の端へ寄った。
「清盛様から、その布を受け取るよう命じられたのですか」
家人が振り返る。
「何だ、小僧」
「献上に使うと申されました。どなたからの命か、確かめております」
「貴様に関わりのある話ではない」
「では、受け取った者の名を控え、長成殿を通じて清盛様へお伝えします。献上の品なら、誰がどこへ運んだか、分かるようにしておかねばなりません」
家人の手が、布の上で止まった。
店主は遮那王を見たが、何も言わない。周囲の者も動かなかった。ただ、伏せていた目が、家人のほうを向き始めていた。
「大相国様のお耳に入れると言うのか」
「はい。長成殿を通じて、確かめていただきます」
そのとき、遮那王のそばにいた清盛の供が一歩前へ出た。
「献上の沙汰なら、こちらにも通達があるはずだが、聞いておらぬ」
家人は供の姿を見た。腰の装具と、落ち着いた声を確かめるように目を動かす。
やがて布を放した。
「献上の話は、また改めてだ」
言い捨てて、家人は人波へ消えた。
店主は布を抱き寄せ、深く頭を下げた。
「助かりました。ですが、あなたまで目をつけられては……」
「布が戻ったのなら、それでよいです」
店主はもう一度頭を下げ、布を棚へ戻した。脇にいた女が、子どもの肩を抱く手を緩めた。
*
その夜、長成の家人が町で聞いた話を伝えた。
「近ごろ、夜道で太刀を奪う大男が出るそうです。僧の姿をしているとか」
「太刀を奪うのですか」
「はい。五条の橋で通りかかった者に勝負を挑み、勝てば太刀を持ち去るそうです。負けた者の命までは取らぬとか」
遮那王は、清盛から受け取った太刀の包みを見た。金の飾りが布越しにわずかに浮かんでいる。
「その橋は、伊豆へ向かう道にも関わりますか」
「町を東へ抜けるなら、近くを通ります。夜に渡るのは避けたほうがよろしいでしょう」
長成が家人を下がらせた。
「旅立つ前から厄介ごとに近づくことはない」
「はい。ですが、あの橋を避けるなら道を改めねばなりません。通る者が皆、夜道を恐れて遠回りするなら、荷を運ぶ者も困るでしょう」
「自ら確かめに行くつもりか」
「まず、何が起きているのか知りたいのです。人を襲う者なのか、太刀だけを求める者なのか。それを知らずに、ただ避ける道を決めたくありません」
長成は遮那王を見つめた。
「相手は大男だと聞いた」
「承知しています。供の方にも付き添っていただきます」
清盛の供が、すぐに答えた。
「お供いたします」
*
日が落ちてから、遮那王と清盛の供は五条の橋へ向かった。
橋のたもとには人影がない。向こう岸を通る者たちも、橋の手前で道を変えている。遮那王はその様子を見て、橋の上ではなく、少し離れた道端に立った。
「この時刻から、誰も渡らぬのですね」
「噂を聞けば、近づきたくはないでしょう」
遮那王は、道を避けていく人々の足取りを目で追った。急ぐ者ほど、橋を見ないようにして通り過ぎていく。
「橋には私一人で立ちます。あなたは西詰で人を遠ざけてください。私が笛を二度続けて鳴らしたら、こちらへ。命に関わると見たときは、合図を待たず止めてください」
「遮那王殿を一人にするわけにはまいりません」
「橋の上に二人で立てば、相手は姿を見せぬでしょう。すぐ近くにいてください」
供はしばらく黙り、やがてうなずいた。
遮那王は太刀を帯びた。清盛から渡された品は、夜目にも飾りが目を引く。懐から笛を取り出す。
橋の上に立ち、母に教わった短い節を吹いた。音は夜気に伸び、向こう岸まで届いた。
吹き終えると、向こう岸に人影が立っていた。
僧衣をまとった大男が、こちらを見ている。
遮那王は笛を下ろした。
大男がゆっくりと橋へ踏み出す。月明かりが、その視線を遮那王の腰へ導いた。
清盛から渡された太刀の飾りが、夜の光を返していた。




