プロローグ
鬼若は、熊野の山に生を受けた。
生まれるまで長い時を要し、産声を上げたその子は、幼子とは思えぬほど大きかった。
伸びた髪と鋭い歯を見て、父は鬼の子ではないかと恐れたという。
母が命を乞い、鬼若は生かされた。父の妹に預けられた彼は、その名を得た。
鬼若。
幼い頃から、彼の体は人より大きく、力も強かった。
胸の内に湧くものをうまく言葉にできず、怒りに任せて手を出すこともあった。
人々は彼を恐れ、鬼若もまた、人の輪に入ることを諦めていった。
やがて鬼若は比叡山へ預けられた。仏の道を学び、心を鎮めることを期待されたのだろう。
だが、山門の暮らしにも馴染めなかった。彼の乱暴を咎める声は重なり、ついには山を追われた。
山を下りる日、鬼若は自ら髪を剃った。
父の名から一字を取り、師の名から一字を取る。
「これより、弁慶と名乗る」
そう告げても、返事をする者はいなかった。
弁慶は諸国を巡った。四国の霊山を訪ね、播磨の書写山にも身を寄せた。
だが、そこでも騒ぎを起こし、長くは留まれなかった。
どこへ行っても、彼の力を恐れる者はいても、その力を必要とする者はいなかった。
やがて弁慶は京へ出た。
太刀を千振り集める。そう決めてから、彼は夜ごと、太刀を帯びた武者を探した。
腕を競い、勝った相手から太刀を奪う。誰もが彼を避け、誰もがその名を恐れるようになった。
手元の太刀が九百九十一振りとなった夜からも、弁慶は刀狩りを続けた。
幾夜もかけて、さらに八振りを集めた。
九百九十九振り。
残るは、あと一振りだった。
その夜、弁慶は橋のそばで身を休めていた。夜風が頬を撫で、遠くから人の気配が近づいてくる。
やがて、笛の音が聞こえた。
弁慶は眉を動かす。
「……笛か」
澄んだ音色だった。夜更けの道を歩きながら、誰が吹いているのか。
「女人……か?」
重い腰を上げ、音のする方へ目を凝らす。
闇の向こうから現れたのは、白い衣をまとった若者だった。
笛を吹く横顔は、遠目には女と見まがうほどしなやかに見える。
そして、その腰には、ひときわ目を引く太刀があった。
黄金造りの拵えに、細やかな飾りが施されている。
月明かりを受けたその姿に、弁慶の目が吸い寄せられた。
これこそ、千振り目にふさわしい。
若者が笛を吹き終える。弁慶は道を塞ぐように進み出た。
「その太刀、もらい受ける」
若者は笛を下ろし、弁慶を見た。
「欲しいのなら、力ずくで来るがよい」
弁慶は薙刀を振り下ろした。若者は身を翻して刃をかわし、橋の上を軽やかに移りながら、弁慶の隙をうかがう。
何度打ち込んでも、薙刀は若者に届かない。
弁慶が大きく踏み込んだ。その瞬間、若者は懐へ入り、弁慶の足を払った。
弁慶は膝をつき、薙刀を取り落とす。薙刀は橋板に音を立てて転がった。
負けた。
それでも弁慶は、若者の太刀を奪おうと手を伸ばした。若者はその手を見下ろし、太刀を鞘に納める。
「もうよい。お前の負けだ」
弁慶は顔を上げた。
若者は、彼を斬らなかった。
「お前ほどの力を、太刀を奪うことだけに使うのは惜しい」
弁慶は答えられなかった。
これまで彼に向けられたのは、恐れと怒りと、追い払うための言葉ばかりだった。
若者は手を差し出した。
「私と共に行かないか」
その手を、弁慶はしばらく見つめていた。
「……拙僧を、必要とされるのですか」
「そうだ。お前の力を貸してほしい」
弁慶は、差し出された手を取った。
初めて、自分の力を求める者がいた。
その出会いが、鬼若と呼ばれた男の生涯を変えることになる。




