第七話 旅の名
第七話 旅の名
村を離れてから、三日が過ぎた。
川沿いの道を歩き、日のあるうちに次の泊まり場所を探した。人の多い通りは避けたが、食糧を求めるときまで山へ隠れているわけにはいかなかった。
その日は、景綱の知る家に宿を取った。
荷を運ぶ馬が庭につながれ、軒下には空の籠が重ねられている。主人は景綱の顔を見ると奥へ招き、三人のために部屋を空けてくれた。
遮那王は荷を下ろし、肩を回した。
紐が食い込んでいた所へ手を当てる。衣を挟んでいても、押せば痛む。
隣では弁慶が草鞋を脱いでいた。
「今日は、石が入っておりませぬか」
弁慶は片方を返し、底を見た。
「入っておったら、そなたの荷へ入れておく」
「それでは、私が困ります」
「拙僧も困ったのだ」
草鞋を戸口へ揃え、大きな足を伸ばす。
景綱は荷から紙と筆を取り出していた。主人に頼んで硯を借り、庭に面した明るい所へ置く。
「少し、文を認めます」
遮那王は頷き、自分の包みから替えの衣を出した。
*
汗の染みた衣を広げ、縫い目に挟まった草を取った。
裾には、乾いた泥がついている。布を揉むと細かく崩れ、庭の土へ落ちた。
景綱の筆が、紙の上を進んでいた。
ときおり手を止め、懐の小さな書きつけを確かめる。泊まった場所や、通った道を記してあるらしかった。
弁慶は柱へ背を預けていたが、硯の方へ顔を向けた。
「炭のことも書くのか」
「はい。納めた先と、代金が届いておらぬことを」
「あの者らが、また取りに来るやもしれぬぞ」
「そのことも申し添えます」
筆が止まった。
景綱は書いた行を読み返し、もう一行加えた。
弁慶はそれを眺めていた。
「銭を届けるよう、申せるのではないのか」
「届け先の者へ伝えることはできます。ただ、私から支払いを命じることはできませぬ」
「大相国殿ならば?」
「お耳へ入れるために、こうして書いております」
弁慶は口を閉じた。
遮那王は衣を畳み、二人のそばへ戻った。
「私からも、何か書き添えましょうか」
「今は、この文でお伝えいたします。お尋ねがあれば、その折に」
「分かりました」
景綱は紙を乾かしてから折り、別の紙へ包んだ。
表には、宛先を書きつけている。
遮那王が目を向けると、筆を持ったまま答えた。
「京で文を取り次ぐ者です。大相国殿への文は、その者を通します」
*
庭では、馬の背へ荷が載せられていた。
景綱から文を預かった主人は宛先を確かめ、京へ戻る家の者へ手渡した。男は文を懐へ収め、荷の縄を締め直した。
遮那王は部屋の縁へ腰を下ろした。
炭の代金が届くまでに、何日かかるだろう。
こちらが次の山を越えても、女はまだ待っているかもしれなかった。
馬を引く男が、主人へ一礼した。
門を出ていく。
景綱はその背を見送ってから、部屋へ戻ってきた。
「託しました」
「ありがとうございます」
景綱は硯のそばへ座り、筆を洗う支度を始めた。
弁慶が庭から戻ってきた主人へ声を掛ける。
「そなたも、京へ荷を運ぶのか」
「わしは、ここで受け渡す方が多い。京まで行くこともあるがな」
主人は部屋の前で足を止めた。
「東へ向かうと申しておられたな。この先も山沿いを行かれるのか」
「人の少ない道があれば、そちらを」
景綱が答えた。
「ならば、明日は少し北へ回るとよい。道を教えておこう」
主人は庭の土へしゃがみ、小枝を拾った。
遮那王も縁から下りた。
枝先が土を引っかき、家の前の道から線を延ばしていく。
「こちらへ出れば、往来に沿って進める。鏡へ向かう者も通る道だ」
「鏡」
口に出すと、主人が顔を上げた。
「ご存じか」
「名を聞いたことがございます」
「宿を求めるなら、あの辺りまで出た方がよい。ただ、日が暮れてから探すのは勧めぬぞ」
景綱が道筋を確かめている。
遮那王は、土に引かれた線の先を見ていた。
鏡。その先にも道は続いている。伊豆は、まだ遠い。
*
部屋へ戻り、懐の紙を広げた。
鞍馬で書いた道筋には、旅に出てから幾つも書き足してある。折り目は柔らかくなり、端には指の汚れが残っていた。
主人に教わった曲がり角を、景綱と確かめる。
紙を畳み、腰の太刀を外した。鞘の飾りに、小さな土の塊が挟まっている。
布で払うと、乾いた粒が膝へ落ちた。
山道では幹に当たり、座れば置き場に気を使う。それでも、置いていこうと思ったことはなかった。
弁慶は入口のそばで、薙刀の柄を拭いていた。景綱は主人に呼ばれ、廊へ出ている。
「弁慶殿」
「何だ」
「鏡で、少し足を止めたいのです」
布を動かす手が止まった。
「何か用があるのか」
遮那王は太刀を脇へ置いた。
「元服をしたいと思っております」
弁慶が顔を上げた。
「元服か」
薙刀を壁へ立てかける。
「なぜ、旅の途中で」
「兄上にお会いする前に、済ませたいのです」
脇に置いた太刀を見た。
「寺を出る前は、出家するかどうかを問われておりました。その答えも出さぬまま、兄上に会いたいとばかり申してきました」
「今は、答えが出たか」
「寺へ戻って髪を下ろすつもりはありません」
口にしてから、しばらく黙った。
鞍馬の部屋は、今頃どうなっているだろう。千寿は、いつもどおり灯明の始末をしているのかもしれない。
戻ったら話すと約束した。あの山で過ごしたことまで、なくなるわけではなかった。
「兄上には、元服を済ませ、一人の男としてお会いしたいのです」
弁慶が頷いた。
「名は決めておるのか」
「候補はございます。父上のお名から、一文字いただこうかと存じます」
「そうか」
弁慶は、それ以上尋ねなかった。
廊下で足音がした。
景綱が戻ってきて、入口の二人を見た。
「お話し中でしたか」
「景綱殿にも、ご相談したいことがございます」
太刀を少し横へ寄せ、座る場所を空けた。
「鏡で元服をしたいと思っております。支度を整えるのに、お力をお借りできますか」
景綱は腰を下ろした。
「烏帽子など、こちらで求められるか、主人に尋ねてみましょう」
「お願いいたします」
「髪を整える者も必要ですね」
遮那王は、髪を結んだ紐へ手をやった。
朝、自分で結び直したものだった。旅の間に少し毛羽立ち、指で触れると細い糸が引っかかった。
「母上に見ていただけぬのが、心残りです」
景綱はすぐには返事をしなかった。
「長成殿のお屋敷へ、済ませた後に文を送りましょう」
「私が書きます」
「ええ。その文も、お届けいたします」
手を膝へ戻した。
常盤は、何と申すだろう。旅の途中でなく、屋敷にいるうちに支度をしたかったと、叱るかもしれなかった。
それでも、帰るまで待とうとは思わなかった。
「その太刀を帯びるのか」
弁慶の声に顔を上げた。
「はい」
「そうか」
大きな手が、鞘へ伸びかけた。
途中で止まり、膝へ戻る。
遮那王は太刀を持ち上げ、弁慶へ差し出した。
「ご覧になりますか」
「よいのか」
「抜かずに、ご覧ください」
「分かっておる」
弁慶は両手で受け取った。
橋では、これを奪おうと手を伸ばしてきた。その指が今は飾りを避け、鞘を支えている。
しばらく眺めてから、太刀を返した。
「よう似合うであろうな」
「烏帽子が、ですか」
「まだ見てもおらぬものは分からぬ」
景綱が小さく笑った。
遮那王も笑い、返された太刀を脇へ置いた。
*
夕餉の後、主人が部屋へ来た。
「烏帽子を求めたいと伺ったが」
「はい。私が使います」
主人は遮那王の髪へ目を向け、頷いた。
「明日、出立前に町の者へ尋ねておこう。すぐに整うかは分からぬが」
「お手数をお掛けします」
「鏡へ持っていくのか」
「そのつもりです。宿も、そこで求めたいと」
「ならば、泊まる先の名を教えておこう。こちらからの紹介と申せばよい」
景綱が礼を言った。
主人は出ていく前に、弁慶へ顔を向けた。
「そちらの方も、着替えが要るかね」
「拙僧は、このままでよい」
「そうか。ならば、お一人分だな」
戸が閉じてから、弁慶が僧衣の胸元を見た。
「何か、おかしいか」
「炭が、まだ少し残っております」
指した所をつまみ上げる。布の折れた内側に、黒い筋が残っていた。
景綱が灯を寄せた。
「乾いた布では落ちませぬね」
「明朝、洗おう」
「そのままでは、元服の日も黒い衣ですよ」
「そなたの衣にはつけぬ」
弁慶は手を払いかけ、やめた。
炭を扱う家の女に叱られた顔が浮かび、遮那王は口元を緩めた。
*
夜、景綱から紙を一枚分けてもらった。
硯へ水を落とし、墨を磨る。
父の名を書いた。
源義朝。
その下に、「義」の一字を置く。
筆を離し、灯の下で見た。
鞍馬では、父を知るために名を書いた。今は、その一字を自分の名としていただこうとしている。
母へ送る文には、新しい名を書き添えよう。
筆先を硯の縁で整え、空けておいた隣へ、もう一字を書いた。
書いた名を、しばらく見ていた。
隣では弁慶が横になっている。腕を枕にし、壁へ向いた背がゆっくり上下していた。
紙を畳む音に、その肩が動く。
「決まったか」
「もう少し、考えます」
「灯が近いぞ。紙を焼くなよ」
手元を見ると、紙の端が灯皿へ寄っていた。
膝の上へ戻す。弁慶はもう、こちらを見ていなかった。
筆を洗い、硯を片づけた。
新しい名を書いた紙は、道の書きつけとは別に包んだ。
*
翌朝、主人に連れられて、景綱と町へ出た。
通りには荷を積んだ馬が行き交っていた。軒先へ品物を並べる者の間を抜け、小さな店へ入る。
主人が声を掛けると、奥から年老いた男が出てきた。
「支度が要ると申されたのは、この方か」
「そうだ。旅の途中でな。支度を頼めるか」
男はこちらを見てから、髪へ目を移した。
「少し、近う寄られよ」
言われるまま膝を進める。
頭の周りへ紐を当てられた。耳の上を通り、額へ回ってくる。男は端を指で押さえ、手元の烏帽子と見比べた。
「これなら、手を入れれば使えよう」
差し出された品を、両手で受け取った。
思っていたより軽かった。指で強くつままぬよう持ち直す。
「髪も、整えたいのですが」
景綱が申すと、男は頷いた。
「ここでなさるか」
「鏡で宿を取るつもりです」
主人が、泊まる家の名を告げた。
「あそこなら、髪を結える者も知っておろう。宿で尋ねてみられよ」
「ありがとうございます」
男が烏帽子を受け取り、奥へ下がる。
待つ間、主人に勧められた小袖へ袖を通した。景綱が背の布を軽く引き、肩のずれを直してくれる。
「窮屈ではございませぬか」
両腕を軽く上げてみた。肩も脇も、つれるところはない。
「窮屈ではありません。楽に動けます」
母なら、脇の縫い目まで確かめただろう。
上げた腕の下へ目を向けると、主人が少し笑った。
「ほつれてはおらぬぞ」
「はい。念のために」
腕を下ろした。景綱は袖丈を確かめ、奥へ戻ってきた店の男に代を尋ねた。
*
屋敷へ戻ると、弁慶が庭で僧衣を広げていた。
濡れた胸元を両手で引き、日に当てている。
「落ちましたか」
「どうだ」
示された折り目へ顔を寄せた。黒い筋は薄くなっていたが、布の奥に少し残っている。
「もう、よく見ねば分かりませぬ」
「ならば、よい」
弁慶は衣を掛け直し、こちらの包みを見た。
「それが烏帽子か」
「はい」
「見せてみよ」
包みを開きかけると、奥から主人に呼ばれた。
「道を伝えておこう。出立してから迷われては困る」
手を止めた。
弁慶が包みの端を戻してくれる。
「向こうへ着いてからでよい」
景綱と主人のそばへ向かった。
*
鏡へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
道沿いには、馬を止めて荷の縄を確かめる者や、草鞋を手に軒先へ座る者がいた。家の間から飯を炊く匂いが流れてくる。
教わった家を訪ねると、女が一人出てきた。景綱が紹介してくれた主人の名を伝える。
「三人、宿をお願いできますか」
「ええ。お入りなさい」
女は弁慶を見上げ、それから奥へ顔を向けた。
「寝具を、もう一枚出しておくれ」
「拙僧の分か」
「足がはみ出しては、冷えるでしょう」
弁慶は自分の足へ目を落とした。
「それは、ありがたい」
景綱が先に荷を運ぶ。遮那王も敷居を越えようとしたが、弁慶が薙刀を持ったまま立っているのに気づいた。
「弁慶殿」
「どこへ置けばよい」
女は長い柄を見上げた。
「戸口では、人が通れぬね。部屋へお持ちなさい。ただし、横に寝かせておくれ」
「承知した」
頭を低くして、弁慶が入った。
その後へ続く。案内された部屋には敷物が並び、庭に面した戸が開け放たれていた。
荷を下ろすと、肩が軽くなった。
太刀を外し、壁際へ置く。烏帽子の包みは、その脇へそっと収めた。
*
髪を結ってくれる者は、明朝来ることになった。
景綱が家の者と話している間に、井戸で手足を洗った。弁慶は先に部屋へ戻り、薙刀の鞘についた泥を落としている。
衣を替え、向かいへ座った。
「見ますか」
包みを示すと、弁慶が布を置いた。
「見せてもらおう」
烏帽子を取り出した。
大きな手が伸びてくる。触れる直前で止まり、掌を裏返した。
指に、落としたばかりの泥がついていた。
「そなたが持っておれ」
言われたとおり、両手で支えた。
弁慶は顔を近づけ、横からものぞいた。
「明日は、これを載せるのだな」
「はい」
「髪を結い直せば、ずいぶん変わるであろうな」
紐を解いた髪が、肩へ落ちていた。
明日には、このままではなくなる。
「おかしくはありませんか」
「まだ載せてもおらぬ」
「太刀のときも、そう申されましたね」
「ならば、載せてから尋ねよ」
笑って、烏帽子を包み直した。
弁慶はまた布を取り、薙刀の柄へ手を戻す。
遮那王は懐から紙を出した。
折り目を開く。昨夜書いた二字が、庭からの光の中へ現れた。
弁慶の手が止まった。
紙を向けると、黙って読み、それからこちらの顔を見た。
「その名にするか」
「はい」
口にすると、胸の内が少し静まった。
紙を太刀のそばへ置く。
「明日、改めてお聞きいただけますか」
弁慶は頷いた。
「聞こう」




