第二十二話 山を下りる日
第二十二話 山を下りる日
翌朝、遮那王はいつものように境内の掃除をしていた。
竹箒を動かすたび、昨夜書き留めた「会いたい」の文字が脳裏に浮かぶ。
迷いが消えたわけではない。
だが、迷いを抱えたままでも、決めて動かなければならない時が来ていた。
「遮那王。少しよいか」
和尚に呼ばれ、箒を止める。
「はい」
「正式な出家の支度を進めようと思う。日取りも、近いうちに決めねばならぬ」
和尚の言葉は静かだった。遮那王は、すぐに返事をしなかった。
断るのではない。けれど、受け入れると答えれば、寺で学ぶ道が定まる。
頼朝に会いに行くための時間は、もう残されていないかもしれなかった。
「……お返事を、少しだけ待っていただけませんか」
和尚は遮那王の顔を見た。
「どれほどだ」
「長くはいただきません。自分の考えを整理して、きちんとお伝えします」
「分かった。だが、返事を先へ延ばすための猶予ではないぞ」
「はい」
「決めるための時間にしなさい」
遮那王は深く頭を下げた。
*
その夜、遮那王は文机に紙を広げた。
清盛から賜った紙だった。まだ何も書かれていない面を上にし、筆を取る。
鞍馬から山を下り、京へ。長成の屋敷へ寄り、母にも話を通す。
そこから伊豆へ向かうなら、どの道を選ぶか。
どこで宿を取れるか。山道を抜けるのに何日かかるのか。
思いつくことを一つずつ書きつけた。
道の名。宿場。日数。道中で必要になる食糧と衣。誰に話を通すべきか。
頼朝に会いたい。それだけで旅立つことはできない。
自分一人の身の振り方でも、寺や母、世話になった人々に関わることだった。
筆先が止まる。
紙の端に、遮那王は小さく書き添えた。
――長成殿に話す。母上にも、自分の口で告げる。
清盛からも、和尚からも、誰にも告げずに山を下りるなと言われていた。
ならば、自分の口で話さなければならない。
遮那王は紙を畳み、懐へしまった。
*
翌日、千寿と一緒に薪を運んでいると、遮那王はふいに足を止めた。
「千寿」
「どうした?」
「私と一緒に、山を下りないか」
千寿は薪を抱えたまま、遮那王を見た。驚いた顔をしたが、すぐには問い返さなかった。
「伊豆へ行くのか」
「まず長成殿の屋敷へ行く。母上にも話をする。そこから先は、まだ決まっていない。
兄上に会いたいと思っている」
「そうか」
「一緒に来てくれたら、心強い」
千寿は薪を抱え直し、しばらく黙っていた。それから、首を横に振った。
「俺は寺に残る」
「そうか」
「ここには俺の仕事があるし、和尚様やみんなもいる。
それに、おまえが帰ってくる場所を残しておきたい」
遮那王は、わずかに目を伏せた。
「ありがとう」
「礼を言うのは早い。旅に出るなら、まず足元をどうにかしろ」
千寿は薪を置き、遮那王の草履を見た。
「山道を歩くには、底が薄い。替えを持っていけ。
それから、食べ物は干飯がいい。重くないし、日持ちする」
「詳しいな」
「寺の外へ出る者を、何人も見送ってきたからな」
千寿はそう言って、薪を再び抱えた。
「荷は大きくするなよ。持てる分だけにしろ。歩けなくなったら、兄上どころじゃない」
「分かった」
「それと、道を調べたなら、書きつけを持っていけ。頭の中だけでは、途中で迷う」
「もう書き出してある」
「なら見せろ。間違いがないか、俺も見る」
千寿は前を向いた。遮那王も、並んで歩き出す。
「戻ってきたら、続きを教えてくれ」
「何の続きを?」
「おまえが兄上に会って、何を思ったかだ」
「分かった。必ず話す」
「約束だぞ」
「ああ」
二人は、それ以上別れの話をしなかった。
*
その日の夕刻、遮那王は和尚のもとを訪ねた。
「お話ししたいことがございます」
「聞こう」
「私は、頼朝兄上に会いたいと思っています。そのために、出家の日を迎える前に寺を出たいのです」
言葉にすると、胸の内にあったものが形を持った。遮那王は和尚の目を見たまま、続ける。
「兄上がどのような方なのか、自分の目で確かめたい。父上のことも、聞けるなら聞きたいのです」
和尚はすぐには答えなかった。
「出家を拒むのか」
「まだ、決めておりません。ただ、決める前に、兄上に会いたいのです」
「旅立てば、何が待っているか分からぬ。頼朝殿が会ってくださるとも限らぬ」
「はい」
「それでも行くのか」
「はい」
和尚は、しばらく遮那王を見つめたあと、静かにうなずいた。
「ならば、常盤殿と長成殿にも話を通しなさい。寺の外で暮らすための支度も必要だ。
自分だけで決めて、すぐに出ていくことは許さん」
「承知しました」
「長成殿には、こちらからも文を出す。常盤殿には、自分の口で伝えなさい」
「はい」
「旅に出ると決めたなら、道中のことを考え、周りに心配をかけぬよう備えなさい。
それも、おまえが選んだ道の一部だ」
遮那王は、深く頭を下げた。
*
翌朝、山門の前には千寿と数人の僧が集まっていた。
遮那王の荷は小さかった。
替えの草履と着替え、干飯。清盛から賜った紙は、濡れぬよう布に包んで懐へ入れてある。
「忘れ物はないか」
千寿が尋ねた。
「たぶんない」
「たぶん、か」
「道の書きつけはある。食べ物も、草履もある」
「ならいい」
千寿は、包みの口を結び直した。最後にその紐を確かめると、手を離す。
「行ってこい」
「ああ」
「戻ったら話せよ」
「約束する」
僧たちが見守る中、遮那王は山門を出た。
少し離れたところに、為朝が立っていた。遮那王は足を止める。
稽古で使った杖を、為朝がこちらへ差し出した。
「持っていけ」
「これは、あなたが使っていたものではありませんか」
「今は、おまえが使う時だ」
遮那王は両手で受け取った。幾度も握った杖の柄には、稽古の跡が残っている。
「ありがとうございます」
為朝は答えず、短くうなずいた。
それで十分だった。
遮那王は一度だけ、山の上を振り返った。
掃き清めた庭も、書を開いた部屋も、千寿と過ごした日々も、そこにある。
捨てていくのではない。帰る場所として胸に留め、今は山を下りるのだ。
「参ります」
誰にともなく告げ、遮那王は京へ向かって歩き出した。
まず向かうのは、長成の屋敷だった。そこで常盤にも会い、これからのことを自分の言葉で話す。




