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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第二十一話 山を出る前に

第二十一話 山を出る前に


 常盤が帰った翌朝、遮那王は文机に向かった。


 母の言葉は、夜が明けても胸に残っていた。清盛の情けによって生き、学んできた。

 その清盛に背く覚悟があるのか。問いに、すぐ答えることはできなかった。


 硯の脇には、昨夜書き留めた紙がある。


 頼朝。伊豆。兄。


 その三つを見つめていると、廊下を通る足音が近づいた。


「遮那王。清盛殿がお見えだ」


 和尚の声に、筆を置く。


 清盛が鞍馬を訪れるのは、久しぶりだった。

 山門へ向かうと、供の者たちが数人、清盛の後ろに控えている。

 清盛は遮那王を見つけると、ほかの僧へ軽く会釈してから歩み寄った。


「久しいな」


「大相国様。ようこそお越しくださいました」


「大きくなった。もう、童と呼ぶには無理があるか」


「まだ、そう呼ばれることもございます」


「そうか。わしには、紙を両手で抱えておった姿が残っておる」


 清盛の笑みに、遮那王もわずかに口元を緩めた。

 あの日、庭に描いた道を踏まぬよう歩いていた姿を思い出す。


 清盛は供の者たちを振り返った。


「少し、この者と話がしたい。ここで待て」


 供の一人が眉を寄せた。


「大相国様、寺とはいえ、山中にございます。人目を離すのは――」


「和尚もおられる。寺の内で何を恐れる」


「しかし」


「何かあれば呼ぶ。そなたらは、山門の近くで待っておれ」


 供の者はなおもためらい、和尚へ視線を向けた。和尚は静かに一礼する。


「この寺の者がそばにおります。ご案じには及びませぬ」


 清盛は供へ目を戻した。


「聞こえたな」


「……承知いたしました。何かございましたら、すぐにお呼びください」


 供たちは山門の脇へ下がった。和尚も少し離れたところに控える。


 清盛は庭へ歩き出した。遮那王もその隣につく。


「ここなら、話せるか」


「はい」


 庭の隅には、冬の名残の枯れ葉が寄っていた。

 遮那王は手近な箒を取り、掃き集めようとする。清盛がそれを見て、目を細めた。


「今も庭を掃いておるのか」


「寺の勤めです」


「そなたは、昔から道や人の通りを気にしておったな」


「今も、道を見るのは好きです」


「道を見て、何が分かる」


「どこから人が来て、どこへ向かうのか。荷を運ぶ人が通りやすいか、雨のあとに歩きにくくなるか。

 人の話を聞くと、同じ道でも見え方が変わります」


「山の外を見たいと思うか」


 箒を持つ手が止まった。


「はい」


「伊豆へ行きたいのだな」


 遮那王は清盛を見た。


「母上からお聞きになったのですか」


「和尚から聞いた。そなたは、頼朝に会いたいと」


 常盤が清盛へ話したのか、和尚が知らせたのか。問い返す気にはならなかった。

 いずれにせよ、隠しておけることではない。


「兄上に、父上のことを聞きたいのです。それに、兄上がどのような方なのか、自分の目で知りたい」


「会えば、兄弟として迎えてもらえると思うか」


 清盛の声に、笑みはなかった。


「分かりません」


「長く流されている身だ。そなたが訪ねたところで、喜ぶとは限らぬ。

 頼朝にも、頼朝の暮らしがある。父の子だからといって、すぐに心が通うわけではない」


「はい」


「それでも会いたいか」


「はい。会わずに、兄上がどのような方か決めたくありません」


 清盛は、枯れ葉の山へ目を落とした。風が吹き、葉の一枚が箒の先から離れていく。

 遮那王はそれを追わず、清盛の返事を待った。


「頼朝は、いずれ平家を憎むことになるかもしれぬ」


 清盛はゆっくり言った。


「父を討った一門が、今も世を治めておるのだからな。

 そなたが兄に会えば、その憎しみをそばで見ることになる。

 兄の側に立てば、わしや平家とは道を違えることもあろう」


 遮那王の指が箒の柄を握り直した。


「清盛殿は、私が兄上の側につくとお思いですか」


「そうは申しておらぬ。だが、そなたは兄に会いたいと言う。

 会えば、兄の言葉を聞き、兄の目で世を見ることもあろう」


「それは、いけないことですか」


「いけないとは申しておらぬ」


 清盛は顔を上げた。


「ただ、そなたがどちらを向くことになっても、軽いことでは済まぬと伝えておる。

 頼朝に会うことは、父の記憶を尋ねるだけではない。

 平家と源氏の間に、そなた自身が立つことにもなりかねぬ」


 山から吹き下ろす風が、清盛の衣の袖を揺らした。清盛は寒そうな様子も見せず、遮那王を見ていた。


「それでも、行きたいか」


 遮那王はすぐに答えなかった。


 袂の中に、折り畳んだ紙がある。昨夜、「頼朝」の横に書き添えた「兄」の一字。

 あれを書いたとき、遠くにいた人がわずかに近づいた気がした。


「まだ、いつ行くとも決めておりません」


「ならば、決める前に考えよ」


「はい」


「そなたを寺へ入れたのは、目の届かぬところへ捨てるためではない。

 生きて、学んでほしかったからだ。常盤にも、わしにも、そなたを案じる心はある」


 清盛は言葉を切った。近くの枝が風に鳴り、枯れ葉が石の上を滑っていく。


「寺を出るなら、和尚にも母にも話せ。誰にも告げず、ひとりで山を下りるな」


「分かりました」


「わしにもな」


 その言葉に、遮那王は顔を上げた。


「清盛殿にも、お話ししてよろしいのですか」


「聞かずに済ませるつもりであったか」


「いいえ。ただ……」


 返事を探して、目を伏せる。


 清盛は、遮那王の手から箒を取り上げた。枯れ葉の山を崩さぬよう、柄を持ち替える。


「もう、正式に出家する頃合いか」


「和尚様から、近いうちに決めるようにと言われております」


「髪を下ろせば、寺で学ぶ道が定まる。

 だが、世を見たいと思う心まで、髪と一緒に切り落とせるものではない」


「出家すれば、伊豆へ行くのは難しくなるのでしょうか」


「寺の務めを捨ててよいわけではない。

 まして流人を訪ねるとなれば、道中のことも、誰の許しを得るかも考えねばならぬ」


「それでも、道が絶えるわけではありませんか」


「わしが決めることではない」


 清盛は箒を返した。


「そなた自身が、何を選ぶかだ」


 遮那王は柄を受け取り、手の中で持ち直した。出家すれば、頼朝に会う道が閉ざされるのではないか。けれど、寺を出ればすぐ伊豆へ行けるわけでもない。母や和尚、長成、そして清盛の心を無視して進める話ではなかった。


「私は、まだ決められません」


「それでよい。迷いもせずに決める者は、考えておらぬことが多い」


 清盛は庭の向こうに目をやった。山並みの端に、薄い雲がかかっている。


「そなたが寺へ来たとき、わしはこの山で学べば、心も静まると思うておった」


「今は、違いますか」


「この山で学んだことが、そなたを静かにするとは限らぬと分かった」


 清盛は笑った。けれど、その目は笑っていなかった。


「人の話を聞き、道を見て、己の答えを探す。そなたは、わしが思うより遠くを見ようとしておる」


 遮那王は、返す言葉を見つけられなかった。


 清盛は供たちの待つ山門へ向かいかけ、途中で足を止めた。


「牛若」


 幼い頃に呼ばれていた名だった。遮那王は箒を持ったまま、顔を上げる。


「もし、そなたが頼朝に会いに行く日が来たなら――」


 清盛の声がそこで途切れた。


 山風が庭を抜け、箒で集めた葉を散らす。

 清盛は崩れた葉を見つめ、続きの言葉を探すように黙っていた。


「……いや。今は、まだ言うまい」


 清盛は再び歩き出した。


「また来よう」


「はい」


「そのときには、そなたの答えを聞かせよ」


「まだ答えが出ていなくても、よろしいでしょうか」


「そのときに考える」


 山門のそばで、供の者たちが一斉に頭を下げた。清盛は彼らを従え、寺を後にする。


 遮那王は、見えなくなるまでその背を見送った。


 清盛は、頼朝を憎んでいる。父を討った源氏の男として、いずれ敵になると見ている。

 それでも、兄に会いたいと告げた自分を止めなかった。

 むしろ、会った後に待つものを教えようとしていた。


 箒を動かす。散った葉を追いかけて、庭の隅へ寄せた。


     *


 その夜、遮那王は文机に紙を広げた。


 昼に清盛が言いかけた言葉が、耳に残っている。


 もし、そなたが頼朝に会いに行く日が来たなら――。


 続きは聞けなかった。清盛が何を言おうとしたのか、尋ね直すこともしなかった。


 紙の上には、以前書いた名が並んでいる。源義朝。頼朝。伊豆。兄。


 その下に筆を置き、しばらく考えた。父の名を知る人は、少しずつ増えている。

 けれど、それぞれが語る父の姿は違う。

 清盛には敵としての父があり、為朝には兄としての父がある。

 頼朝には、父とともに戦った記憶があるのかもしれない。


 遮那王は、新しい行に「会いたい」と書いた。


 書いてから、筆を止める。


 誰に、何を求めて会いたいのか。父のことを聞きたいのか。兄の顔を見たいのか。

 それとも、自分が源氏の子として何を選ぶのか、確かめたいのか。


 まだ、答えは出なかった。


 紙を畳まず、文机の端へ置く。明日も勤めがある。

 朝になれば、いつものように掃除をし、書を開き、千寿と食事をする。


 その日々を離れることを、初めて具体的に考えていた。








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