第二十話 母の問い
第二十話 母の問い
翌朝、遮那王は母へ文を書いた。
昨夜、父を知る人から聞いた話。兄の頼朝に会いたいと思っていること。
誰かに勧められたからではなく、自分の目で兄を知りたいのだということ。
書いては止まり、書き直しているうちに、紙の端が墨で汚れた。
千寿は隣で書物を読んでいたが、遮那王が筆を置くと、そっと本を閉じた。
「出すのか」
「うん。母上には、きちんと話したい」
「そうか」
千寿は文をのぞき込まなかった。
「返事が来たら、また遅くなるかもしれない」
「分かった。灯明は私が見ておく」
「ありがとう」
「今度は寝坊するなよ」
「気をつける」
文は寺の者に託した。返事を待つあいだも、遮那王はいつもどおり勤めに出た。
掃除をし、書を読み、食事を運ぶ。手は動いても、心は何度も文の行き先へ戻った。
返事が届いたのは、四日後だった。
常盤は、翌日に鞍馬へ来るという。
*
母は、長成の屋敷からの使いとともに山を上ってきた。
人目のあるところでは、いつもどおり遮那王の頬に触れ、顔色を確かめる。
けれど、二人きりになると、その手を膝に置いたまま、しばらく何も言わなかった。
「文を読みました」
「はい」
「伊豆へ行きたいのですね」
遮那王はうなずいた。
「頼朝殿に会いたいのです。父上のことを聞くだけではありません。
兄上がどのような方なのか、自分の目で知りたい」
「なぜ、今なのです」
言葉を探した。
「父上を知る方から、会う機会があるなら先延ばしにするなと言われました」
「その方は、誰なのです」
遮那王は目を伏せた。
「名は申せません。約束がございます」
常盤の眉がわずかに寄る。けれど、そのことは追及しなかった。
「伊豆へ行く道がどれほど遠いか、あなたは知っていますか」
「京から幾日もかかると聞きました」
「道中の危険は。誰を頼り、どこで宿を取り、寺を出た後はどこへ向かうのです」
「まだ、決めておりませぬ」
「決めていないのに、行きたいと書いたのですか」
常盤の声から、いつもの柔らかさが消えていた。
遮那王は、膝の上で手を握った。
「まず、母上に相談したかったのです」
「相談して、私が止めたら?」
すぐには答えられなかった。
常盤は遮那王の目を見た。
「あなたが今こうして無事に生き、鞍馬で学べているのは、清盛様の情けによるものです。
源氏の子であるあなたを、殺さず、この寺へ入れる道を許された」
「はい」
「その清盛様のもとから、何も告げずに出て、伊豆の頼朝殿に会いに行く。
世の人は、それをどう見るでしょう」
遮那王は口を閉じた。
「あなたが兄に会いたいだけでも、周りはそうは受け取りません。
清盛様が目をかけた源氏の子が、流人となった兄のもとへ向かった。
平家と源氏の間に、また疑いを生むことになるかもしれない」
常盤の指が、膝の上で固く組まれていた。
「長成殿の立場もあります。私たちを屋敷に迎え、あなたを鞍馬へ送り出す支えとなった方です。
その方に何も告げず、あなたが姿を消せば、どのようなことになるか」
長成の名を聞き、遮那王は息を詰めた。
自分一人の願いで動けば、母と長成にも影響が及ぶ。分かっていたつもりだった。
だが、どこまでを巻き込むのか、考え切れてはいなかった。
「私は、清盛殿を裏切るつもりはありません」
「では、なぜ伊豆へ行くのです」
「兄上に会いたいからです」
「その願いが、清盛様の望みと食い違ったときは?」
遮那王は答えを探した。頼朝が何を望むのか、自分が何を望むのか、まだ知らない。
知らぬまま会いに行きたいというのは、あまりに自分勝手なのかもしれない。
常盤は、遮那王の手を取らなかった。
「お前は、目をかけていただいた清盛様を裏切る覚悟があって言っているの?」
母の言葉が、部屋に重く残った。
幼い頃、怖い夢を見れば、常盤はいつも抱き寄せてくれた。傷を負えば、痛みが引くまでそばにいてくれた。その母が今は、慰めることも、手を伸ばすこともしない。
「……裏切る覚悟など、ありません」
「なら、行かないのですか」
「それも、まだ分かりません」
常盤の目が揺れた。けれど、声は厳しいままだった。
「分からぬまま、行くと言ってはなりません。あなたの願いで、誰が危うくなるのか。
誰に疑いが向くのか。そこまで考えてから、決めなさい」
遮那王は母の手を見た。指先が白くなるほど、握りしめられている。
「母上は、私に行ってほしくないのですね」
「行ってほしくありません」
迷いのない答えだった。
「頼朝殿に会いたいという気持ちは、分かります。けれど、私はあなたを失うのが怖い。
あなたが戻らぬかもしれないことも、あなたの行いが誰かを巻き込むことも、怖いのです」
常盤は一度、息を整えた。
「それでも行くと言うのなら、私の気持ちだけを理由に止めることはできません。
けれど、許すこともできない」
遮那王は、返す言葉を持たなかった。
「清盛様に背くのかどうか、長成殿を巻き込むのかどうか。あなた自身が答えを出しなさい。
私に、決めさせないで」
母は立ち上がった。
いつもなら、別れ際には髪を撫でてくれた。今日は手が伸びてこない。
「母上」
呼び止めると、常盤は振り返った。
「私は、隠れて出るつもりはありません」
「では、どうするのです」
「清盛殿に、願いを申し上げます。長成殿にも、和尚様にも、先に話を通します。
それでも行くなと言われたら、理由を聞きます」
「許されなかったら?」
「そのときは、また考えます」
母の目に、わずかに悲しみが浮かんだ。
「あなたは、答えを得るまで、誰の言葉にも従わぬつもりですか」
「そうではありません。私が何を選ぶにしても、知らぬことを知ったふりで決めたくないのです」
常盤は、すぐには答えなかった。
「考えなさい。今度は、私に返事をする前に」
そう言い残し、戸口へ向かう。
遮那王は追わなかった。
廊へ出た常盤の足音が遠ざかる。いつもなら、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
今日は、戸口から動けなかった。
*
夕の勤めを終えても、母の問いは胸に残っていた。
清盛が命を助けた。鞍馬で学ぶ道を許した。
長成が母と自分を屋敷に迎え、寺へ送り出す支度を整えた。
その恩を受けたまま、頼朝に会いに行くことは、誰かに疑いを抱かせるのか。
兄に会いたいという願いは、ただ兄弟として会いたいだけなのか。
それとも、自分でも知らぬ何かを求めているのか。
夜、千寿が灯明皿を片づけているところへ戻った。
「母上に話したのか」
「うん」
「止められた?」
「行ってほしくないと言われた」
千寿は手を止めた。
「それでも行くのか」
「まだ決めていない。母上の言うとおり、私が動けば誰が巻き込まれるのか、考え切れていなかった」
「じゃあ、考えるんだな」
「うん。清盛殿にも、直接話したい」
千寿は皿を置いた。
「それを聞いて、許してくれるとは限らないぞ」
「分かっている」
「それでも話すのか」
「隠れて行くより、先に伝えるべきだと思う」
千寿はしばらく遮那王を見ていた。それから、廊の灯明を一つずつ消していく。
「なら、言うことをよく考えておけ。清盛様は、お前の言葉を聞いてくれる人だ。
でも、聞いたうえで止めるかもしれない」
「うん」
「止められたら、また考えるんだろ」
「そうする」
灯が消え、廊の先に夜の闇が満ちた。
母の問いに、まだ答えは出ていない。
それでも、次に清盛と会うときは、兄に会いたいという願いを、隠さずに話そうと思った。




