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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第十九話 弓を引く腕

第十九話 弓を引く腕


 夕の勤めが近づく頃、千寿は小僧の部屋から戻ってきた。


「熱は下がった。今夜は眠れそうだ」


「よかった」


 遮那王は、廊下に置かれた灯明皿を並べていた。千寿はその一つに油を足し、芯を整える。


「今夜、戻るのが遅くなるかもしれない」


 手を止めると、千寿は芯から目を上げた。何をしに行くのかは尋ねない。


「灯明の始末は私がしておく。戻ったら、火の残りを確かめてから寝ろよ」


「ありがとう」


「礼はいらない。明日の朝、寝坊するなよ」


 千寿は灯明皿を持ち、廊下の奥へ向かった。


 遮那王は、その背を見送ってから、小屋の裏へ続く山道に足を向けた。


     *


 鬼一法眼は、木の根元に腰を下ろしていた。


 赤い面は外し、脇に置いてある。膝の上には、長い弓があった。

 弓の弦は外され、法眼は指先で弓幹(ゆがら)を確かめている。


 遮那王が近づくと、弓を包む布をたたんだ。


「今宵は稽古ではない」


「分かっております」


「ならば、何をしに来た」


「お話を伺いたくて参りました」


「父のことか」


「はい。ですが……」


 弓の握りには、幾重にも巻いた革がすり減っていた。指が触れる場所だけ、色が濃い。

 法眼の右手は、弓を持っていないのに、弦(つる)を引く形に少し曲がっている。


「その弓は、長くお使いなのですか」


 法眼は弓を見下ろした。


「昔のものだ」


「弓を引いておられたのですね」


「見れば分かろう」


 そっけなく答え、弦を取り上げる。片端を弓の先へかけ、弓幹を足で押さえた。腕に力がこもる。

 肘から前腕へ浮かぶ筋が、縄を撚ったように盛り上がった。


 弦が張られる。法眼は手を離し、弓を確かめた。


「ひとたび引けば、遠くまで届く。だが、放った矢は戻らぬ」


 その言葉が、弓を見ていた遮那王の胸に残った。


「父上にも、矢を向けたことがおありですか」


 法眼の手が止まった。


「ある」


「そのとき、父上を討とうとなさったのですか」


「戦場で向かい合えば、敵を射る。それが武士だ」


 法眼は弓を立てかけた。話はそこで終わりだというように、赤い面を手に取る。


 けれど、遮那王は目を離せなかった。


「それでも、矢を放つ前に迷われたのではありませんか」


 面を持つ手が下がった。


「なぜ、そう思う」


「弓の手が、今も止まっているように見えました」


 法眼はしばらく黙り、やがて面を脇へ置いた。張ったばかりの弦を指で弾く。

 低い音が、木立のあいだを抜けていった。


「保元の乱で、儂は父とともに院方(いんがた)におった。

 義朝は天皇方だ。戦場で兄を見つけたとき、矢が届くところにいた」


 木々の間を風が通る。弓の弦が、かすかに揺れた。


「兜の下が空いていた。そこを射れば、兄は落ちたかもしれぬ」


「矢を放ったのですか」


「ああ」


 法眼は弓を見つめていた。


 矢を番え(つがえ)、弦を引く。張りつめた腕に力が満ちる。

 狙いの先には、戦場を駆ける義朝の姿があった。声を張り、兵を率いる兄は、こちらを見ていない。


 あの顔を知っていた。幼い頃から、どんなときにも先へ進む兄だった。

 父と敵味方に分かれた今も、兵の先に立っている。


 放つな、と誰かが叫んだわけではない。


 義朝が振り返ったわけでもない。


 それでも、指が弦を離れるまで、わずかな時があった。


 放たれた矢は兜の飾りを削り、その向こうの門柱に刺さった。

 義朝は馬上でよろめき、こちらを振り向いた。


「今のは何だ」


 怒声が届く。


「見てのとおり、兄上の兜を射ました」


「貴様の腕で、そこだけを射たと言うか」


「不服なら、今度は当てる場所を仰せください」


 兄は、答えなかった。


 法眼の指が、弦から離れる。


「その後、兄上とお話しになったのですか」


「戦場ではな」


「戦の後は」


「ならなんだ」


 声が硬くなる。遮那王は、続けようとした言葉を呑み込んだ。


 法眼は弓を包みに戻した。革の擦れた握りが、布の下へ隠れていく。


「兄を憎んだことはある。父を失い、兄と刃を交えた。

 そのうえ、互いに何を思うていたか、聞くこともできなんだ」


 遮那王は膝の上で手を握った。


「父上を憎んでおられるのですか」


「そう問われて、すぐ答えられるほど、話は単純ではない」


 法眼は包みを結んだ。結び目を締める指に、古い傷が走っている。


「兄を許せぬと思ったこともある。分かりたいと思ったこともある。だが、会えぬままになった」


「……」


「人は、いつまでも話せるわけではない」


 以前にも聞いた言葉だった。けれど、今は弓の音と、兜の飾りを削った矢が、そこに重なっている。


「私の兄上は、まだ生きています」


 口にしてから、初めて自分がそのことをはっきり言った気がした。


 法眼は顔を上げた。


「頼朝に会いたいのだな」


「はい。父上のことを聞きたい。それだけではありません。

 兄上がどのような方なのか、自分の目で知りたいのです」


 伊豆は遠い。寺を出ることも、母に話すことも、まだ決めてはいない。

 それでも、兄の名を胸の中に置いたまま、何もせずにいるのは違うと思えた。


 法眼は何も答えず、弓の包みを膝から下ろした。


「お前がどの道を選ぶかは、儂が決めることではない」


「はい」


「ただ、会う機会があるのなら、先延ばしにするな」


 遮那王は、弓を包んだ布を見た。矢を放つ前に迷った叔父の手。放った後、兄と交わした言葉。

 兄弟でありながら、互いの思いを確かめぬまま別れた二人。


「今宵は帰れ」


 法眼は立ち上がり、弓を肩に担いだ。先ほどの話を、それ以上続けるつもりはないらしい。


「また、聞かせていただけますか」


「気が向けばな」


 その声は、前に聞いたときよりも少し柔らかかった。


     *


 寺へ戻ると、廊の灯明はすでに消されていた。


 部屋の戸口に、千寿が座っている。手元には、読みかけの書物が開かれていた。


「遅かったな」


「ごめん」


「謝らなくていい。ちゃんと戻ったなら、それでいい」


 千寿は書物を閉じ、場所を空けた。遮那王が腰を下ろすと、傍らの椀を差し出す。


「水を置いておいた」


 受け取って口をつける。山の夜気で冷えた喉に、水がゆっくり落ちていった。



「何か聞けたのか」


「天狗殿は、戦場で父上に矢を向けたことがあるそうだ」


「父上に?」


「兜をかすめただけだった。なぜ狙いを外したのかは、聞けなかった」


千寿は何も尋ねなかった。ただ、読みかけの書物を脇へ置き、灯明の消えた廊下へ目を向けた。



「私も、兄上に会いたい」


 口にすると、胸の内で固まっていたものが、少し動いた。


「うん」


「いつか、ではなく」


 千寿は、遮那王へ目を戻した。


「その日が来たら、行けばいい」


 遮那王は返事をせず、椀の水を飲み干した。


 眠る前、兄へ何を尋ねるのかを考えた。父の声を覚えているか。

 父はどのような顔で戦場に立っていたのか。兄自身は、何を見ていたのか。


 聞きたいことはいくつもある。


 答えを聞く日が来るかどうかは、まだ分からなかった。



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