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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第十八話 寺に残る者

第十八話 寺に残る者


 覚円が髪を下ろしてから、幾日か過ぎた。


 朝の勤めで経を唱える声は、以前より少し低く聞こえた。

 新しい衣の袖はまだ身になじまぬらしく、経巻を開くたび、覚円は指先で襟元を直している。


 その朝は、若い稚児たちの前で経を読む役を任されていた。


 覚円は経巻を開き、息を整える。初めの句は滞りなく出た。

 ところが次の行へ移るところで、声が途切れる。


 隣にいた小さな稚児が、覚円の顔をうかがった。覚円は経巻へ目を落としたまま、指で行をたどる。

 声を継ぐまで、ほんの一息。それでも、堂内の静けさには長く感じられた。


 遮那王は、手元の経巻を閉じかけていた。覚円の指が次の行を見つける。

 声が戻り、皆の唱和が続いた。


 勤めを終え、稚児たちが経巻を片づけ始める。

 先ほど覚円の隣にいた子が、経巻を抱えたまま立ち尽くしていた。


「覚円さま、あそこはどう読むのですか」


「どの行だ」


 覚円は腰を下ろし、子の指が示す箇所をのぞき込んだ。


「ここは、こう読む。声に出してみよ」


 稚児がつかえながら唱える。覚円は急かさず、最後まで聞いた。


 その姿を見ながら、遮那王は経巻を棚へ戻した。髪を下ろした日、覚円は迷わずに見えた。

 だが、あの朝の声が途切れた一息を思えば、迷いがなくなったわけではないのだろう。


     *


 昼の勤めの後、覚円は和尚から寺の薬草をしまう役を任された。


 棚の薬包(やくほう)は、紙に名が記され、種類ごとに分けてある。

 覚円はひとつずつ確かめては、木箱へ納めていた。遮那王と千寿も、頼まれて箱を運ぶ。


「こちらは、どこへ置きましょう」


 千寿が包みを持ち上げる。


「日々使うものは手前だ。傷薬は奥の箱に分けてくれ」


 覚円は棚の上を指した。新しい衣の袖が、薬包の角に引っかかる。

 包みが傾き、遮那王が手を出して受け止めた。


「危ない」


「すまぬ。まだ袖の扱いに慣れぬな」


「髪も袖も、急に変わると不便でしょう」


「髪は、もうないからな。袖のほうが気になる」


 覚円は苦笑し、薬包を受け取った。箱へ納めた後も、袖口を何度か引いて整えている。


「出家なさったことを、後悔しておられますか」


 問いは、思ったより早く口を出た。


 覚円の手が止まった。千寿は薬包を持ったまま、二人の様子を見ている。


「後悔がないと言えば、嘘になる」


 覚円は包みの端を折り、紙紐を結び直した。


「髪を惜しむ気持ちもある。寺の外に残してきたものを、ふと思うこともな」


「それでも、決めたのですか」


「決めたから、惜しくなくなるわけではない。

 惜しいと思うことと、この道を選んだことは、どちらも私の中にある」


 結び目を確かめ、覚円は箱へ薬包を収めた。


「お前も、すぐ答えを出さねばならぬわけではなかろう」


「和尚様は、そう仰いました」


「なら、焦らず考えればよい。

 誰かの髪が落ちるのを見たからといって、お前まで同じ日に決めることはない」


 覚円はそれきり、薬包の仕分けに戻った。

 遮那王も箱を持ち上げたが、さきほどの言葉は手の中に残っていた。


     *


 夕刻、和尚から頼まれ、遮那王は薬湯(やくとう)を小僧の部屋へ運んだ。朝から熱を出した子がいるという。


 部屋に入ると、千寿が先に来ていた。濡らした布を絞り、寝ている子の額へ置く。

 覚円は枕元に座り、湯を少しずつ飲ませていた。


「飲めるか」


 子はかすかにうなずいた。覚円が椀を傾ける。

 ひと口飲むと、子は眉を寄せたが、吐き出さずに飲み下した。


「苦いか」


「はい」


「よく飲んだ」


 覚円は椀を脇へ置いた。千寿が額の布を替える。

 三人でしばらく様子を見ていると、子の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。


「覚円さま、夕の勤めが始まります」


 廊から僧の声がした。


「この子が眠るまで、ここにいる」


「では、勤めの後に代わりましょう」


 僧の足音が遠ざかる。覚円は、子の額の布をもう一度確かめた。


「行かなくてよいのですか」


「勤めは大切だ。だが、今はこの子のそばにいると決めた」


 言い方は静かだった。出家を選んだときと同じように、何かを選ぶことは、他の務めをすべて捨てることではないのかもしれない。


 千寿は水差しを手に取り、空になりかけた椀へ水を足した。


「私たちは、勤めに戻ろう。ここは覚円さまに任せて」


 うなずき、薬湯の空椀を片づけた。


 部屋を出るとき、寝ていた子が薄く目を開けた。


「千寿さま」


「ここにいるよ。覚円さまもいる」


 その声を聞いて、子はまた目を閉じた。


     *


 勤めを終えて戻ると、覚円はまだ小僧のそばにいた。子は眠っており、額の布も乾いている。

 覚円はその脇で、経巻を開いていた。


「眠ったのですね」


「ああ。熱も少し引いた」


 覚円は経巻を閉じ、立ち上がった。袖が枕元の水差しに触れそうになる。

 今度は自分で気づき、そっと身を引いた。


「慣れてきましたね」


「一日で覚えることではないな」


 その声には、昼のような苦笑が混じった。覚円は水差しを整えると、戸口の千寿へ目を向ける。


「千寿も、今日は助かった」


「この子が、私にはよく懐いているだけです」


「それも、お前が日々ここにいるからだろう」


 千寿は返事をせず、子の寝具がずれているのを直した。

 小さな肩まで布をかけてから、ようやく立ち上がる。


 帰り道、千寿は遮那王の歩みに合わせていた。先ほどから、何度もこちらを見ている。


「何か言いたいのか」


「お前は、寺に残る道を考えている?」


「考えているよ」


「それで、決められそうか」


「まだ分からない」


 千寿はしばらく黙って歩いた。廊の板が足音を返す。庭から、夜の虫の声が聞こえ始めていた。


「私は、今はここにいたい」


 千寿が言った。


「和尚様や、あの子たちもいる。毎日やることもある。

 先のことまで決めたわけじゃないけど、ここを離れたいとは思っていない」


「そうなんだ」


「お前は、兄上に会いたいんだろう」


「うん」


「なら、会いたいと思うことまで隠さなくていい。

 寺に残りたい者もいれば、外へ行きたい者もいる。それだけだ」


 千寿の歩みは変わらない。遮那王は、隣に並ぶその横顔を見た。


「お前は、私が出ていくことを嫌だと思わないのか」


「嫌だよ」


 答えはすぐだった。千寿は前を向いたまま続ける。


「でも、嫌だからって、お前の行きたいところを閉ざしたくはない」


 胸の奥がわずかに詰まった。返す言葉を探しているうちに、二人は部屋の前へ着いた。


「まだ、出ていくと決めたわけではないよ」


「分かってる。今すぐ答えを出せとも言ってない」


 千寿は戸を開けた。部屋の中には、朝に広げた書物がそのまま置かれている。

 遮那王はそれを片づけ、巻物を棚へ戻した。


 覚円は寺に残り、病の子のそばにいた。千寿もまた、今はここにいたいと言った。


 そのどちらも、誰かに決められたことではない。


 寝具に入る前、遮那王は髪を結ぶ紐に触れた。明日の朝も、いつものように結うだろう。

 出家するか、寺を出るか、その答えはまだない。


 ただ、迷いを誰かに悟られぬよう隠すのは、もうやめようと思った。



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