第十七話 髪を下ろす日
第十七話 髪を下ろす日
朝の勤めを終えると、和尚に呼ばれた。
客間には、いつも稽古や掃除を共にしている年長の稚児が座っていた。名は覚円。
遮那王よりいくつか年上で、髪は肩に届くほど伸びている。
膝の前には、畳んだ衣と小さな包みが置かれていた。
「今日、覚円が髪を下ろすことになった」
和尚が告げると、覚円は背筋を伸ばした。緊張のせいか、膝の上で組んだ指が少し動いている。
「お前たちには、支度を手伝ってもらいたい」
「はい」
千寿が先に答えた。遮那王も頭を下げる。
髪を切る場所は、客間の隣に整えられていた。
敷物の上に白い布が広げられ、その前に水を張った盥が置いてある。
僧が剃刀を確かめるあいだ、千寿は新しい衣を畳み直し、遮那王は盥の水を替えた。
「その布は、こちらへ」
覚円に言われ、肩へかける布を手渡す。
「ありがとう。二人には、ずいぶん世話になったな」
「これからも寺におられるのでしょう」
「いるさ。ただ、稚児の姿ではなくなる」
覚円は笑った。声はいつもと同じなのに、笑みがすぐに消える。切り落とす髪へ、目が向いていた。
僧が剃刀を手に、覚円の背後へ回る。
「心は決まったか」
「はい」
覚円は答えた。今度は指を組み直さなかった。
最初に、後ろ髪が束ねられる。僧が刃を入れると、乾いた音がした。長い髪が布の上へ落ちる。
遮那王の手が、盥の縁で止まった。
髪は、思いのほか重そうに見えた。
黒い束が白布の上に広がり、覚円の肩から少しずつ長さが失われていく。
僧は急がず、残った髪を整えて剃り落とした。
覚円は目を閉じていた。眉間に力は入っていない。けれど、一度だけ、膝の上の手が握られた。
やがて剃刀が置かれ、僧が頭を清める。覚円は盥の水で顔を洗い、新しい衣に袖を通した。
「これで、仏門に入る身となった」
和尚の言葉に、覚円は深く頭を下げた。
千寿が衣の襟を整える。遮那王は、布の上に残った髪を集めた。指の間を、細い毛がすべっていく。
「捨ててよいのですか」
手を止めたまま尋ねると、覚円は頭を撫でた。
「もう、要らぬものだ」
そう言ったが、髪を見下ろす目はしばらくそこに留まっていた。
式が終わると、覚円は和尚とともに奥へ下がった。
客間には、畳んだ衣と、髪を集めた布だけが残された。
「思ったより、あっという間だったな」
千寿が布の端を持ち、髪を包む。
「そうだね」
返事をしながら、遮那王は自分の髪に触れた。指にかかる黒髪は、昨日までと変わらない。
けれど、先ほど見た束が、頭から離れなかった。
*
昼過ぎ、和尚が書庫へ来た。
遮那王と千寿は、古い経巻を棚へ戻しているところだった。
和尚は覚円の名が記された札を手にしていた。
「覚円は、これから寺の務めを覚えていく。お前たちも、いずれ先の身の振り方を決めねばならぬ」
千寿の手が、経巻の上で止まった。
「私たちも、髪を下ろすのですか」
「そうなるかもしれぬ。だが、今すぐ決めよという話ではない。
常盤殿とも相談しながら、頃合いを見て考えていく」
和尚は札を棚へ戻した。
「遮那王も、もう幼子ではない。己の先を思う時が来る」
和尚が去ったあと、千寿は経巻を抱えたまま、棚の前に立っていた。
「覚円は、自分で決めたんだろうか」
「そうだと思う」
「迷わなかったのかな」
「分からない」
遮那王は経巻を受け取り、棚へ差し込んだ。背表紙を揃える指先が、わずかに止まる。
寺に残れば、学ぶことはある。書も、法も、日々の務めも。
ここで育てられ、教えられたものを、何ひとつ軽んじるつもりはなかった。
それでも、伊豆に兄がいると知ってから、山の外へ向かう道を考えない日はなかった。
「和尚様」
呼び止めると、廊の向こうへ行きかけた和尚が振り返った。
「出家した後でも、伊豆へ行くことはできますか」
和尚はすぐには答えなかった。手にしていた札を持ち直す。
「僧になれば、旅ができぬという決まりはない。だが、寺を離れるには師の許しが要る。
まして、流されている兄を訪ねるなら、相手の身にも関わることだ。
会いたいと思うだけで、すぐ叶うとは限らぬ」
「では、出家しなければ、行けるのでしょうか」
「それも同じだ。身ひとつで訪ねてよい相手ではない。
お前は源氏の子であり、頼朝殿は流人なのだからな」
和尚の声に責める響きはなかった。むしろ、道の先にあるものを一つずつ見せるような言い方だった。
「ただ、出家するか否かを、兄に会えるかどうかだけで決めるものでもない」
「はい」
「己が何を学び、何を為したいか。それを考えてから、常盤殿にも話しなさい」
和尚はそれ以上言わず、廊の先へ去った。
千寿が経巻を棚へ収める。先ほどまで揃えていた背表紙が、ほんの少し傾いていた。
遮那王は直そうと手を伸ばしたが、千寿が先に整えた。
「会いたいんだな、兄上に」
「会って、父上のことを聞きたい」
「それだけか」
答えかけて、言葉が止まる。
兄の姿を知らない。声も、どんな顔で笑うのかも知らない。
ただ、父と戦場にいた人だと聞いた。ならば、自分の知らない父を知っているかもしれない。
「……会ってみたい。どんな方なのか、知りたいんだ」
千寿は、抱えていた経巻を棚へ置いた。
「出家したら、会えなくなるわけじゃないんだろ」
「和尚様は、そうは仰らなかった」
「なら、行ける道を探せばいい」
「簡単にはいかないそうだよ」
「簡単かどうかは、まだ分からない」
千寿は棚の戸を閉めた。木の音が、書庫に静かに響く。
「覚円は、髪を切る前にずいぶん黙っていた」
「迷っていたのかな」
「さあな。けれど、あの人は自分で決めた。お前も、誰かに決められる前に考えればいい」
「和尚様は、急かしてはいないよ」
「それでも、考えることはできるだろ」
千寿はそう言い、先に書庫を出た。廊へ出ると、庭のほうから覚円の声がした。
新しい衣の袖を気にしながら、若い僧に呼ばれている。
千寿が足を止める。覚円は二人に気づくと、少し照れたように頭を下げた。
「見慣れぬ姿だろう」
「よくお似合いです」
千寿が答えた。
「そうか。ならよかった」
覚円は袖を整え、僧の後を追った。さっきまでそこにあった黒髪は、もう布に包まれて見えない。
遮那王は、自分の髪を結ぶ紐に触れた。
「千寿」
「何だ」
「もし、私がこの寺を出ることになったら」
言いかけて、続きを探す。出ると決めたわけではない。
今は、兄に会いたいという思いと、寺で学んできた日々のあいだに立っているだけだ。
「そのときは、先にお前に話す」
千寿は、こちらを見た。
「和尚様や母上より先に?」
「いや。母上には、きちんと話すよ。でも、お前にも話す」
「なら、聞く」
それだけ言って、千寿は廊を歩き出した。
遮那王も隣へ並ぶ。行き先は、いつもの勤め場だった。
寺を出る日が決まったわけではない。兄に会う道も、まだ見えない。
けれど、髪を落とす日の光景は、心に残っていた。
布の上に広がった黒髪。剃刀の音。新しい衣に袖を通した覚円の横顔。
あの人は、迷いを抱えたまま、自分で一歩を選んだのかもしれない。
遮那王は、結び紐に触れていた指を下ろした。まだ答えは出せない。
それでも、いつか自分で選ぶ日のことを、初めてはっきりと考えていた。
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