第十六話 山裾の道
第十六話 山裾の道
雨が三日続いた。
朝の勤めを終えた頃、山門の外で車輪の軋む音がした。
米を運ぶ男が、車を引いて坂を上がってくる。車輪は泥に沈み、押すたびに荷が揺れた。
「手を貸してくれ」
男の声に、近くの僧たちが門へ出た。遮那王も駆け寄り、車の後ろへ回る。
「せえの」
皆で押す。車輪が泥を跳ね上げ、ようやく坂を越えた。
「助かった。だが、下の橋が流されてしまってな。遠回りをしたせいで、荷が遅れた」
「橋が流されたのですか」
「ああ。川の水が増えて、橋桁ごと持っていかれた」
男は荷縄を確かめた。濡れた米俵が一つ、車の端で傾いている。
「この雨では、しばらく通れまい。別の道を使うしかないが、荷を積んだ車では越せぬ」
和尚が荷を受け取るため、僧たちに声をかけた。遮那王は車輪についた泥を見ていた。
「その道は、人なら通れるのですか」
「道はある。だが、山肌を回る細道だ。濡れた荷を持って通るのは骨が折れる」
「どこから回ればよいのでしょう」
「麓の村を抜けて、沢沿いに上がる。晴れておれば、半日もかからん」
男は、車から米俵を一つ下ろした。
荷を運ぶ僧が受け取ろうとする前に、遮那王が俵の紐へ手を伸ばす。
「待て。濡れているところを持つと、紐が切れるかもしれません」
俵を支え、乾いた側へ手を回す。僧が反対側を持ち、二人でゆっくり下ろした。
「よく見ておったな」
「車の端で、紐が緩んでおりました」
男はうなずき、濡れた俵を確かめる。
外側の藁が湿っているだけで、中まで水は通っていないようだった。
「これなら、すぐには傷むまい。だが、次に雨が降る前には届けたい」
和尚が男へ礼を述べ、米の受け取りを確かめる。遮那王は車の脇に残り、泥のついた車輪を見た。
「その道を、見に行ってもよいでしょうか」
和尚がこちらを向く。
「山裾までなら、私も同行しよう。ひとりで行ってはならぬぞ」
「はい」
千寿もそばにいた。こちらを見て、濡れた袖を指さす。
「そのまま行くのか?」
「着替えてくるよ」
「草鞋も替えたほうがいい。泥で滑る」
言われるまま部屋へ戻り、乾いた草鞋に履き替えた。
千寿は自分の草鞋を手に取ってから、少し考え、替えのものをもう一足抱えた。
「お前も来るのか」
「和尚様が行くんだろう。荷を持つ手は多いほうがいい」
和尚は、山門で待つ米運びの男に声をかけた。
「村まで同行いたします。荷を分けるにせよ、道を確かめておいたほうがよいでしょう」
「それはありがたい。村の者も、橋の様子を案じておる」
*
山を下りる道は、思っていたより滑った。
木の根を踏むたび、泥が草鞋の裏にまとわりつく。千寿が前を行き、枝を避けながら振り返った。
「急ぐなよ」
「分かっている」
「さっきから二度、足を取られた」
「三度目はないよ」
言い終わる前に、草鞋が泥に沈んだ。体が傾く。千寿が腕をつかみ、転ぶ前に引き戻した。
「三度目だ」
「今のは数に入れない」
「何を言ってるんだ」
千寿が笑う。和尚も後ろで小さく息を漏らした。
山道を抜けると、沢沿いの細道へ出た。雨水が斜面を流れ、道の端を削っている。
人が一人通るのがやっとの幅だった。
米運びの男は、先に立って進む。荷はまだ車に積んだままだ。
ここを通るなら、俵を下ろして人が担ぐしかない。
「この道を、いつも使うのですか」
「いや。雨が続いたときだけだ。晴れた日なら、橋を渡るほうが早い」
「橋は、どのくらいで直りますか」
「川の水が引かねば手をつけられぬ。流された木を集めて、村の者と掛け直すことになる」
「それまで、米はどうするのですか」
「村には少し蓄えがある。だが、余るほどではない。ここへ運ぶ分を回せば、村の者が困る」
男は振り返り、遮那王の顔を見た。
「だから、こうして運んでおる。寺にも、村にも、要る分はある」
道の先に、小さな家並みが見えた。軒先には、濡れた薪が積まれている。
子どもが一人、戸口から顔を出し、こちらを見ていた。
村に着くと、男は車を道端に寄せた。村人たちが集まり、橋の様子を尋ねる。
和尚が説明するあいだ、遮那王は車の荷を確かめた。米俵は三つ。
うち一つは濡れているが、運べないほどではない。
「この道から、俵を一度に運ぶのは難しいでしょう」
男がうなずく。
「一つずつ担いで越えるしかないな」
「先に、濡れた俵を運んだほうがよいと思います。雨がまた降れば、傷むかもしれません」
「そうだな」
村人が肩に担ぐための縄を持ってきた。
俵を車から下ろすと、今度は二人がかりで背負い、細道へ向かう。
遮那王も小さな荷を任された。米俵ほど重くはないが、濡れた藁束が肩に食い込む。
「それは、寺で使う薪だ。こっちへ頼む」
男に言われ、村人の一人が藁束を受け取った。
「手を貸してくれて助かったよ。坊さまに持たせるものではないのに」
「私も、運べるものは運びます」
「では、次はこれだ」
今度は空の荷縄を渡された。濡れた俵を運び終えた者が戻るまで、車のそばで待つ。
村の子どもがこちらを見ていた。手には木の枝を持ち、泥に小さな溝を作っている。
「何をしているの?」
「川だよ。ここが橋」
子どもは枝で線を引き、溝をまたぐように細い枝を一本置いた。
「橋が流れたから、作り直しているのか」
「うん。でも、すぐ流れる」
子どもが枝を置き直す。今度は、溝の両端に石を置いて支えた。
「これなら流れない?」
「本物の川では、石も動くよ」
子どもは少し考え、溝の脇にもう一本線を引いた。
「じゃあ、こっちにも道を作る」
和尚が村人と話し終え、こちらを呼んだ。山へ戻る刻だった。
「また雨が降れば、この道も崩れるかもしれぬ。村の者が確かめて、通れるようなら知らせるそうだ」
「寺からも、橋の様子を見に参りましょう」
和尚の言葉に、村人が頭を下げた。
帰り道、千寿が泥のついた草鞋を見下ろす。
「ずいぶん汚れたな」
「千寿もだよ」
「私はいいんだ」
「どうして?」
「替えを持ってきたから」
千寿は、抱えていた草鞋を見せた。遮那王は笑う。山道の途中で、また足を取られた。
今度は転ばず、木の幹に手をついて持ちこたえる。
「三度目はなかっただろう」
「今ので、ぎりぎりだな」
*
寺へ戻ると、米俵は濡れたものから先に運び込まれた。
和尚が受け取りを確かめる間、遮那王は村の道を思い返していた。
橋が流れれば、米は遠回りになる。道があっても、荷を担げなければ運べない。
村に米があっても、分ければ村人の食べる分が減る。
紙の上に描いた道筋とは違う。
泥に足を取られ、荷の重さを肩で知り、村の者の言葉を聞いて、ようやく見えたことがあった。
部屋へ戻り、文机に紙を広げる。
頼朝の名を書いた紙の裏へ、今日見た道を描いた。橋のあった場所。
沢沿いの細道。雨で崩れかけた斜面。村の家並み。
道筋を書き終えると、その脇に「雨の後は荷車通れず」と記した。
筆を置く。
紙には、寺から山裾までの道しかない。その先は、まだ白いままだった。
いつか、その先も自分の目で確かめることがあるのだろうか。
遮那王は紙を畳まず、乾くまで文机に広げておいた。




