第十五話 兄と呼ぶ
第十五話 兄と呼ぶ
文机に広げた紙には、父と兄たちの名が並んでいた。
源義朝。義平。朝長。頼朝。
頼朝の横には、墨の濃い「兄」の字がある。眠る前に書き添えたものだった。
筆を置いてから、何度も見返した。名は分かった。
父の子であり、自分の兄にあたることも。
けれど、顔も声も知らない相手を、兄上と呼ぶのはまだどこか遠い。
紙を畳もうとして、手が止まる。
会ったことがなくても、父を知っているかもしれない。頼朝は父とともに戦場にいたという。
ならば、清盛とも為朝とも違う父の姿を聞けるかもしれなかった。
そこまで考えて、紙を伏せた。
*
朝の勤めを終え、遮那王は書庫から経巻を運んでいた。
棚の奥にしまう分と、和尚の部屋へ届ける分を分けていると、後ろから千寿が箱を抱えてきた。
「これは、どこへ置く?」
「それは和尚様の部屋へ。こちらは棚の上段に戻すんだ」
箱を受け取ろうとしたが、千寿は持ち直して、先に部屋へ向かった。
こちらも経巻を抱え直し、後を追う。
和尚の部屋へ届けたあと、棚へ戻す巻物を確かめた。
古い紐が緩んでいるものがあり、落ちないよう結び直す。
「昨日から、紙を何度も見てるな」
千寿が隣で紐を引きながら言った。
「気づいていたのか」
「同じところを見て、考え込んでいる」
結び目を作る手が止まった。
「父上と兄上たちの名を書いたんだ」
「兄上たち?」
「頼朝殿のほかにも、義平殿と朝長殿がいた。私の兄上だ」
「会ったことはあるのか」
「ない」
千寿は紐を引き、結び目を確かめた。
「それで、頼朝殿には会いたいのか」
すぐには返せなかった。経巻を棚へ戻す。
背表紙をそろえ、少し傾いた巻を押し込んでから、ようやく口を開く。
「会いたいと思う」
「父上のことを聞くために?」
「それもある」
「ほかには?」
「分からない」
千寿は、問い詰めるでもなく次の巻物を手に取った。
「分からないなら、会ってから考えればよいのではないか」
「会えるかどうかも分からないよ」
「伊豆は遠いんだろう」
「うん。歩けば幾日もかかるそうだ」
「では、今すぐ行くのか?」
「そういうわけにはいかない」
答えてから、抱えていた巻物の重さに気づく。腕の中で紙がずれていた。
落とさぬよう、二人で棚へ収める。
「それに、私は寺におります。ここを出ることも、まだ考えておりません」
千寿は何も言わなかった。最後の巻を棚へ戻し、埃を払う。
「そうか」
それだけだった。
その返事が、かえって胸に残った。
*
午後、部屋へ戻ると、文机には昨夜の紙がそのまま置いてあった。
清盛から届いた紙の包みを開く。よく漉かれた白い紙が重なっている。
礼の文を書いたときより、筆先に力を入れずに済みそうだった。
一枚を選び、硯の前へ置く。
まず「源頼朝殿」と書いた。宛名は書けた。
その下に「私は、源義朝の子、遮那王と申します」と続ける。
筆を止める。
この文を受け取った頼朝は、すぐに信じるだろうか。
母の名を書けば、自分が弟だと分かるだろうか。
そもそも、幼い頃に会ったことがあるのかどうかさえ、覚えていない。
筆の先が紙に触れたまま、墨が小さく滲んだ。
「まだ書いていたのか」
千寿が戸口から声をかけた。手には、使い終えた硯を洗うための水桶がある。
「頼朝殿に文を書こうと思ったんだ」
「渡す人は見つかったのか」
「いいや」
「では、どうして書いてる?」
水桶を受け取り、硯の脇へ置いた。筆を紙から離す。
「何を尋ねたいのか、考えておこうと思って」
「父上のことだろう」
「最初は、そう思った」
宛名の下に書いた自分の名を見つめた。紙の端には、墨の染みが広がっている。
「でも、父上のことを聞くだけなら、清盛殿や為朝殿にも尋ねられる」
千寿は水桶を床へ置き、文机の横に腰を下ろした。
「では、何を聞くんだ」
答えはすぐに出なかった。
頼朝が父を覚えているとして、どんな話をしてくれるだろう。父がどんな顔で笑ったか。
何を怒り、何を大事にしていたのか。それを知りたいと思う。
けれど、知りたいことは、それだけではなかった。
「兄上は、私のことを知っているのか」
声に出すと、胸の奥がわずかに縮んだ。
「知らないかもしれないな」
千寿は軽く答えた。慰めようとはしなかった。
「会ったら、私のことをどう思うだろう」
「それは、頼朝殿に聞かないと分からない」
正しい答えだった。けれど、聞くのが怖くないわけではない。
紙の上で、宛名の「頼朝殿」が目に入る。そこへ「兄上」と書き直すことはできなかった。
まだ一度もそう呼んだことがない。
「兄上と呼んでよいのかな」
千寿は、文机の紙を覗いた。
「父上の子なら、兄上なんだろう」
「そうだね」
「なら、呼べばいい」
「会う前から?」
「会ったあとでも、呼べなかったら困るだろう」
千寿は桶の縁に指をかけた。水面が少し揺れた。
「私は、お前が兄上と呼ぶのを聞いたことがない。今若殿や乙若殿のことは、そう呼ぶのか」
遮那王は視線を落とした。
「手紙では、そう呼んだことがある」
「なら、頼朝殿にも呼べる」
「手紙と、目の前にいるのとでは違うよ」
「そうかもしれない」
千寿はそれ以上言わず、桶を持って立ち上がった。
「水、こぼすなよ」
「分かっている」
千寿は、わざとらしく桶を傾けてみせた。水が縁まで揺れる。
遮那王が手を伸ばすと、千寿はすぐにまっすぐ持ち直した。
「冗談だ」
「危ないよ」
「分かってる」
戸口へ向かう背を見送った。文机には、書きかけの文が残っている。
*
夕餉のあと、もう一度筆を取った。
宛名の「源頼朝殿」の下に、父のことをお聞かせください、と書く。
そこまでは、昼に考えたとおりだった。
さらに一行、兄上は、私をご存じでしょうか、と書きかける。
最後の「か」を書く前に、筆を止めた。
返事が来なかったら。知らないと言われたら。あるいは、弟として会うことを望まれなかったら。
紙を押さえる手に力が入る。指先に墨がついた。
その一文を消す代わりに、筆を置いた。
今の自分には、答えを文で受け取るより、会って確かめたい気持ちがある。
頼朝が父のことを覚えているかだけでなく、どんな人なのか、自分の目で見てみたい。
伊豆へ行く道も、いつ寺を出られるかも分からない。
ここを離れれば、和尚や千寿とも別れることになる。考えるだけで、喉の奥が固くなった。
それでも、知らぬままではいたくない。
書きかけの文は、送らずに残すことにした。
いつか頼朝に会ったとき、何を尋ねたいのかを忘れぬために。
紙を乾かし、文机の端へ置く。隣には、昨夜書いた名の紙がある。
源義朝。義平。朝長。頼朝。
その横の「兄」は、まだ一字だけだった。
筆を取り、もう一度、その字をなぞる。
今度は「頼朝兄上」と書いた。
書き終えた字をしばらく見つめる。まだ、口に出して呼んだわけではない。
兄の顔を知ったわけでもない。
それでも、ただの名ではなくなっていた。
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