第十四話 伊豆の兄
第十四話 伊豆の兄
昼の勤めを終えた頃、山門に旅の僧が訪れた。東国から京へ上ってきたという。
裾には泥が乾いてこびりつき、草鞋の緒も緩んでいる。
和尚が迎えに出るあいだ、遮那王は頼まれて水を運んだ。
「遠くからおいでになったのですか」
「ああ。伊豆からな。道中、雨に降られて往生した」
「伊豆は、京から遠いのでしょうか」
「歩けば幾日もかかる。あの地には、平治の乱の後に流された源頼朝殿がおられる。
今も、そこにおられるそうだ」
椀を差し出す手が止まった。水面が揺れ、縁から一滴こぼれる。
「源頼朝……」
旅僧は椀を受け取ると、和尚に呼ばれてそちらへ向かった。
遮那王は、濡れた指を袂で拭った。頼朝という名が耳に残る。
けれど、なぜ気にかかったのかは分からなかった。
*
午後の書見では、同じ行を二度読み返した。
「遮那王、そこは先ほども読んでいたぞ」
千寿に言われ、ようやく顔を上げる。
「そうだったね」
「考えごとか?」
「少し」
それ以上は話さず、書物へ目を戻した。文字は追えても、意味が頭に入ってこない。
水を運んだときに聞いた名が、何度も胸の内に浮かんだ。
夜、部屋へ戻ると、清盛から届いた紙の包みを開いた。白い紙を一枚取り出し、文机に広げる。
筆をとり、まず「源義朝」と書いた。
その下に、己の名を書きかけて止める。昼に聞いた頼朝とのつながりは、まだ何一つ分からない。
紙の端へ「頼朝」と記し、その横に「伊豆」と添えた。筆先が紙の上で止まる。
父の子なのか。兄なのか。聞けば分かるかもしれない。
遮那王は紙を畳み、寝具の脇へ置いた。
*
皆が寝静まった後、小屋の裏へ向かった。
鬼一法眼は木立のそばに立っていた。杖を片手に、こちらを待っている。
「昼に、伊豆の話を聞きました」
「伊豆?」
「源頼朝という方が、平治の乱の後に流されたと。今も、そこにおられるそうです」
為朝の指が、杖の柄で止まった。
「その名を、どこで聞いた」
「東国から来た旅僧です」
為朝はしばらく黙っていた。遮那王はその沈黙を見つめ、昼から胸に残っていた疑問を口にする。
「頼朝殿は、父上の子なのでしょうか」
「ああ」
為朝は短く答えた。
遮那王の指が、袂の中で紙の端をつまむ。
「私の兄上にあたるのですか」
「そうだ」
返事を聞いた途端、息が浅くなった。昼に聞いた名が、突然、自分とつながった。
「父上には、ほかにも子がおられるのですね」
「義平と朝長がいた」
為朝は杖から手を離し、木の幹に触れた。
「そのお二人も、私の兄上ですか」
「ああ」
木の葉が風に揺れた。しばらく、どちらも口を開かなかった。
「平治の乱で、二人は命を落とした。頼朝は捕らえられ、伊豆へ流されたと聞く」
遮那王は、袂の中の紙を握りしめた。紙の端が折れる。
「頼朝殿は、父上とともに戦場へ出たのでしょうか」
「兄の軍にいた」
「父上のそばに」
「ああ」
問いを重ねかけて、止めた。為朝の指が、幹の表面をなぞっている。
そこに残る古い傷を確かめるように、ゆっくりと。
「その方なら、父上のことを覚えておられるかもしれませんね」
「儂には分からぬ。会うてみねばな」
遮那王はうなずいた。すぐに会えるわけではない。
伊豆が遠いことも、今いる場所を離れられないことも分かっている。
それでも、父を知る兄がいる。
部屋へ戻ると、文机の紙を開いた。
「頼朝」の横にあった「伊豆」の文字が、先ほどより近く感じられた。
遮那王はその下に、小さく「兄」と書き添えた。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!
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