第十三話 天狗の名
第十三話 天狗の名
木刀が手を離れ、土の上を転がった。
「受け止めようとするな。流せ」
鬼一法眼は杖を下ろし、落ちた木刀を顎で示した。遮那王は拾い上げ、握り直す。
次の一太刀も受けきれなかった。腕に痺れが走り、木刀がまた地面へ落ちる。
「手元が乱れておる。心が逸れておるぞ」
木刀を拾う。昨日、清盛が語った父の姿が、稽古の間も頭から離れなかった。
「清盛殿が、父上を強い男だったと仰いました」
杖を持つ手が止まった。
「あやつが、兄をそう評したか」
「兄上……?」
「義朝は、儂の兄だ」
木刀を握ったまま、赤い面を見上げる。
「法眼殿が……父上の弟君?」
「そうだ」
「では、あなたは……」
「源為朝。鬼一法眼は仮の名だ」
木刀が、手から落ちた。
父に弟がいた。その人が、これまで天狗を名乗り、稽古をつけてくれていた。
遮那王は木刀を拾うのも忘れ、面を見つめた。
「世間では、儂は死んだことになっておる」
「死んだことに……? 何があったのでしょうか」
為朝は答えなかった。杖を握る手に、わずかに力がこもる。
もう一度尋ねかけ、口を閉じた。面の奥は見えない。それでも、今は聞かぬほうがよい気がした。
「……申し訳ありません」
「謝ることではない」
為朝は落ちた木刀を拾い、こちらへ差し出した。
「続けるぞ」
受け取って構える。けれど、手に力が入らなかった。杖が触れるたび、木刀がわずかにぶれる。
二度目に打ち合ったところで、為朝が杖を下ろした。
「今宵は終いだ」
「まだ、稽古を続けられます」
「その心持ちでは、木刀を握っておるだけだ」
返す言葉が見つからない。
「父上の弟君が、目の前におられるのです」
「分かっておる」
「私は……何をお聞きすればよいのか」
「今は、何も聞かずともよい」
為朝は山道へ向き直った。
「儂の名も、義朝との縁も忘れろ。生きていると知られれば、寺まで巻き込むことになる」
「忘れたふりはできませぬ」
足が止まる。
「父上の弟君だと知ってしまったのに、何も知らぬままには戻れません」
「……」
「けれど、ここで話せぬこともあるのでしょう」
為朝は振り返らなかった。遮那王はそれ以上、問いを重ねなかった。
「叔父上」
呼びかけると、ようやく肩がわずかに動いた。
「父上のことを、また聞かせてください」
「気が向けばな」
返事はそっけなかったが、拒絶ではなかった。
為朝は木々の間へ消えていく。遮那王は、その背が見えなくなるまで立ち尽くした。
父に弟がいた。その人は今も生きていて、父を知っている。
鐘の音が山に響くまで、手の中の木刀を握り直すこともできなかった。
*
次に会った夜、為朝はいつもの場所で待っていた。
稽古を始める前、遮那王は木刀を脇へ置いた。
「何を聞きたい」
為朝のほうから尋ねた。
「父上が、どのような方だったのかを」
「清盛から聞いたのではないのか」
「強い男だったと。それは、清盛殿が見た父上の姿です。ほかの方が見た父上のことも知りたいのです」
為朝はしばらく黙っていた。やがて、杖を地面へ立てる。
「兄は、弓を引くのが好きだった」
その手が、杖の柄を握り直した。
親指の付け根には硬い跡があり、前腕には弦を引き続けた者特有の筋が浮いている。
「幼い頃、弦で指を切ったことがある。血が出ても、兄は悔しがって、すぐにもう一度引こうとした」
「父上が、ですか」
「ああ。弓を取り上げたら、ひどく睨まれた」
為朝の声に、かすかな笑いが混じる。
「それで、何と言われたのですか」
「『弓は逃げぬ。手を治してから引け』とな」
遮那王は、その言葉を胸の中で繰り返した。
「父上は、為朝殿のことを案じておられたのですね」
「案じておったのは、儂のほうだ。兄は、そういうことを口にする男ではなかった」
為朝は杖を持ち上げた。笑みはもう消えている。
「そのとき、礼を言ったのですか」
「言わなんだ。明日でよいと思うておった」
遮那王は、何も言えなかった。
「その明日は、来なかったのですか」
「ああ」
為朝は杖を構えた。遮那王も木刀を手に取る。
「もうよい。稽古を始めるぞ」
「はい」
木刀を構える。父の姿はまだ見えない。声も知らない。
それでも、為朝の話に残った一言が、父の知らない一面を連れてきた。
杖が動く。
今度は、その一撃を正面から受け止めなかった。
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