第十二話 大相国、再び
第十二話 大相国、再び
承安三年(一一七三年)の暮れ、清盛入道が再び鞍馬寺を訪れた。
山門の前に供の者が並ぶ。僧たちが迎えに出るなか、遮那王は庭の隅で箒を止めた。
「久しいな、遮那王」
清盛は供を後ろに残し、前に会ったときと同じように歩いてきた。
「大相国様。お久しゅうございます」
「背が伸びたな。寺の暮らしには慣れたか」
「はい。皆によくしていただいております」
「和尚の前では、そう申すしかあるまい」
清盛の笑い声に、近くの僧も顔をほころばせた。清盛の視線が箒へ移る。
「今も掃除をしておるのか」
「はい。勤めの一つです」
「では、手を休ませてしまったな」
「いいえ」
清盛は庭を見渡した。かつて牛若が地面に描いた京の道を眺めていたときと、同じ目をしている。
「今は、何を見ておる」
「山道や、川の流れを」
「道の次は川か」
「道があっても、川を渡れなければ荷は届きませぬ。雨が続けば、渡れぬ日もございます」
「荷を運ぶ者の話か」
「はい。こちらへ米を運ぶ方に教えていただきました」
清盛は笑みを残したまま、遮那王を見た。
「人の話をよく聞くようになったな。そなたは、何を成したい」
すぐには答えられなかった。
京の道を描いた七つの春。薪を運ぶ者の足元。
鞍馬へ来てから聞いた、平家と源氏のこと。目の前にいる清盛の顔。
「人が、明日の食べ物を案じずに済む世にしたいです」
「武士の世になれば、それが叶うと思うか」
「武士が治めても、民の暮らしを見なければ、同じことかと存じます」
供の一人が口を挟みかけた。清盛は片手を上げ、遮那王へ目を戻す。
「続けよ」
遮那王は箒を握り直した。
「武士が世を治めることそのものが、民のためになるとは限りませぬ。
道を整え、物を運べるようにし、飢えた者へ届くようにする。
それを成してこそ、世を治める意味があるのではないでしょうか」
「そなたは、武士の世を望まぬのか」
「望むかどうかは、まだ分かりませぬ。ただ、誰が治めるにせよ、民を忘れてはならぬと思います」
「そうか」
清盛は目を伏せ、短く息を吐いた。
「清盛殿」
「何だ」
「一つ、伺いたいことがございます」
清盛が顔を上げる。
「父上を討ったのは、あなたですか」
周囲の音が消えたように思えた。和尚が息を呑み、供たちの顔が強張る。
清盛だけは目をそらさなかった。
「義朝を追い詰めたのは、わしだ。だが、最後に太刀を下したのは、わしではない」
箒を握る手に力が入る。
「それでも、清盛殿の戦で父上は死んだのですね」
「そうだ」
清盛は否定しなかった。
「許せぬか」
「分かりませぬ。父上を存じませぬゆえ」
「会ったことがないのか」
「覚えておりませぬ」
冷たい風が庭を抜けた。箒の先で枯れ葉が一枚、清盛の足元へ流れていく。
清盛はそれを踏まず、静かに脇へ避けた。
「父上は、どのような方でしたか」
「強い男だった。敵を前にして退かず、味方を率いる力もあった。
わしがあの男の立場なら、同じように戦ったかもしれぬ」
「それでも、戦ったのですね」
「そうせねば、わしの一門が滅んでいた」
勝ったことを誇る声ではなかった。かといって、悔いているとも聞こえない。
遮那王は掃き寄せた葉を見た。風が吹き、せっかくまとめた山が崩れていく。
「戦わねばならぬ時があることは、分かります。
けれど、勝った後に残るものまで考えねば、また次の戦が起きましょう」
清盛の目が遮那王へ向いた。
「戦に勝っても、田畑が荒れ、民が食を失えば、勝った地を治めることはできませぬ。
敵を退けた後、誰が残った人々を支えるのか。
そこまで定めて、ようやく戦を終えたと言えるのではありませんか」
「そなたは、戦うなと申すのか」
「いいえ。戦を避けられぬこともありましょう。ですが、勝つことと治めることは同じではありませぬ」
清盛はしばらく黙っていた。供の者が何か言いかける。その前に、清盛が片手を上げて止めた。
「ならば、そなたはどうする」
「まだ分かりませぬ。私はこの山を出たこともなく、戦の後に人々がどう暮らすのか、見ておりません。書物を読み、人の話を聞いております。それだけで決めつけるわけにはいきませぬ」
清盛は遮那王を見つめ、やがて声を立てて笑った。
「よい。知らぬことを知った顔で語る者より、よほどよい」
近くにいた僧たちの表情が、わずかに和らぐ。
「世を治めるには、人の心だけでも、書だけでも足りぬ。腹を満たす米も、物を運ぶ道も要る」
遮那王は顔を上げた。
「清盛殿も、そうお考えなのですか」
「そうでなければ、武士が世を治める意味はない」
清盛は庭の向こうに連なる山並みを眺めた。
「力で従わせるだけなら、次の力に倒される。わしは平家のために世を変えようとしておる。
だが、その先に何を残すかは、まだ答えが出ぬ」
「清盛殿にも、答えの出ぬことがあるのですね」
「わしを何だと思うておる」
声があまりに大きく、遮那王は思わず笑った。清盛も笑みを返す。
「いずれ、そなた自身が決めよ」
清盛はそう言い、供を従えて山門へ向かった。
「また来よう」
「その折には、父上のことを、もう少し聞かせていただけますか」
「ああ。覚えておることなら話そう」
遮那王は箒を持ったまま、その背を見送った。父の敵であることは変わらない。
けれど、父を知らぬ自分に、父の強さを語ってくれたのもまた、清盛だった。
風が戻り、枯れ葉が一枚、足元を横切った。遮那王はそれを追い、箒を動かした。
*
「遮那王、葉がまた散っておるぞ」
声をかけられて、ようやく箒を動かした。風に押された葉は、掃いたそばから庭の隅へ戻ってくる。
千寿が箒を持って近づいた。
「清盛様は帰ったのか」
「うん」
「父上の話をしたんだろう」
遮那王は箒の先を止めた。
「父上は、強い男だったと言っていた」
「そうか」
「清盛殿は父上を追い詰めた方だ。だからといって、聞いたことをすべて信じるわけにはいかない」
千寿は葉を掃く手を止めた。
「では、何のために聞いたんだ」
「父上を知る人が、父上をどう見ていたのか知りたかった」
風が吹き抜け、二人の間に落ち葉が舞う。千寿が一枚を踏んで止めた。
「褒めていたなら、父上は立派な人だったのか」
「それも、まだ分からない。強いと言ったのは、清盛殿がそう見ていたということだ。
父上がどんな人だったかは、ほかの者の話も聞かねば決められない」
「面倒だな」
「そうだね」
笑いかけて、すぐにやめた。
母は父を知っている。兄たちも、父のことを覚えているかもしれない。
けれど、その話を聞けば、母の顔が曇ることもあるだろう。
「次に清盛殿が来たら、また聞くのか」
「うん。覚えていることを、少しずつ」
「何を聞く?」
遮那王は答えず、散った葉を集めた。
「戦のことだけではなく、父上が何を守ろうとしていたのかを」
「分かるかな」
「聞かねば分からない」
千寿が箒を動かし、葉を遮那王のほうへ寄せる。
「なら、私はこっちを掃く。お前はそっちだ」
「助かる」
二人で葉を集め直した。風がまた吹いても、今度は散る前に千寿が箒で押さえた。
*
その夜の稽古で、遮那王は三度、杖を弾き飛ばされた。
「先を読んでおるのに、足が遅い」
鬼一法眼が杖を拾い、こちらへ放る。
「次は、間に合わせます」
「そう申して、三度だ」
遮那王は黙って杖を受け取った。
相手の肩が動く前に次の手を読んでいるつもりでも、子供の身体は考えに追いつかない。
清盛の言葉が、まだ頭に残っていた。
父の強さも、戦の後に何を残すかも、聞いただけでは分からない。
「心が逸れておるぞ」
法眼の杖が止まった。
「清盛殿から、父の話を聞きました。あなたは父を恨んでおられる。
私は、どちらの話も聞きたいのです」
「人の話を聞いても、真実は分からぬぞ」
「それでも、聞かぬよりはましです」
法眼は答えず、杖を構え直した。
「来い」
遮那王は正面から踏み込まず、相手の間合いを外して柱の陰へ回る。
足元の小石を蹴って視線を誘い、その脇を抜けようとした。
杖が行く手を塞ぐ。
弾かれた腕が痺れた。それでも今度は杖を落とさず、両手で受け止める。
「今のは考えたな」
「ですが、通れませんでした」
「考えたとおりに相手が動くとは限らぬ。読みが外れたとき、次をどうする」
「……退きます」
「退いて、どこへ行く」
すぐには答えられなかった。法眼の杖が、遮那王の肩を軽く打つ。
「まずは、そこまで考えよ」
痛みは小さかった。それでも、杖を持つ手に力が入る。
「もう一度、お願いします」
「よかろう」
今度は、法眼が先に踏み込んだ。
*
次の夜、鬼一法眼は小屋の外に手燭を置いた。
石仏までの道は、木の根が張り、ところどころ小石が浮いている。
「この灯を、消さずに石仏まで運べ」
遮那王は右手に杖を持ち、左手で手燭を受け取った。油皿の火が、かすかに揺れている。
「参ります」
一歩踏み出した途端、杖が横から飛んできた。
反射的に身を引く。手燭をかばうと、火が大きく傾いた。
「火を絶やすな」
暗がりから法眼の声が飛ぶ。
杖を構え直す。次の一撃は低い。受け止めれば手燭が揺れる。
身をかわし、杖を添わせて軌道を外した。
火は消えていない。
先を急ごうとして、足元の根に引っかかった。身体が傾く。
杖を地につき、手燭をかばう。火は残ったが、油が縁まで揺れている。
「急ぐな」
「火を絶やすなと仰せでした」
「火だけを見よとは申しておらぬ」
言葉を返す間もなく、杖がまた迫る。
今度は灯を腕の内へ隠し、身体を半身にした。杖を受けず、横へ流す。
法眼の脇を抜け、石仏まで進んだ。
手燭をそっと置く。火は小さく揺れながらも、消えてはいなかった。
法眼が後ろから来る。
「何を見ておった」
「法眼殿の杖です」
「ほかには」
遮那王は手燭を見下ろす。傾いた油皿。根の張った道。暗がりに慣れ始めた目が、周りを捉えていた。
「足元と、火を」
「運ぶ己は見ておったか」
答えが詰まる。
「灯だけを守ろうとしても、運ぶ者が倒れれば火は消える」
法眼は手燭を取り、火の具合を確かめた。
「守るものを見るなら、それを守る己も見失うな」
言葉を胸に置く。戦場で兵を守ることばかり考えていた。
指揮する者が倒れれば、残された者はどうなるのか。
「もう一度、運びます」
「今宵はよい」
「火は消えませんでした」
「一度できたことを、何度でもできると思うな」
手燭を渡される。今度は火を見つめすぎず、道を確かめ、杖を握る手にも意識を戻した。
「参ります」
小さな火が、掌の先で揺れている。遮那王は足元を見ながら、石仏まで歩いた。
*
部屋へ戻ると、千寿が寝具から顔を出した。
「遅いぞ」
「起きてたの?」
「戸の音で目が覚めた」
遮那王は静かに戸を閉め、着物の上から脇腹を押さえた。
杖を受けたところが、まだじんと痛む。
千寿の目が、そこへ向いた。
「また稽古に行ってたのか」
返事をするまで、少し間が空いた。
「……今は、話せない」
「そうか」
千寿は枕元の布を取る。
「脇を打ったのか。これを当てておけ」
「大したことはないよ」
「明日、痛くて動けなくなっても知らないぞ」
布を受け取り、脇腹に当てる。冷たさに息が漏れた。
「痛いんじゃないか」
「打ったばかりだからね」
千寿はそれ以上聞かず、寝具へ戻りかける。
「どこへ行ってたかは聞かないのか」
「話せないんだろ」
千寿は寝具に潜った。
「でも、戻るのが遅くなるなら、ひと言くらい残しておけ。探しに行くところだった」
「心配をかけたね」
「心配したよ」
短く言って、千寿は壁のほうを向いた。
「ごめん」
「謝るな。次は気をつけろ」
遮那王も横になる。隣から寝具の端が寄せられた。
「千寿」
「何だよ」
「待っていてくれて、ありがとう」
「待ってたわけじゃない。目が覚めただけだ」
寄せられた寝具の端を、遮那王は手元へ引いた。
*
朝の勤めを終え、遮那王は水桶へ手を伸ばした。
持ち上げた途端、脇腹に痛みが走る。桶を下ろすより先に、千寿が反対側の持ち手を取った。
「今日は私が持つ」
「ひとつくらい運べるよ」
「なら、こっちは私が持つ。二人で運べばよいだろう」
千寿が歩き出す。遮那王も桶を持ち直し、歩幅を合わせた。
「昨日、清盛様が父上を強いと言っていた」
「うん」
「父上を知る人の口から聞いたのは、初めてだった」
桶の水が揺れる。こぼさぬよう、二人は歩みを緩めた。
「嬉しかったのか」
「……嬉しいと思う」
父の顔は覚えていない。声も、手の温かさも、何ひとつ。
それでも、父を知る人の言葉を聞けば、遠くにいた人が少しだけ近くなる気がした。
「清盛様は、父上と戦ったんだろう。どんな方だったか、また話してくれるかな」
「聞けばよいさ」
「父上の敵なのに?」
「敵だからこそ、見ていた父上の姿があるんじゃないか」
遮那王は千寿を見た。千寿は桶を持ったまま、前を向いている。
「それに、お前は人の話を聞いてから決めるんだろう」
「そうだね」
「なら、聞けばよい」
桶を厨へ運び入れる。千寿が手を離すと、遮那王の脇腹がまた痛んだ。
顔をしかめたのを見て、千寿が呆れたように息を吐く。
「ほら。今日は無理するな」
「分かった」
「本当に?」
「今日は、ね」
「明日も痛かったら、明日もだ」
遮那王は笑った。厨の隅へ桶を置くと、千寿が次の桶に手をかけた。
何も言われる前に、反対側の持ち手を取る。




