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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第十一話 天狗の杖

第十一話 天狗の杖


 足の布が取れた日、遮那王は僧について薪小屋へ行った。


 細い薪を選んで腕に抱える。僧が先に厨へ戻ると、遮那王も続こうとして、

 小屋の板に残った傷へ目を留めた。


 刃が当たったところだ。


 指でなぞると、木の割れ目が爪に引っかかった。


「足は、もうよいのか」


 声に肩が跳ねた。


 小屋の裏手、木陰に赤い面が立っていた。


「鬼一法眼殿」


「先に薪を置いてこい。落とすぞ」


 言われたとおり厨へ運び込み、すぐに戻る。赤い面は、まだ同じ場所にあった。


「お助けいただき、ありがとうございました。和尚様も、お礼を申したいと――」


「呼ぶな」


 遮那王は足を止めた。


「人目につくのは好かぬ。儂が来たことも、触れ回るな」


「……承知しました」


「それで、足はどうだ」


「長く歩くと、少し痛みます」


「なら、長く歩くな」


 杖を頼りに立つ相手へ、同じことを言い返したくなった。

 けれど、腰の袋に目が留まり、別のことを尋ねる。


「巻いてくださった布を、お返ししたいのです。母上が洗ってくださいました」


「母が来たのか」


「はい。あなたにも礼を申し上げるようにと」


 面の奥で、息がひとつ漏れた。


「……心配をかけたな」


「怪我は軽いと、文に書いたのですが」


「己の子が斬られかけたと聞いて、文だけで安心できるものか」


 母に抱き締められたとき、背に回された手が震えていた。

 無事だと分かっているはずなのに、なかなか離してくれなかった。


「布を持ってきます。お待ちいただけますか」


「ここにおる」


     *


 部屋では、千寿が字を書いていた。


「もう手伝いは済んだのか?」


「うん。少し、布を返してくる」


「助けてくれた人に?」


「そう」


 千寿は筆を置いた。


「私からも礼を伝えてくれ」


「伝えるよ」


「足、気をつけろよ」


 畳んだ布を持って小屋へ戻ると、赤い面の男は木の根元に腰を下ろしていた。

 杖を膝に渡し、こちらを見る。


「お返しします」


「捨ててよかったのだぞ」


「母上が、これで血を止めていただいたのだからと」


 大きな手が伸び、布を受け取った。


「友からも礼を伝えてほしいと頼まれました。私を捜しに来てくれた、千寿です」


「あのとき呼んでおった童(わらべ)か」


「はい」


 男は布を袋へしまった。


「よい友だな」


「……はい」


「呼ばれたら、返事をしてやれ。捜す方は気が気でない」


 うなずくと、男は杖を立てて腰を上げた。


「源氏の子とて、身体は同じだ。傷を甘く見るな」


 遮那王は顔を上げた。


「私が源氏の子だと、なぜ」


「あの者が、御曹司と呼んでおった」


「お聞きになっていたのですか」


「薪の崩れる音がした。近寄れば、お前が追われておった」


 小屋の壁に残った傷を見る。あの音が届かなければ、この人は来なかった。


「源氏のお方を、ご存じなのですか」


「幾人かな」


「父上にも、お会いになったことは」


 男の動きが止まった。


「誰の子だ」


 問い返され、赤い面を見つめる。


 母の使いだと偽った男も、こちらの名を聞いた。名乗った途端、「ああ、お前か」と言った。


 けれど、この人は刃を止め、血のにじむ足に布を巻いてくれた。


「申したくなければ、よい」


 男は杖をつき、山道へ向き直った。


「義朝です」


 足が止まる。


「源義朝。私の父です」


 杖の柄が、ぎしりと鳴った。男は振り返らない。握る手に、太い筋が浮いている。


「……義朝の」


 低い声だった。


「父上を、ご存じなのですね」


「知っておる」


 答えても、杖を握る手は緩まなかった。


「そうか。貴様が……」


 言葉はそこで途切れた。赤い面が、こちらを見ていた。


     *


 杖を握る手が、まだ固い。


 遮那王は一歩退いた。男はそれを見て、杖を脇へ引く。


「……怖がらせたか」


「父上に、何か」


 面の奥から短い息が漏れた。


「ある」


 それきり、男は口を閉ざした。


 戻る道の先には厨がある。声を上げれば僧たちが来るだろう。

 だが、目の前の男が自分を傷つけようとしているとは思えなかった。

 杖を握る指には、別の怒りがこもっている。


「お前に手を出す気はない」


「父上を恨んでおられるのですか」


「ああ」


 答えは早かった。


「父上は、あなたに何をなさったのですか」


「それを聞いて、どうする」


「分かりません」


 目をそらさずに答えた。


「父上を覚えておりませぬ。あなたの話を聞いても、何が真であるか、私には確かめられない。

 それでも、父上を知る方の話を聞きたいのです」


 男は山の下へ顔を向けた。杖の先が土に沈む。


「儂も、あやつに聞きたいことがあった」


「お会いにはならなかったのですか」


「会えなんだ」


 声がかすれた。


「何を考えておったのか。なぜ、ああせねばならなんだのか……」


 言葉が途切れる。続きを促す気にはなれなかった。聞けぬまま残った問いなら、自分にもある。


「死んでしまえば、聞くこともできぬ」


「……はい」


 ほかに返す言葉はなかった。


 男が杖を持ち直す。


「今日は帰れ。足を痛めたまま立ち話をするな」


 遮那王はうなずき、帰ろうとした。足首が突っ張り、歩みが止まる。


 薪小屋を振り返ると、散らばった薪も、地面に落ちた刃も、あのときのままだった。


「あの者は母上の使いだと申しました」


「そうか」


「名も明かさず、人目のないところへ連れていこうとした。次も同じ手を使うとは限りません」


「つまり、己の身を守る術を習いたいと申すのだな」


「はい」


「薪を使ったではないか」


「それでも、最後には裾を踏まれました。

 考えがあっても、身体が動かなければ間に合わぬことがあります。次は、自分で逃げたいのです」


 足首をつかまれた感触が戻る。息が浅くなり、遮那王はゆっくり吸い込んだ。


「考えがあっても、身体が動かなければ間に合わないことがあります。

 逃げる隙をつくる術を、教えていただきたいのです」


 男はしばらく黙っていた。杖を持つ手に、また力が入る。


「立派なものを習いたいわけではないのだな」


「立派とは、どのようなものですか」


「己の力を誇ることよ」


「それは、私の望むところではありませぬ」


「ならば、まず身を守れ。人を斬ることを覚えるのは、その後でよい」


「私は、誰かを斬りたいのではありませぬ」


「分かっておる」


 男は杖を地についた。


「寺の勤めを疎かにせぬこと。儂のことを人に話さぬこと」


「承知しました」


「足が治ったら、夜の勤めの後に小屋の裏へ来い。山の中を捜し回るな。儂から行く」


 深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼は、続けられてからにしろ」


 男は背を向けた。木々の間へ去りかけ、ふと足を止める。


「父のことを、また聞きたいか」


「はい」


「ならば、そのうち話そう」


 返事をする前に、赤い面は木陰へ消えた。


     *


 小屋を出ると、千寿が廊の端で待っていた。


「……いた」


 駆け寄ってきたものの、すぐには手を伸ばさなかった。足首の布と、こちらの顔を見比べている。


「待たせてごめん」


「それはいい。歩けるか」


「少しなら」


 肩を貸してくれた。何をしていたのか、尋ねたのは歩き出してからだった。


「誰かと話してたのか」


「うん」


「どういう人?」


 約束を思い出し、口をつぐむ。


「話しにくいことか」


「ごめん。言えない」


 千寿はしばらく黙っていたが、それ以上は聞かなかった。廊の板が、二人の足音を返す。


「足、まだ痛むんだろ。ゆっくり歩け」


「もう大丈夫だよ」


「その返事は信用できない」


 歩調が、少し落ちた。


     *


 足首の腫れが引くまで、山へ行くのは止められた。


 朝の掃除に出ると、千寿は短い箒を手に取り、長いほうを差し出した。


「そっちのほうが、足を動かさずに掃ける」


「そこまで悪くないよ」


「和尚様の言いつけだ。今日は休めって」


 箒を受け取る。 庭の落ち葉を掃き寄せていると、端に一枚だけ残った。

 身を乗り出す前に、千寿がさっと掃き集める。


「そこまでしなくても」


「治ったら、自分で拾えばいい」


 千寿は箒を動かしながら、こちらを見なかった。


 言い返す言葉はあった。けれど、あの日、呼んでも返事がなかった千寿の顔を思い出し、口を閉じた。


 傷が癒えるまで、幾日かかった。そのあいだ、山道に赤い面が現れることはなかった。


     *


 夜の勤めを終え、皆が寝静まった頃、小屋の裏へ向かった。


 鬼一法眼は木の根に腰を下ろしていた。赤い面はつけたままだ。杖を膝に渡し、こちらを見る。


「足は」


「もう痛みませぬ」


「なら、歩いてみよ」


 一歩、二歩。三歩目で杖の先が足元を払った。

 避けたつもりが身体は遅れ、膝が土につく。倒れる前に襟をつかまれた。


「頭は先へ行く。身体がついて来ぬな」


「分かっております」


「分かっていても、動けねば同じことよ」


 襟を放され、立ち直る。法眼は杖を肩に担いだ。


「刃を持てば逃げられると思うたか」


「そうではありません。ただ、次に襲われたとき、何もできぬままではいたくないのです」


「なら、まず己の身を守れ」


 法眼は一歩近づき、間を置かず手首をつかんだ。反射的に引くと、指がさらに食い込む。


「引くな。力でほどこうとすれば、相手の力に負ける」


 つかむ指が、わずかに緩む。親指の付け根へ腕を返すと、手が抜けた。


 間を置かず、もう一度つかまれる。今度は引く前に、相手の肩が動いた。

 半歩踏み込み、腕を返す。指がほどける。


「肩が先に動きました」


「よく見ておったな。だが、手だけ見ておれば足元をすくわれる」


 法眼の杖が足元を払う。身を引くと、今度は袖をつかまれた。

 つかまれる寸前に身体を低くし、脇を抜ける。


 木の根に肩がぶつかり、息が漏れた。


「今のは、逃げられました」


「一度な」


 褒めるでも叱るでもない声だった。


「何度でもできるよう、身に覚えさせよ。考えている間に倒れれば、考えたことも残らぬ」


 息を整えていると、法眼は傍らの木杖を拾い、こちらへ差し出した。


「明日から、これを使え」


 両手で受ける。見た目より重く、腕が下がった。


「刀の代わりにございますか」


「まだ持ち方も知らぬ者が、刃を欲しがるでない」


「欲しがってはおりませぬ」


「なら、まず落とすな」


 握り直すと、木肌が掌に食い込んだ。


「明日も同じ刻に来い」


「はい」


「今度は、その杖を落とすなよ」


 掌の痛みごと、木の重さを覚えておく。


     *


 次の稽古は、二日後だった。


 木杖を構えると、法眼はしばらく黙って見ていた。それから、近づいてくる。


「握りが固い」


「落としてはならぬと仰せでした」


「落とさぬのと、動けぬほど握るのは違う」


 力を抜く。杖が掌の中でわずかにずれた。


「そのまま、儂の肩へ打ち込め」


 振り上げた杖は、肩へ届く前に手首を押さえられた。木杖が地へ落ちる。


「力任せに振れば、読まれる」


「では、どこを見ればよいのです」


「相手の目だけを見るな。目は、こちらを欺くこともある」


 法眼は半歩退き、両手を下ろした。


「もう一度来い」


 肩の動きを追う。だが、今度は足元を払われた。身体が傾き、杖をついてどうにか踏みとどまる。


「目が上ばかり向いておる」


「肩を見よと仰せでした」


「肩だけ見よとは申しておらぬ」


 返す言葉が見つからない。法眼は落ちた杖を拾い、手渡した。


「相手の全身を見よ。肩も腰も足も動く。どこか一つに心を奪われれば、そこを突かれる」


 握り直したところへ、法眼が踏み込んだ。腕だけでなく足も見る。

 杖を横へ出すと、木と木がぶつかり、痺れが腕を駆け上がった。


 受け止めようと踏ん張った瞬間、杖を押し流される。


「正面から受けるな」


「では、避けるだけでよいのですか」


「避けた先に、何がある」


 答えられず、地面についた手を払って立ち上がった。


 法眼が杖の先で小屋の脇を示す。


「追い詰められて、そこへ逃げ込めば終わりだ。相手から離れるだけでは、逃げたことにならぬ」


 先ほど足を払われたとき、身体は小屋の壁へ向かっていた。

 あのまま倒れていれば、動けなくなっていたかもしれない。


「己の足で、逃げ道を選べ」


 杖が再び迫る。受け止めず、軌道をずらして半歩、脇へ出た。法眼の腕が伸びる。

 身を低くして、その脇をすり抜ける。


 背後で杖が空を切った。


「今のは、足が先に出たな」


「考えるより前に、動いておりました」


「考えるなとは申しておらぬ。考えたなら、身体を動かせ」


 掌がじんじん痛む。握る手を緩めると、法眼がそれを見た。


「今宵はここまでだ」


「もう少し、お願いいたします」


「その手で続けても、覚えるのは痛みだけよ」


 杖を下ろす。悔しさは残ったが、先ほどの一歩は覚えている。

 あの夜、薪を抱えたまま逃げ場を探していたときとは違う。


「次も参ります」


「来るなら、足音を立てるな」


 法眼は木陰へ姿を消した。


 小屋の裏に一人残り、杖を構え直す。枝の軌道を思い返し、半歩、脇へ出た。


 今度は転ばなかった。


     *


 稽古を重ねるうち、杖を握る手から豆が消えた。

 新しい豆ができては潰れ、掌は少しずつ厚くなっていく。


 その夜、法眼は杖を構えたまま、しばらく動かなかった。


「来い」


 正面から踏み込まず、杖の先と法眼の足元をうかがう。右足がわずかに開いた。


 そこへ杖を差し入れる。法眼の杖が打ち下ろされる前に、身を横へ逃がした。


 肩をかすめ、背後へ抜ける。


「今のは、よかった」


 短い言葉に、息が少し緩んだ。


「もう一度、お願いいたします」


「その前に、袖を見せよ」


 袖口が裂けていた。いつ切れたのか、気づいていなかった。

 法眼は近くの布を取ろうとして、その手を止める。


 杖を握る腕の袖がずれていた。肘から前腕へ、縄を撚ったような筋が走っている。

 もう片方の腕より、わずかに長く見えた。指の付け根には、弦に擦れたような硬い跡がいくつもある。


 法眼は気づかれたと知ると、袖を引き下ろした。


「古傷ですか」


「昔のことだ」


 それ以上は語らず、布を巻く手を止めない。


 袖の奥から血の匂いがした。


「法眼殿にも、手当てが要ります」


「かすり傷だ」


「先ほどから、杖を握る手が震えております」


 返事はなかった。血のにじんだ袖を引き、隠そうとする。


「私が怪我をしたとき、あなたは手当てをしてくださいました」


「お前と儂では違う」


「何が違うのです」


 法眼は答えず、杖を地面へ立てた。


 遮那王は布と水を取りに走った。戻ると、法眼はまだ同じところにいた。


「余計なことを覚えおって」


 そう言いながらも、袖をまくる。肘に古い傷があった。

 布を当てると、筋張った腕がわずかに強張る。


「痛みますか」


「稽古を止めるほどではない」


 結び終えた布を見下ろし、法眼は杖を手に取った。


「今夜は終いだ」


 遮那王は頷いた。腕の筋と指の硬い跡が、目に残っていた。だが、何の傷かは尋ねなかった。


     *


 別の夜、法眼は小さな手燭(てしょく)を持ってきた。


「これを石仏(せきぶつ)の前まで運べ」


「火を絶やさずに、ですか」


「そうだ」


 手燭を受け取る。油皿の火が、かすかに揺れた。


 歩き出した途端、杖が横から迫る。身を引いて手燭をかばうと、火が大きく傾いた。


「火が消えるぞ」


 暗がりから法眼の声が飛ぶ。


 次の一撃は低い。杖を受けず、軌道をそらす。

 急いで石仏へ向かうと、足元の根に引っかかった。身体が傾き、手燭の油が縁まで揺れる。


 火は消えなかった。


「急ぐな」


「早く運べと仰せでは」


「火を絶やすな、と申した」


 今度は手燭を腕の内へ隠し、道を確かめながら進む。法眼の杖を脇へ流し、その足元を抜けた。


 石仏の前に手燭を置く。小さな火が、揺れながらも残っていた。


「何を見ておった」


「法眼殿の杖です」


「ほかには」


 足元の根。傾いた油皿。火を持つ自分の手。どれも見ていたつもりだった。


「己の足を忘れておったな」


 法眼は手燭の火を確かめた。


「守るものばかり見て、己を見失うな」


 すぐには返事ができなかった。


 手燭を受け取り、火を見つめすぎぬようにして戻る。今度は道の先も、足元も見失わなかった。


     *


 三年目の秋、夜の勤めを終えて厨へ水桶を戻す途中だった。


 廊の奥で、戸がかすかに鳴った。


 寺の者なら、こんな音を立てて戸を閉めない。


 桶を下ろす。水面が揺れ、月明かりが崩れた。


 戸の陰から男が現れる。僧の衣をまとっていたが、腰のあたりが不自然に膨らんでいる。


 男は何も言わず、衣の下から刀を抜いた。


 桶を蹴り倒す。水が床を走り、男の足が止まった。その隙に廊の端へ駆ける。


 柱の脇に、稽古に使う木杖が立てかけてあった。手に取ると、男が追いつく。


 狭い渡り廊下では、刀を横に振れない。刃が頭上から落ちる。

 杖を正面で受けず、柄を横へ払った。刀が柱に当たり、鈍い音を立てる。


 手に痺れが走った。男は間を置かず、刀を引き戻す。


 背後は庭へ下りる石段だった。半歩だけ退き、男の足が板の端にかかるのを待つ。

 刃が振り下ろされた瞬間、杖で手元を払った。


 刀が石段を転がる。


 男が素手で腕をつかみに来た。身をかわし、肩が柱へぶつかったところで距離を取る。


「曲者だ!」


 声を張ると、奥から僧たちの返事がした。男は刀を拾わず、庭へ飛び下りる。

 足音が闇へ消えていった。


 追わなかった。杖を握る手が震え、木の先は裂けていた。


 駆けつけた僧たちが、床の水と刀を見て顔を強張らせる。


「怪我はないか」


「腕を少し切っただけです」


 浅い傷だった。刀は僧たちが預かり、門の見張りを増やすことになった。


 誰が男を寄越したのか、遮那王には分からない。母へ知らせる文は、和尚が書くと言った。


 その夜は、夜明けまで僧のそばを離れなかった。


     *


 その年の冬、法眼との稽古を終えて寺へ戻る山道で、男が待ち受けていた。


 僧の姿ではない。腰には太刀(たち)を帯びている。


「その命、ここで絶たせてもらう」


 男は太刀を抜いた。


 道は狭く、片側は斜面だ。背を向けて走れば追いつかれる。


「どなたの命で」


「知る必要はない」


 太刀が来る。杖を刃へぶつけず、手元を狙って軌道をそらした。腕に衝撃が走り、足が後ろへ滑る。


 男は強かった。前の襲撃者のように、杖を打ち払っただけでは間が空かない。刃が返り、袖を裂いた。


 道の先に、岩壁に沿った細い石段が見える。幅は人ひとり分。太刀を大きく振るうには狭い。


 そこへ誘うように、半歩下がる。


 男が追ってきた。横薙ぎの刃が岩に当たり、火花が散る。その瞬間、杖を手首へ打ちつけた。


 太刀が石段を転がり落ちる。


 男は刀を追わず、腕をつかみに来た。避けきれず、肩をつかまれる。

 杖の先を相手の膝裏へ差し込み、体重をかけた。


 男の片膝が石段につく。


 押さえ込む力はない。杖を引き、声を張った。


「曲者だ!」


 寺の方から松明(たいまつ)の明かりが揺れた。男は舌打ちし、斜面へ飛び下りる。

 枝の折れる音が遠ざかっていった。


 追う者はいなかった。


 袖の裂け目から血がにじんでいる。浅い傷だが、肩を動かすと痛んだ。


「また襲われたのか」


 追いついた僧が、松明を掲げる。


「はい」


「今度は顔を見たか」


「見ました」


 男の顔を思い返す。見覚えはない。名も聞けなかった。


 寺へ戻ると、門の見張りが増やされた。和尚は何も問わず、傷の手当てをするよう僧に命じた。


 翌朝、清盛が寺を訪れるとの知らせが届いた。


 遮那王は、巻かれた布の上から袖を押さえた。三年のあいだ、稽古を重ね、二度の襲撃を切り抜けた。

 そのことを清盛が知っているのか、何を見に来るのかは、まだ分からなかった。





「ここまでお読みいただきありがとうございます!

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