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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第十話 山の客

第十話 山の客


 清盛から賜った紙の包みを開いたのは、鞍馬寺に入って三日目のことだった。


「こんなに?」


 千寿が包みをのぞき込む。遮那王もしばらく言葉が出なかった。

 京にいた頃は、字の練習に使った紙の裏にも書き、余白があれば小さく続きを詰めていた。


「大相国(だいしょうこく)様へ、礼の文を出さねばな」


 和尚に言われ、遮那王はうなずいた。


 一枚を取り分けると、千寿が横から顔を寄せる。


「何と書く?」


「紙を賜ったお礼を」


「それは分かっている」


「……まだ、考えているところだよ」


 千寿は笑い、墨を磨り始めた。


     *


 その日の夕方、厨(くりや)で使った桶を戻しに出ると、軒下に男が立っていた。


 旅の途中らしい。衣の裾には泥が乾いてこびりつき、手には杖を持っている。


「厨へ御用ですか」


 声をかけると、男はこちらを向いた。


「水をいただきたくてな」


「少しお待ちください」


 空の桶を軒柱のそばに置き、厨へ椀を取りに戻った。

 火のそばにいた僧へ客のことを伝えると、水を汲んで渡すよう言われた。


 椀を持って戻ると、男は軒下で待っていた。受け取った水を一息に飲み干し、椀をこちらへ差し出す。


「助かった。お前、名は?」


「遮那王と申します」


「ああ、お前か」


 椀を受け取る手が止まった。


「私を、ご存じなのですか」


「京から言づてを預かっている」


 遮那王は椀を受け取ったが、男の顔から目を離さなかった。


「どなたからでしょう」


「母御からだ」


 胸が跳ねた。


「母上が?」


「ここでは話しにくい。少し来い」


 男は厨の裏へ歩き出した。


 遮那王は、その背を見送る。母からの便りは和尚を通じて届くことが多かった。

 常盤が暮らす長成(ながなり)の屋敷から使いが来るときも、まず寺の者に名を告げるはずだ。

 知らぬ男が突然現れ、母の名を出して自分だけを呼び出す。どうにも腑に落ちなかった。


「和尚様をお呼びします」


「母御は、お前だけに伝えよと申された」


「では、お名を伺ってもよろしいですか」


 男が振り返った。


「私から母上へ、どなたが届けてくださったかお伝えしたいので」


「……名など、どうでもよかろう」


 遮那王は、椀を手にしたまま厨の戸口へ向き直った。


「こちらでお待ちください」


 戻ろうとしたところで、腕をつかまれた。


 椀が石に落ち、乾いた音を立てて割れる。


「騒ぐな」


 男の袖の下から刃がのぞいた。遮那王は息を止めた。

 男は腕をねじり上げ、厨から見えない方へ引いていく。


 声を出せば、僧が来る。来れば、この刃を向けられる。


「歩け」


 背中を押され、足を踏み出した。振りほどこうとすれば、刃が先に届く。

 軒柱のそばに置いた桶が目に入った。引かれる拍子に手を伸ばし、取っ手をつかむ。


「それを離せ」


 男が腕を引いた。


 つまずくふりをして膝を折り、桶を足元へ落とした。男の足に当たり、手がわずかに緩む。

 その隙に腕を抜き、小屋の角へ走った。


「誰か!」


 喉から出た声は、思ったほど大きくない。


 背後で桶が蹴り飛ばされた。追ってくる足音が近づく。

 もう一度叫ぼうとしたとき、男が厨へ通じる道に回り込んだ。


「母に会わせてやろうと思ったがな」


 抜き身を下げ、ゆっくり近づいてくる。


 小屋に背を寄せた。戸口までは遠い。男の脇を抜けなければ戻れない。


「母上の使いなら、和尚様を通すはずです」


 声が震えた。


 男は答えなかった。


 遮那王は積まれた薪へ手をかけた。細いものでは足りない。

 太い一本を両手で引き抜くと、重さに腕が沈んだ。


 男が足を止め、刃を持ち直す。


「それで、何ができる」


 返事をせず、小屋の角へ下がる。退けば退くほど、男は間を詰めてくる。

 厨へ戻る道は、まだ男の背後にあった。


 薪を握る手が滑った。腕をつかまれたところが痛む。


 刃を見てはいけない。そう思っても、目が離れなかった。


 男が踏み込む。


 薪を振るうかわりに、両手で突き出した。男は身をひねって避け、袖をつかもうとする。

 その手が届く前に、小屋の角を回る。


「待て!」


 背後で刃が板を打った。


 小屋の裏は狭く、薪が積まれていた。その先は下り道へ続いている。

 抱えていた薪を地面へ放り、積み重なった木の端に手をかけた。


 下の薪を抜けば、上に載せたものまで崩れる。


 追ってきた男が角から顔を出す。


 抱えていた一本を投げつけると、男が腕で払った。その隙に、積んであった薪を両手で引く。


 動かない。


 指にささくれが刺さった。歯を食いしばり、身体ごと後ろへ引く。


 一本が抜け、上に載っていた薪が転がり落ちた。


「ちっ!」


 男が飛び退く。その足へ、続けて落ちた薪が当たった。膝が折れる。

 遮那王は壁にしがみつき、崩れた薪をまたいだ。


 今なら戻れる。


 厨の戸口へ駆けようとして、衣が引かれた。男が裾を踏んでいる。


「さすがは、源氏の御曹司(おんぞうし)か」


 片膝をついたまま、男がこちらを見上げていた。


 衣を引いても、足は離れない。地面に落ちた刃を拾い上げた男が、もう片方の手で足首をつかむ。


「だが、ここまでだ」


 手を蹴った。


 一度。もう一度。


 爪が足へ食い込む。千寿が呼ぶ声を聞いた気がして、厨の方へ顔を向けた。


 刃が上がる。


「そこな者」


 山道から、低い声が響いた。


 男が振り返るより早く、長い杖がその腕を打つ。刃が土へ落ちた。


「童(わらべ)相手に、何と情けない」


 足首から手が離れる。


 男は腕を押さえて立ち上がりかけたが、目の前の姿を見た途端、後ろへ退いた。


 赤い面が、こちらを向いている。


 その下の肩も胸も、見たことがないほど大きい。手にした杖は、杖というより木の幹に近かった。


「……何者だ」


「刃を捨てて去るか。まだ続けるか」


 男は答えず、腰の後ろへ手を回した。


 遮那王が声を上げるより早く、巨漢の杖が男の胸を突いた。


 息の詰まる音がした。男は背中から薪へ倒れ込み、隠していた小刀を取り落とす。

 起きようともがいたところへ、杖の先が突きつけられた。


「次は、手加減せぬぞ」


 男は巨漢と遮那王を交互に見た。


 やがて薪の山から這い出す。小刀には手を伸ばさず、足を引きずりながら下り道へ逃げていった。


 巨漢は追わなかった。


「童。怪我は」


 返事をしようとしたが、息ばかりが漏れた。足首には、つかまれた跡が赤く残っている。


「立てるか」


「……はい」


 小屋から手を離した途端、膝が崩れた。


 大きな手が腕を支える。その手を振り払おうとしてしまうと、巨漢はすぐに離れた。


「ならば、これにつかまれ」


 杖を差し出される。両手を添えても、指が回りきらない。


「申し訳、ありません」


「よい」


 赤い面の下で、男の息が荒く聞こえた。巨漢は小屋の柱に片手をつき、杖を握り直す。

 遮那王が見上げると、顔をそむけた。


「童、名は」


「牛若……」


 母に呼ばれる名が、先に出た。


 唇を湿らせ、言い直す。


「遮那王と申します」


 赤い面が、ゆっくりこちらへ戻った。


「……遮那王か」


 巨漢は、その名を口の中でもう一度繰り返した。

 助けてくれた相手なのに、顔が見えないことが気にかかった。


「お助けいただき、ありがとうございます」


「礼は、立てるようになってからでよい」


「お怪我をなさったのですか」


「お前が気にすることではない」


「ですが……」


「童。己の足を見よ」


 言われて足首へ目を落とす。爪が食い込んだところから、血がにじんでいた。急に痛みが込み上げる。


 顔をしかめると、巨漢は腰の袋へ手を入れ、布を取り出した。


「座れ」


「あなたも、お苦しそうです」


「儂は座ると、立つのが面倒でな」


 冗談なのか、本当なのか分からなかった。


 小屋の壁を背に腰を下ろす。巨漢は片膝をつき、足首を確かめる。


「骨は痛むか」


「いえ。つかまれたところが」


「歩けそうだな」


 布を巻かれる間、地面に落ちた刃を見ていた。


 あれが足へ振り下ろされていたら。


 膝を抱えようとして、巨漢の手に触れてしまう。


「動くな。結べぬ」


「……申し訳ありません」


 布を結び終えても、巨漢はすぐには立たなかった。


「初めてか」


 顔を上げる。


「殺されかけたのは」


 答えようとして、喉が詰まった。


 前世では、幾度も戦場にいた。人が斬られるところも、命が消えていくところも見てきた。

 それでも、自分へ向けられた刃の冷たさは、記憶の中のどの刃とも違った。

 足首をつかんだ手の強さが、まだ残っている。


「……はい」


 巨漢はうなずき、小刀を拾った。もう一方の刃も取り上げ、遮那王から離れたところへ置く。


「薪を崩したのは、よかった」


「逃げられませんでした」


「最後につかまったからと、それまでしたことまで捨てるな」


 ささくれの刺さった指を見た。


「次は、どうすれば」


 言いかけて、口を閉じる。


 また来るのだろうか。今度は千寿が、水を渡しに出ていたら。


「どうした」


「あの者は、私を捜しておりました」


「そうであろうな」


「寺の者まで……」


 小屋の向こうで、名を呼ぶ声がした。


「遮那王!」


 千寿だった。


 返事をしようとした肩に、巨漢の手が触れる。


「迎えが来たか。ならば、儂は行く」


「お待ちください。お名前を」


 巨漢は立ち上がり、しばらく杖へ体重を預けた。


「鬼一法眼(きいちほうげん)」


「鬼一法眼殿……」


「天狗でもよい。好きに呼べ」


 赤い面が傾く。聞き返す前に、また千寿の声が響いた。


「返事をしてくれ!」


 今度は泣きそうな声だった。


「ここだよ!」


 壁に手をつき、立ち上がる。


「小屋の裏にいる!」


 駆けてくる足音がした。


 鬼一法眼は山道へ向かった。大きな背が木々の間へ入っていく。


「ありがとうございました!」


 声をかけると、片手だけが上がった。


 千寿が小屋の角から飛び出してきた。


「何をして――」


 散らばった薪を見て足が止まる。遮那王の足首へ目を落とし、今度は顔を見た。


「どうしたんだ、その足」


「人に、襲われた」


「人って……誰だ」


「知らない人だよ」


 何か言おうとして、千寿は言葉を失った。


 後ろから厨の僧も来る。地面の刃を示すと、僧の顔色が変わった。


「和尚様を呼んでまいれ」


 千寿はうなずいたが、遮那王の袖をつかんだまま動かない。


「千寿」


「……お前、先に戻っていると思ったんだ」


「うん」


「部屋にもいないし、厨へ来たら、桶が転がっていて……」


 袖を握る手に力がこもる。


「呼んでも、返事がないから」


 その手へ、自分の手を重ねた。


「ごめん」


「謝るな」


 千寿が顔を上げた。怒っているのかと思ったが、目が赤かった。


「返事をしてくれれば、それでいい」


 うなずく。


 千寿が袖を離したのは、僧に支えられてからだった。


     *


「母君の使いと申したのだな」


 和尚の問いに、遮那王はうなずいた。


 足首に巻かれていた布は外され、傷を洗った僧が新しい布を当てている。

 千寿は戸口に座ったまま、こちらを見ていた。


「名を聞いたら、答えてくれませんでした。それで、和尚様をお呼びしようとしたら……」


「腕をつかまれたか」


「はい」


 和尚は袖を上げ、腕に残った指の跡を確かめた。触れかけた手を止め、袖を戻す。


「お前が連れていかれず、よかった」


「ですが、厨のすぐそばで」


「皆、夕餉の支度にかかっておった。私も気づかなんだ」


 傷を洗った僧が言った。


「椀の割れる音は聞こえました。誰かが落としたものと思い……」


「私が水をお渡ししたんです」


「それは聞いた。水を渡したことは、悪くない」


 僧は遮那王の足へ布を巻きながら続けた。


「悪いのは、それにつけ込んだ者だ」


 男が水を飲む顔を思い出す。あのとき、もう刃を持っていた。

 自分の名を聞くまで、何も言わずに待っていた。


「助けた者は、鬼一法眼と名乗ったか」


 和尚に尋ねられ、顔を上げる。


「はい。山道の方から来られました」


「どちらへ去った」


「小屋の裏の道へ。……お苦しそうでした」


 和尚と僧が目を合わせた。


「ご存じなのですか」


「その名の者には、会ったことがない」


「怪我をなさっているのかもしれません。

 私の手当てをしてくださいましたが、立つときも杖を頼りにしておられました」


 和尚は、外された布を見た。


「助けていただいた礼もせねばな。まずは、お前が休みなさい」


 僧が結び目を確かめ、足から手を離した。和尚が立つと、戸口の千寿も慌てて立ち上がる。


「ここにいてやっておくれ」


「はい」


 戸が閉まる前に、和尚を呼び止めた。


「母上へは……」


 和尚が振り返る。


「知らせずにはおけぬよ」


「心配なさいます」


「そうだろうな」


 膝へ目を落とした。


 会いに来てくれるたび、母は元気かと尋ねる。うなずけば、それだけで笑ってくれた。


「私から、文を書いてもよろしいですか」


「構わぬ。ただし、今日は休むのだぞ」


「はい」


     *


 夕餉は、千寿が二人分運んできた。


「そこ、空けて」


 脇へ寄ると、千寿は膳を置いた。汁が少しこぼれている。


「運ぶの、難しいな」


「二つ一度に持つからだよ」


「お前は持っているだろう」


「慣れているから」


「では、私も慣れる」


 千寿はこぼれた汁を拭き、自分の膳を引き寄せた。


 椀を取る。温かいはずなのに、指が冷えていた。


 椀が落ちた音が、耳の中で鳴った。


「……遮那王」


 千寿がこちらを見ていた。


「熱いのか?」


「違う」


「なら、置けよ」


 椀を膳へ戻す。底が触れて、小さな音がした。


 千寿はそれを見届けると、飯を口へ運んだ。何も尋ねない。飲み込んでから、汁をすすっている。


 こちらも飯を取った。


「千寿」


「ん?」


「私を捜していたとき、あの者に会わなくてよかった」


 千寿の箸が止まる。


「お前が、水を渡しに出ていたらと思うと……」


「私は何ともない」


「うん。分かっている」


 それでも言わずにはいられなかった。


 千寿は膳を置き、そばへ座り直した。


「見てくれ」


「何を?」


「私だよ。怪我などしていないだろう」


 両手を広げて見せる。片方の袖には、汁の染みがついていた。


 そこへ目を向けると、千寿も気づく。


「これは、さっきのだ」


「……分かっているよ」


 声を出したら、笑いになり損ねた。


 千寿は手を下ろす。


「お前も、ここにいる」


 うなずこうとした。けれど、喉が詰まってできなかった。


 男が言った「母に会わせてやろう」という言葉を思い出す。


 もう少しで、本当に会えなくなるところだった。


「千寿」


「うん」


「母上に、会いたい」


 千寿は困った顔をした。すぐに連れてはこられない。遮那王にも分かっていた。


「……文を書こう」


 しばらくして、千寿が言った。


「明日、私も紙を持ってくる。墨も磨る」


 顔を伏せる。


 千寿は膳を少し遠ざけ、隣に座ったままでいてくれた。


 翌朝、千寿は約束どおり紙を持ってきた。


 清盛から賜った包みを開き、一枚を文机へ置く。硯を寄せると、千寿はその隣へ座った。


「何と書く?」


「怪我は、ひどくないと」


「うん」


「歩けることも」


 墨を磨る音を聞きながら、筆を取った。


 母が読みやすいよう、一字ずつ書く。手当てをしていただいたこと。

 助けてくれた人がいたこと。千寿がそばにいてくれること。


 何度も筆を止めたが、千寿は急かさなかった。


 最後の行へ来て、墨をつけ直す。


 お会いしたいです。


 それを書いてから、筆を置いた。


「できた?」


「うん」


 千寿は紙へ息を吹きかけようとして、遮那王に止められた。


「墨が動くよ」


「そうか」


 二人で乾くのを待った。


     *


 和尚はその日のうちに、常盤のもとへ使いを出した。


 返事を待つ間、遮那王は傷の手当てを受け、部屋で休んだ。母が来ると決まったわけではない。

 それでも、廊を通る足音がするたびに顔を上げてしまう。


 常盤が訪ねてきたのは、長成の屋敷へ知らせが届いてから数日後だった。


 庭へ出る許しはまだなく、部屋で書物を読んでいた。廊を来る足音に顔を上げると、戸が開く。


「牛若」


 母が立っていた。


 書物を脇へ置き、立とうとする。


「そのままで」


 常盤はそばへ膝をついた。頬に触れ、腕を取り、袖を上げる。


「母上、もう痛くは――」


 言い終える前に、抱き締められた。


 母の息が耳元にある。山を上ってきたばかりなのだろう。背に回された手が、いつもより強かった。


「文を読みました」


「はい」


「お前の字で、安心したのに……」


 常盤はそこで何も言えなくなった。


 遮那王も母の肩へ顔を押しつける。香の匂いがした。家で朝、母のそばへ寄ったときの匂いだった。


「怖かった」


 口から出ると、もう止められなかった。


「母上からの言づてだと申したんです。だから、何かあったのかと」


「ええ」


「でも、名を聞いても答えなくて……」


「ええ」


 常盤の手が背をさする。


「足をつかまれて、戻れなくて」


 衣を握った。


「母上に、もう会えないかと」


 声が崩れた。


 常盤は何度も牛若の名を呼んだ。顔を上げても頬の涙を拭い、また抱き寄せる。


 廊にいた和尚は、戸をそっと閉めた。


     *


 母の膝の上で、傷の布を替えてもらった。


「歩くときは?」


「少し、引きつります」


「それでは、まだ走ってはいけないわ」


「はい」


 常盤が結び目を直す。持ってきた荷から替えの衣も出した。


「持ってきたものは、和尚様へお渡ししておくわね」


「母上、千寿にも……」


「ええ。礼を言わないと」


 手元を見つめた。


「助けてくださった方にも、礼をしたいです」


「天狗と呼んでもよいと仰った方?」


「はい。お名前は、鬼一法眼と」


「和尚様には、お話ししたのね」


「しました。でも、お怪我をなさっているようでしたので」


 常盤は衣を畳む手を止めた。


「だからといって、一人で捜しに行ってはだめよ」


 顔を上げる。


「お前を助けてくださった方でも、山のどこにおられるか分からないのでしょう」


「……はい」


「せめて、足が治るまでは」


 うなずくと、常盤はようやく衣へ手を戻した。


「母も、ここに泊めていただけるそうよ」


「今夜も?」


「ええ。明日の朝まで」


 母を見つめた。


 常盤が笑う。


「和尚様が、お前と話しておいでと仰ってくださったの」


「では、まだ帰らない?」


「帰らないわ」


 脇に置いていた書物を片づけた。母が座れるところを広くしようとすると、常盤も手を貸してくれる。


「何のお話をしようか」


 聞かれて、話したいことがいくつも浮かんだ。


 けれど、最初に出たのは別の言葉だった。


「もう一度、抱いてください」


 常盤はすぐに両腕を広げた。


 そこへ身を寄せると、母の手が頭へ載る。


 今夜は、目を閉じても一人ではなかった。

「ここまでお読みいただきありがとうございます!

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