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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第九話 大相国の参詣 

第九話 大相国の参詣 


 嘉応(かおう)二年(一一七〇年)。


「遮那王、その書物を部屋へ戻しておくれ」


 朝から、寺の者が客を迎える支度に追われていた。

 牛若が書物を抱えて戻ると、千寿も部屋へ入ってくる。


「京から、人が来るそうだ」


「誰が?」


「そこまでは聞いてない。今日は廊で遊ぶなって言われた」


 千寿は戸口へ寄り、外をのぞいた。


「いつもは、ここまで支度をしないのにな」


 牛若も廊を見る。僧が一人、足早に通り過ぎていった。


「遮那王。和尚様がお呼びだ」


 牛若が立つと、千寿もついてきかけた。


「お前は、ここで待っておいで」


 僧に言われ、千寿は戸口で足を止める。


 和尚の部屋には、見慣れぬ男が控えていた。

 牛若が入ると、男は頭から足元まで見て、それから和尚へ一礼して退出した。


「座りなさい」


 牛若は男の去った戸口を見てから、和尚の前に座った。


「今の方は?」


「京より参られた使いの方だ。今日、平清盛公が御参詣(さんけい)になる」


「清盛様が……」


「お前にも会いたいとの仰(おお)せがあった」


「はい」


「お会いしたら、大相国(だいしょうこく)様とお呼びするように」


「大相国様……清盛様ではないのですか」


「清盛公のことだ。太政大臣(だじょうだいじん)を務められたので、そうお呼びする」


「承知しました」


 部屋を出ると、千寿が待っていた。


「何の話だった?」


「清盛様が来られるんだって」


「お前、知っているのか」


「寺へ来る前に、会ったことがある」


「どんな人?」


 牛若は部屋の棚へ目を向けた。清盛から賜(たまわ)った筆が、そこに置いてある。


 七つの春、紙と筆を受け取ったばかりの牛若の前で、母は清盛に言い返していた。


「この子は、まだ私のそばにおります」


 あんな声を聞いたのは初めてだった。


 清盛は母が何を言っても、鞍馬へ行けとの言葉を取り消さなかった。

 庭に描いた道を褒めてくれたときも、牛若の行く先を決めたときも、声は穏やかなままだった。


「牛若?」


 千寿に呼ばれ、棚から目を戻す。


「……笑っておられた」


「怖い人なのかと思った」


「笑っていても、分からないよ」


 千寿が牛若を見る。牛若はそれ以上言わず、部屋へ戻った。


 やがて、門のほうが騒がしくなった。


 迎えに出た僧が戻り、和尚も席を立つ。牛若は、その後についていった。


 清盛は和尚と話しながら入ってきた。山道について何か言い、和尚が答えると声を上げて笑う。


「わしより先に息を切らしておった者もいたぞ。次は鍛えてから連れてこねばならぬな」


 供の者が苦笑して頭を下げる。


 牛若は膝をつき、顔を伏せた。


「牛若か。面を上げよ」


 顔を上げると、清盛はその顔をしばらく見ていた。


「久しいな。ここでの暮らしはどうだ」


「皆によくしていただいております」


「和尚がそこにおれば、そう答えるほかないわな」


 和尚が恐縮して頭を下げる。清盛は笑い、そばに勧められた席へ座った。


「朝は早いか」


「はい。鐘が鳴ると起きて、勤めに出ます」


「眠くはならぬか」


「……なる日もあります」


「正直でよい」


 清盛が笑うと、和尚もようやく顔を上げた。


「勤めの後は、何をしておる」


「掃除や、厨(くりや)の手伝いを。済んだら書物を読ませていただきます」


「ほう。学問も怠ってはおらぬか」


 牛若がうなずくと、清盛は和尚へ目を向けた。


「先ほど、別の名で呼んでおったな」


「遮那王と名づけましてございます」


「遮那王か」


 清盛は牛若へ向き直った。


「その名に負けぬほど、よく学んでおるのか」


「まだ、分からぬことばかりです」


「ならば、何を知りたい。申してみよ」


「川や道のことを、もっと知りたいと思っております」


 清盛が片眉を上げた。


「また道か。ここでも椀を並べておるのではあるまいな」


「紙に描いております」


「そうか。あの筆は無駄にはならなんだか」


 牛若が礼を述べると、清盛は和尚へ振り向いた。


「昔、庭いっぱいに京の道を描いておってな。

 家の椀まで持ち出したものだから、母が夕餉の支度もできずにおったそうだ」


「それは存じませんでした」


 和尚が笑う。牛若もつられたが、清盛に続きを促されると、背筋を伸ばした。


「川や道を知って、何をする」


「米を運んでくださる方に、途中のことを聞きます。

 雨が続くと、川を渡れず、帰るのが遅くなることもあるそうです」


「ほかの道はないのか」


「あるそうですが、荷を背負っては越せぬところもあると。

 私は歩いたことがないので、どれほど険しいのかは分かりません」


「聞くだけでは、足らぬか」


「はい。道があると聞いても、荷を運べるとは限りませんので」


 清盛は少し黙り、そばに控える者へ命じた。


「紙と筆を。それから硯(すずり)も持ってまいれ」


 供の者が下がると、牛若へ向き直る。


「では、明日わしが千人を連れて来るとしたら、どうする」


 和尚が清盛を見た。


「それほどの人数は、とても……」


「たとえの話だ」


 清盛は笑い、牛若の答えを待った。


「何日、お留まりになりますか」


「三日」


「お米は、お持ちになりますか」


「持たぬ。こちらで用意せよと申したら?」


 牛若は和尚を見る。


「今ある米で、何人を何日養えるか、まず和尚様に伺います」


「足りぬとしたら」


「麓(ふもと)で米を買えるか、人を出して尋ねます。ここまで運ぶには、運ぶ方の手も借りねばなりません」


「間に合わぬぞ。明日には来るのだ」


「それなら、お越しになる日を延ばしていただくか、人数を減らしていただきたいです」


 清盛が笑った。


「わしを来させぬか」


「お迎えはしたいです。ですが、米が足りぬままお上がりいただいても、

 皆様に召し上がっていただけません」


「麓の家々へ分けて泊めればよかろう」


「それで足りるかも、尋ねねば分かりません」


 牛若は清盛の顔を見たまま続ける。


「家があっても、米が余っているとは限りません。

 こちらにないからとお願いして、向こうにもなければ……」


 言葉を切った。清盛はまだ答えを待っていた。


「寺の分も、麓の分も分からぬうちは、千人をお迎えできるとは申せません」


 和尚が何か言いかけたが、清盛は手で制した。


「よい。続けよ」


「……以上です」


「そうか」


 清盛は膝に手を置き、もう一度笑った。


「できると申して、わしが着いてから米がないと分かるよりはよい」


 供の者が戻り、牛若の前へ紙と硯を置いた。


「描いてみよ。お前が尋ねに人をやるなら、どこへ行かせる」


 牛若は筆を取ったが、すぐには墨を含ませなかった。


「寺へ来た折に通った道と、運ぶ方から聞いたところしか存じません」


「それでよい」


「聞いたところは、印を変えてもよろしいでしょうか。道筋も、確かめておりませんので」


 清盛は牛若を見た。


「構わぬ。見たところと聞いたところが分かるよう、描け」


 牛若は紙の端に寺の位置を記した。


 清盛が身を寄せる。牛若は筆を止めかけたが、そのまま、覚えている山道へ線を延ばした。


「ここは?」


「寺へ米を納めてくださる方の家です。川へ下りる道の近くだと伺いました」


「お前は、この辺りを知っておったな」


 清盛に呼ばれ、供の男が紙をのぞき込む。


「その家であれば、もう少しこちらでございます」


「川を渡らずに行けますか」


「行ける。ただ、荷を運ぶ者は別の道を使う。こちらだ」


 牛若は男の指が示す先を追った。


「ここへつながるのですか」


「そうだ。お前が描いた道よりは遠回りになるが、足場がよい」


「ありがとうございます」


 教えられた道を加えると、紙の端に届きそうになった。牛若は筆を止め、男を見上げる。


「ほかに米を買えるところも、ご存じですか」


「いや。麓で聞いてみねば分からぬ」


「では、まずその家で、米を分けていただけるか伺います。

 足りなければ、ほかを教えていただきたいです」


「買えさえすれば、千人を食わせられるか」


 清盛の問いに、牛若は紙へ目を戻した。


「運ぶ方も要ります。三日分となれば、寺の者だけでは……」


「儂の供を使えばよかろう」


「それでしたら、お力をお借りしたいです。

 麓で買えた量を知らせていただいて、こちらでも受け取る支度をいたします」


 清盛が差し出した手に、牛若は紙を載せた。


「今、分かるのはここまでです。麓のことを知る方に、もう一度見ていただきたいです」


 清盛は紙を引き寄せる。途中まで描かれた道の先には、何もない。


「ここから先は、描かぬのか」


「存じませんので」


 千人と聞かされても、和尚へ助けを求めなかった。

 何日いるのか、米はあるのかと問い返し、知らぬところでは筆を止める。


 七つの春、庭に描いていた道を思い出す。

 車を通すために家を移せと言えば、そこに住む者はどうなるのかと聞いてきた。


 あの子が、今は目の前に座っている。


 兵を与えれば、使い方を覚えるであろう。戦場でも、知らぬことを知る者に尋ねる。

 己一人で何もかも済ませようとはせぬ。


「誰に習った」


「道は、運ぶ方に伺いました」


「道の話ではない。人をやり、米を集める算段だ」


 牛若はすぐには答えなかった。


「厨を手伝っておりますと、米が届いても、受け取る方がおられぬことがあります。

 置く場所が空いておらず、運んできた方を待たせたことも……」


「それで考えたか」


「はい」


 清盛が和尚を見ると、和尚はうなずいた。


「手伝いを頼んでおらぬ日にも、顔を出します。

 こちらが忙しくしておりますと、よう気づいてくれまして」


「ほう」


「ただ、厨で話を聞き込んで、次の勤めに遅れることもございます」


 牛若がうつむく。清盛は声を上げて笑った。


「それはいかんな。和尚を困らせてはならぬぞ」


「……はい」


 清盛は紙を返した。


「持っておけ。紙も、後で届けさせよう」


「ありがとうございます」


 両手で受け取る牛若の袖口には、墨がついていた。筆を握っているうちに汚したらしい。


 このまま髪を落とし、経(きょう)を読む身になればよい。


 だが、誰かが義朝の子を迎えに来たら。


「よく学べ、牛若」


 顔を上げた牛若へ、清盛は笑みを向ける。


「和尚の教えを聞いておれば、役に立つ日も来よう」


「はい」


「では、下がってよい」


 牛若は礼をして退出した。和尚も参詣の支度を確かめに立ち、部屋には供の男だけが残る。


 清盛は、牛若の去った戸口を見ていた。


「よく育っておられますな」


 男の声に、清盛は答えなかった。


 寺へ送った日の常盤の顔が浮かぶ。あのとき殺さず、母の手から離せばよいとした。


 それで済む子ではなかったか。


「大相国様?」


「六波羅へ戻ったら、人を呼べ」


「どなたを」


 清盛が名を告げると、男は口を閉じた。


「和尚には申すな」


「……承知いたしました」


 廊から、牛若を呼ぶ童の声がする。すぐに返事があり、二人の声は遠ざかっていった。


 清盛は立ち上がる。


「待たせたな。参ろう」


 迎えに戻った和尚へ、先ほどと変わらぬ笑みを向けた。


「遮那王」


 廊を曲がると、千寿が壁際で待っていた。


「どうだった?」


「紙を届けてくださるそうだよ」


「それはよかったな。……何だ、その顔は」


 遮那王は、持っていた紙へ目を落とす。


 清盛は笑っていた。よく学べと声をかけてくれた。何も困ることは言われていない。


 それなのに、紙を受け取ったとき、母の声が耳によみがえった。


 この子は、まだ私のそばにおります。


「また、どこかへ行けと言われるかと思った」


「ここから?」


「うん」


「言われたのか?」


「言われてはいない。ただ……前も、紙と筆をいただいた後で、鞍馬へ行くようにと」


 千寿は黙った。遮那王の持つ紙をのぞきかけていたが、そのまま顔を上げる。


「では、今日は紙だけなのだな」


「うん」


「なら、一緒に戻ろう」


 千寿が先に歩き出す。遮那王も続いたが、部屋の手前で足を止めた。


「どうした?」


「大相国様のお帰りを、見送らなくてよいのかな」


「呼ばれたら行けばよいだろう。和尚様もおられる」


 千寿は戸を開け、遮那王が入るのを待っている。


「ほら。その紙、何を描いたのか見せてくれ」


     *


「千人?」


 机に広げた紙を前に、千寿の声が裏返った。


「ここへ来られるのか?」


「たとえ話だよ」


「……驚かすな」


「私も、最初は驚いた」


 千寿は紙と遮那王の顔を見比べる。


「それで、どうすると答えた?」


「米がなければ、来る日を延ばしていただくか、人数を減らしていただきたいと」


「大相国様に?」


「食べるものがなければ、困るだろう」


「それはそうだが……」


 千寿は首をひねり、もう一度紙を眺めた。


「私なら、和尚様を呼んでくる」


「私も、麓のことは分からなかった。供の方に教えていただいたんだ」


「この道か?」


「うん。荷を運ぶには、こちらがよいって」


 二人で紙をのぞいていると、戸口から和尚の声がした。


「何をしておる」


 千寿が顔を上げる。


「大相国様が千人で来られたときの話を、聞いておりました」


「まことに来られるわけではないぞ」


「分かっております。……今は」


 和尚は笑いながら部屋へ入り、紙の前に腰を下ろした。


「遮那王、先ほどは落ち着いて答えておったな」


「失礼は、ございませんでしたか」


「大相国様も喜んでおられた。紙をくださるそうだな」


「はい」


 和尚は道筋を目で追い、一か所を指した。


「この道も、雨の後には使えぬことがある。麓で降っておらずとも、山では降るからな」


 遮那王は筆を取る。


「いつも米を運んでくださる方なら、ご存じでしょうか」


「知っておるだろう。次に来たら、尋ねてみなさい」


「はい」


 書き添えようとして、袖が紙に触れそうになった。千寿が横から持ち上げる。


「待て。墨がついているぞ」


 遮那王は袖口を見た。


「あ……」


「紙にまでつけたら、道が分からなくなる」


 千寿が袖を折ってくれる。遮那王が礼を言うと、和尚は立ちながら声をかけた。


「乾いてしまう前に洗っておいで。紙は逃げぬ」


     *


 冷たい水へ袖口を浸していると、千寿も隣へしゃがみ込んだ。


「落ちるか?」


「少しは」


「こするのか?」


「強くすると、衣が傷むって」


 厨で教わったとおり、遮那王は濡らした布で墨を押さえる。黒い染みは、思ったほど薄くならない。


「私がやろうか」


「千寿まで濡れるよ」


「袖をまくればよい」


 千寿は腕を出し、布を受け取った。遮那王が衣を押さえ、二人で染みを洗う。


 山道の方から、人の声が聞こえてきた。


 遮那王が顔を向けると、清盛の供らしい者たちが下りていく。

 木々の間を衣の色が通り過ぎ、やがて声も遠くなった。


「お帰りになったのかな」


「そうだろうな」


 千寿は布を水へ浸す。


「もう少し、ここを押さえてくれ」


 遮那王は袖を広げ直した。千寿の指先まで、水で赤くなっている。


「冷たくない?」


「冷たい。だから早く終わらせよう」


 遮那王は笑って、ずれかけた衣を押さえた。


 もう、山道の方へは顔を向けなかった。






「ここまでお読みいただきありがとうございます!

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