第八話 新たな名
第八話 新たな名
夕方、牛若が書物を返しに行くと、和尚は文机に向かっていた。
「そこへ置いておくれ」
牛若は書物を重ね、一礼して下がろうとする。
「牛若。まだ用がある。こちらへ」
呼び止められ、和尚の前に座り直した。
「昨日、庭で転んだ子の手当てをしてくれたそうだな」
「千寿が水を持ってきてくれました。ぼくは、布を巻いただけです」
「泣きやむまで、ついておったとも聞いた」
「痛そうだったので……」
和尚はうなずき、傍らの紙を引き寄せた。
「学ぶことは多い。この山で、お前に教えられることもある。
だが、人が泣いているとき、そばへ行くことまで忘れてはならぬぞ」
牛若は膝の上に置いた手を見た。
あの稚児の手を取ったとき、思い出した子がいた。和尚には言えない。
「はい」
「今日は、お前に寺での名を授けようと思ってな」
牛若が顔を上げる。
「名を、ですか」
「うむ。ここで学ぶ稚児としての名だ」
「出家するということですか」
「その話は、また別にしよう」
和尚は筆を取った。牛若はその手を見つめ、墨が紙につく前に口を開く。
「牛若の名は、どうなるのですか」
「そのままでよい」
「母上にも、新しい名で呼んでもらうのかと……」
「母君が牛若と呼ぶなら、返事をしておあげ。兄たちも、そう呼ぶであろうな」
牛若はうなずいた。
和尚の筆が動く。最初の字を書き終えるのを待ち、牛若は少し身を乗り出した。
「遮那王。しゃなおう、と読む」
和尚が紙をこちらへ向ける。
「毘盧遮那仏の名にちなむ。由来も、いずれ教えよう」
「遮那王……」
牛若は小さく繰り返した。
母に呼ばれたことも、兄たちに呼ばれたこともない名だった。もう一度、口の中で言ってみる。
「ありがとうございます」
両手をついて頭を下げた。
和尚は紙を乾かしてから、牛若へ渡す。
「明日、皆にも伝えておこう」
「はい」
部屋を出ると、千寿が廊を歩いてきた。
「あ、牛若。飯の支度、もうできてるぞ」
「待って。これを置いてくる」
「何、それ」
牛若が紙を見せると、千寿は肩越しにのぞき込んだ。
「和尚様にいただいた。寺では、遮那王と呼ぶんだって」
「しゃなおう?」
「うん」
千寿はもう一度、紙の字を見た。
「じゃあ、遮那王。早く行こう。遅れると叱られる」
先に歩き出した千寿を追おうとして、牛若は立ち止まる。
手にした紙を部屋へ置き、すぐに廊へ戻った。
「牛若、まだか!」
千寿の声が響く。
「今、行くよ」
牛若が追いつくと、千寿は「あ」と口を開けた。
「遮那王だった」
「牛若でも、いいよ」
「それなら、しばらく牛若だな。まだ慣れない」
千寿はそう言い、牛若と並んで歩き出した。
数日後、常盤が寺を訪ねてきた。
牛若は縁の掃除をしていた。僧に呼ばれて顔を上げると、庭の向こうに母が立っている。
「母上!」
雑巾を桶へ落とし、そのまま駆け出しかけた。
「履物を忘れておるぞ」
僧の声に引き返す。急いで足を入れる間にも、常盤がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「慌てなくても、待っているわ」
常盤は笑っていた。
牛若が駆け寄ると、両手を広げて迎えてくれる。抱きついた肩越しに、母の袖が背へ回った。
「元気だった?」
「うん。母上は?」
「ええ。変わりなく」
牛若はすぐには離れなかった。
常盤が髪を撫でる。手が耳の後ろまで下りてきたところで、牛若は母を見上げた。
「母上。和尚様に、名をいただいたんだ」
「あら。何という名?」
「遮那王」
常盤は一度、小さく繰り返した。
「紙に書いてくださった。持ってくる」
「ええ。見せてちょうだい」
今度は履物を脱ぎ、部屋へ駆け込んだ。
和尚からいただいた紙は、書物の下に挟んである。
折れぬよう両手で持って戻ると、常盤は縁に腰を下ろしていた。
「これ」
差し出すと、常盤は膝の上で紙を広げる。
牛若も隣へ座った。母は字を眺め、紙の端についた小さな折れ目を指で伸ばしている。
「大事にしまっていたのね」
「墨がつかないように、乾いてから置いた」
「そう」
常盤は紙を牛若へ返した。
「遮那王」
呼ばれて顔を上げると、母が少し照れたように笑う。
「何だか、よそのお子を呼んでいるみたい」
「ぼくだよ」
「分かっているわ」
常盤の指が頬へ触れた。少し荒れた指先も、手の温かさも、いつもの母だった。
牛若は紙を脇へ置き、その手を両手で包む。
「牛若?」
「……もう少し、こうしていてもいい?」
常盤は返事をする代わりに、牛若の手を握り直した。
庭で、千寿がほかの稚児と話している。こちらに気づくと手を上げたが、近づいてはこなかった。
「寺の暮らしは、どう?」
「千寿が色々教えてくれる。書物も読ませてもらってる」
「難しいもの?」
「読めない字もある」
「では、教えていただかないとね」
牛若はうなずいた。
常盤が袖から包みを出そうとして、手を止める。牛若がまだ握っていたからだった。
「お前の好きなものを持ってきたのだけれど、これでは出せないわ」
「あ……」
慌てて手を離すと、常盤は片手だけを牛若の膝に残した。
「こちらは、持っていていいわよ」
牛若はもう一度、その手を取った。
「干し柿だ」
包みをのぞいた牛若の声に、常盤が笑った。
「まだ好き?」
「うん」
一つもらい、かじろうとして千寿を捜す。庭の向こうで、ほかの稚児と話していた。
「千寿にも、あげていい?」
「もちろん。呼んでいらっしゃい」
「千寿!」
牛若が柿を掲げると、千寿はすぐに気づいた。
駆けてきた勢いのまま縁へ上がりかけ、常盤を見て立ち止まる。
「……お邪魔して、よいですか」
「どうぞ。いつも牛若と仲よくしてくれて、ありがとう」
「いえ、その……」
急に口数が減った千寿へ、牛若は柿を渡した。
「食べていいよ」
「分かってる」
小声で返すところは、いつもの千寿だった。
二人で並んで食べていると、常盤が千寿に尋ねた。
「牛若は、寺でどんなふうに過ごしているの?」
「本ばかり読んでいます」
「ばかりじゃないよ」
「読んでる。呼んでも返事をしないときがある」
「それは……聞こえなかったんだよ」
千寿が常盤を見る。
「あと、人の手伝いをして、自分の仕事が残って、後で慌てています」
「千寿!」
常盤は笑った。牛若は柿を口へ押し込み、それ以上言うなと千寿をにらむ。
「そう。二人とも、和尚様のお手を煩わせないようにね」
「はい」
千寿だけが、やけに素直な返事をした。
やがて庭の稚児に呼ばれ、千寿は残りの柿をくわえて戻っていった。
常盤も空を見上げる。
「母も、帰らなくては。暗くなる前に山を下りないとね」
牛若は柿の種を包みの端へ置いた。
「門まで行く」
「ええ」
歩きながら、常盤は寺のことを尋ねた。牛若は答えたが、門が近づくにつれて返事が短くなった。
外へ出る母を見て、ようやく手にした紙を差し出す。
「母上、これ」
「新しい名?」
「持って帰って」
常盤は紙と牛若を見比べた。
「お前がいただいたものなのに、いいの?」
「うん」
それだけ言って、牛若は母の手へ紙を押しつけた。
常盤はしばらく何も言わなかった。
「では、家に置いておくわね」
牛若がうなずくと、母はしゃがんで顔をのぞき込んだ。
「そんな顔をしないで。母まで帰れなくなってしまう」
「……また来る?」
「ええ」
「いつ?」
「今は約束できないけれど、来るわ」
牛若は母の袖をつかみかけ、手を下ろした。
「待ってる」
常盤は牛若を抱き寄せた。
「牛若」
耳元で呼ばれ、牛若も母の背へ腕を回す。
母が離れるまで、何も言えなかった。
姿が坂の先へ見えなくなっても、しばらく門に残っていた。戻ると、千寿が縁で待っている。
「柿、しまっておいたぞ」
「ありがとう」
千寿は牛若の隣を空けた。座ると、一つだけ残してあった柿を渡してくれる。
「半分、くれないか」
「さっき食べたのに」
「うまかったから」
牛若は柿を二つに裂いた。大きいほうを渡すと、千寿はさっきと違って、すぐにかじりついた。
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