第七話 口にできぬ名
第七話 口にできぬ名
翌朝、牛若はいつもどおり千寿と庭へ出た。
箒を持つ手は動く。落ち葉を寄せる間も、昨夜の記憶は消えなかった。
陣中の灯。冷えた椀。劉備の手。
箒の先が止まる。
「そこ、葉っぱが残ってる」
千寿に言われ、牛若は庭の隅へ目をやった。竹垣の根元に、枯れ葉がひとかたまり残っている。
「ごめん」
「昨日から変だぞ。まだ具合が悪いなら、僧に言えよ」
「もう平気」
「ほんとか?」
牛若は箒を握り直した。
「千寿、昨日のことは誰にも言わないで」
「どのことだよ」
「私が……書物を読んで、具合が悪くなったこと」
千寿は箒を止めた。
「僧には言っただろ」
「ほかの人には」
「分かった。けど、また倒れたら言うからな」
「うん」
千寿はそれ以上聞かず、庭の反対側へ歩いていった。
牛若は落ち葉を集める。ひと山にしても、風が吹けば端から散った。
しゃがみ込んで、手で葉を寄せる。
昔も、こうして散ったものを拾い集めた。
兵の報せ。人の心。劉備が託した国。
全部は拾えなかった。
「牛若」
千寿が呼ぶ。牛若は顔を上げた。
「掃き終わったら、書物を読みに行くんだろ」
「……そうだね」
「行くなら、私も一緒に行く」
「どうして?」
「一人でまた具合悪くなられたら困る」
牛若は言い返しかけて、口を閉じた。
千寿は箒を肩に担ぎ、先に廊へ上がる。
「急げ。僧が待ってるぞ」
「待って、今行く」
追いつくと、千寿が戸を開けてくれた。
書物は文机の上に置かれていた。僧が隣に座る。
「今日は、読めるところだけでよい。無理はするな」
「はい」
牛若は膝をつき、書物を開いた。
諸葛亮の名が目に入る。
胸は痛んだ。けれど、昨日のように視界は揺れなかった。
隣で千寿が、分からない字を指で追っている。
「これは何て読むんだ」
牛若は答えかけ、千寿の顔を見た。
自分はもう、字を知っている。書物の先に何があるかも、覚えている。
それを口にすれば、千寿はきっと尋ねる。
どうして知っているのか。
「……あとで僧に聞こう」
千寿は首を傾げたが、頷いて書物へ目を戻した。
牛若はページをめくる。
紙の上には、諸葛亮の生涯が記されている。そこに書かれた名は、自分のものだった。
千寿が隣にいる。
牛若は、続きを読んだ。
「ここは?」
千寿が次の字を指す。
牛若は読みを答えた。さっき一つ知っているふりをしなかっただけで、ひどく疲れた。
覚えた字まで知らぬことにするのは、もうやめようと思った。
「やっぱり、おまえのほうが読めるな」
「前に、見たことがあるから」
「そうか?」
千寿は手本を引き寄せ、教わった字を写し始めた。
牛若が紙をめくる。
自分の死を記した行を過ぎ、その先へ進む。息子の名があった。
瞻。
指先で、その一字に触れた。
小さな足で追いかけてきた姿が浮かぶ。こちらが歩幅を緩めると、
自分も大人のようにゆっくり歩こうとする。しばらくもたず、また駆け寄って袖をつかんだ。
父上。
まだ幼い声だった。
牛若は続きを読んだ。
爵位を継いだこと。役目を得たこと。
知らない年月が、いくつも過ぎていた。
どんな背丈になった。
声は。
笑うとき、まだ目を細めたのだろうか。
次の行を追い、息が止まる。
敵を迎え撃ち、敗れ、戦場で死んだ。
三十七歳。
牛若はもう一度、初めから読んだ。読み違えた字を探すように、指を戻す。
変わらなかった。
最後に覚えている息子は、七歳だった。
その小さな身体が、紙の上ではもう三十七になっている。
膝の上へ手を引いた。
抱き上げたときの重さは覚えている。腕に回された手も、耳元で何かを話し続ける声も。
そのあとの三十年は、知らない。
「牛若、墨を――」
千寿の声が途切れた。
牛若は顔を上げられなかった。
まだ先がある。
読まなければ。
息子の名の近くに、もう一つの名があった。
尚。
瞻の長子。
孫だった。
その子も、父とともに死んだと記されている。
牛若の口が動いた。
名を呼ぼうとしても、顔が浮かばない。抱いたことも、声を聞いたこともなかった。
何を好み、誰に似ていたのか。
何も知らないまま、その死を読んでいる。
紙の上へ手を置きかけ、止めた。涙が落ちそうになり、顔を横へ向ける。
千寿が自分の手拭いを膝へ置いた。
牛若はそれを取って、目元へ押し当てた。
「……すまない」
「本は、私が持つ」
千寿は牛若の膝から書物を受け取り、机へ戻した。僧がこちらを見たが、千寿は首を振る。
牛若は手拭いを握り締めた。
息子へ、何を残した。
家を離れるたび、父が戻るのを待たせた。ようやく帰っても、また出ていった。
父上、と呼ばれたあの声に、何度、待てと言っただろう。
「……もう、よいのです」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
千寿の手が、背へ触れた。
「今日は、やめよう」
牛若は首を振った。
やめても、あの二行は消えない。
それでも立とうとすると、足に力が入らなかった。千寿が腕を取り、僧も反対側へ来る。
「少し外へ出ようか」
牛若は二人に支えられ、廊へ出た。
庭では、ほかの稚児が掃除をしている。ふざけて箒を取られた一人が、返せと追いかけていた。
牛若はその背を見つめた。
あれくらいの子だった。
自分が最後に会った、息子は。
庭の稚児が箒を取り落とした。
拾おうとして足を滑らせ、膝をつく。周りの子が笑いかけたが、牛若が立ち上がるほうが早かった。
「手を見せよ」
転んだ稚児は、平気だと言い張って手を隠す。掌に擦り傷ができていた。
牛若はその手を取り、袂で泥を拭う。
小さな指が、袖をつかんだ。
記憶の中の手と重なり、息が詰まる。
「痛うない」
「嘘を申すな」
強く言いすぎた。稚児の目に涙が浮かぶ。
牛若は傷に息を吹きかけた。幼い頃、誰かにそうしてもらった気がする。
あるいは、自分が誰かにしてやったのか。
「もうよい。泣いてもよいぞ」
稚児は唇を噛んでいたが、やがて声を上げた。牛若はその背に手を置き、泣きやむまでそばにいた。
千寿が水を持ってくる。傷を洗い、布を巻くあいだ、稚児は牛若の袖を握ったままだった。
「ありがとう、牛若」
手が離れる。
稚児は仲間のもとへ戻っていった。箒を取り返した子が、今度は転ばぬよう手を貸している。
牛若は、濡れた袂を見た。
あの子にも、こうして手を差し伸べたことがあった。
名を呼ぼうとして、声が出ない。
紙に記された一字だけが、胸の奥に残っていた。
その夜、牛若はなかなか寝つけなかった。
昼に袖をつかんだ稚児の指が、まだ腕に残っている気がする。
目を閉じると、別の小さな手が浮かんだ。
紙にあった一字を、暗がりでそっとなぞる。
「瞻……」
声にしたとたん、胸が詰まった。
顔は思い出せない。声も、笑い方も、もう遠い。それでも、呼べば振り向く子がいた。
自分を父と呼ぶ子が。
牛若は寝具を握りしめた。
「私は……」
続きが出てこない。
父は義朝。母は常盤。兄は今若と乙若。ここは鞍馬寺で、自分は牛若だ。
何度も確かめるうち、息が少しずつ戻ってくる。
それでも、胸の奥から消えない名があった。
牛若は声にせず、もう一度だけ唇を動かした。
瞻。
「牛若?」
背中越しに声がした。
牛若は口元を袖で押さえる。少し離れたところで寝ていた千寿が、身を起こしていた。
「腹が痛いのか」
首を振っても、暗がりでは見えない。
「……違う」
「なら、どうした」
答えようとして息を吸うと、喉からしゃくり上げるような音が漏れた。
千寿がそばへ来る。顔をのぞかれる前に、牛若は膝へ額を押しつけた。
「和尚様を呼んでこようか」
「行かないで」
千寿の袖をつかんでいた。
自分でも驚いて手を離しかけると、千寿がその場に腰を下ろす。
「行かないよ」
牛若は顔を上げられなかった。離せと言われるかと思ったのに、千寿は袖を引きもしない。
「……夢を見た」
「怖い夢?」
牛若はうなずきかけ、止まった。
あの子を抱いていた。呼べば、こちらへ手を伸ばしてきた。
怖かったのは、そのあとだ。
「会いたい人がいる」
「母上?」
牛若は首を振る。
「兄上か」
それにも答えられない。千寿が黙ったので、何か言わねばと思うほど、涙がこぼれた。
「ごめん」
「何で謝るんだ」
「起こしたから」
「いいよ」
千寿は欠伸をかみ殺し、目をこすった。
「もう眠れそうか」
牛若は首を振る。千寿の袖をつかんだ手も、まだ離せなかった。
「じゃあ、ここで寝る」
千寿が寝具の端を持ち上げる。
「少し、そっちへ寄ってくれ」
牛若がずれると、千寿はその隣へ潜り込んだ。足が触れ、思わず引っ込める。
「冷たいな、お前」
「……ごめん」
「それは謝らなくていい」
千寿は二人の足が隠れるよう、寝具を引き下ろした。
牛若も横になる。ようやく袖から手を離すと、握っていたところがくしゃくしゃになっていた。
「千寿」
「ん?」
「ありがとう」
「うん……」
もう半分眠っている返事だった。
牛若はしばらく、その顔を見ていた。鼻がむずがゆいのか、千寿は目を閉じたまま手でこすっている。
また涙が出た。
千寿が寝返りを打ち、肩が触れる。牛若は動かず、袖をそっと目元へ当てた。
朝の鐘に、牛若は目を開けた。
千寿の肘が腹に乗っている。
そっと持ち上げようとすると、千寿は寝返りを打って、今度は寝具を抱え込んだ。
「千寿。朝だよ」
「……まだ」
「鐘が鳴ってる」
「聞こえない」
牛若は吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
寝具を引くと、千寿がようやく片目を開ける。
「牛若、もう少し……」
「置いていくよ」
「待って」
起き上がった千寿の髪は、片側だけ跳ねていた。手で押さえても戻らない。
牛若が見ているのに気づくと、千寿は顔をしかめる。
「そんなに変か」
「うん」
「お前だって、目が腫れてる」
言ってから、千寿が口をつぐんだ。
牛若は頬へ手をやる。千寿は視線をそらし、乱れた寝具を畳み始めた。
「……誰にも言わない」
小さな声だった。
牛若も膝をつき、反対側の端を持つ。
「うん」
二人で畳んだ寝具を隅へ寄せ、廊へ出る。
ほかの稚児たちは先に歩き出していて、千寿が「あ、待ってくれ」と駆けていった。
牛若もその後を追う。
途中で千寿が振り返り、牛若がついてきているのを見ると、歩く速さを落とした。
朝の勤めを終え、牛若は顔を洗いに出た。水をすくって目元へ当てると、まぶたがひりつく。
「牛若。目が赤いぞ」
昨日、書物を読んでくれた僧が足を止めていた。
「眠れなんだか」
「……はい」
「顔を拭きなさい」
差し出された布を受け取り、牛若は目元へそっと当てた。
「ありがとうございます」
「眠いようなら、仕事をする前に言うのだぞ」
僧が立ち去りかける。牛若は布から顔を上げた。
「あの、昨日の書物を、もう一度読ませていただけますか」
「昨日の続きを?」
「昨日と、同じところを」
「構わぬよ。朝の仕事が済んだらおいで」
「はい」
布を返そうとすると、僧は牛若の頬を指さした。
「まだ水がついておる」
牛若は頬を拭き、それから布を畳んで返した。
廊の先から千寿が呼んでいる。
「牛若、こっち!」
牛若が駆け寄ると、千寿は持っていた箒を一本差し出した。
「どこへ行ってた」
「顔を洗ってた」
「それで、そのままか」
千寿が牛若の額を指す。濡れた髪が張りついていた。
牛若が袖で払おうとすると、千寿は箒を脇に抱え、指で髪をよけてくれた。
「よし」
「千寿のも、まだ跳ねてるよ」
「それは放っておいてくれ」
牛若が笑うと、千寿は跳ねた髪を手で押さえながら、庭へ下りていった。
朝の仕事を終えると、牛若は僧の部屋へ向かった。
戸口で声をかけるより先に、僧が顔を上げる。
「おいで。出しておいたよ」
書物は文机の端に置かれていた。牛若は膝をつき、昨日と同じところを開く。
瞻。
昨夜、呼んだ名がそこにある。
文字を追っていると、幼い子が筆を握る姿が浮かんだ。
指も袖も墨で汚し、それでも紙を隠して渡そうとしない。
何を書いたのかと尋ねれば、見せられぬと言い張る。
仕方なく待っていると、ようやく差し出してきた。
父上。
大きな二文字だった。
牛若は書物から手を離した。指が震えて、紙を傷めそうだった。
「ここに出てくる人のことは、ほかにも書いてありますか」
僧が隣へ寄り、牛若の見ている行を確かめる。
「諸葛瞻か」
「はい」
僧は少し先まで目を通し、何枚か紙をめくった。
「この書には、そう多くはないな」
「子供の頃のことは?」
「そこまでは……別の書も見ねば分からぬ」
牛若はうなずいた。
三十七になるまでに、どんな声になったのだろう。どれほど背が伸びたのだろう。
思い浮かぶのは、墨だらけの手を隠していた子ばかりだった。
「何か、知りたいことがあるのか」
僧に尋ねられ、牛若は口を開いた。
あの子は、よく笑う子だったでしょうか。
父のいない日々を、寂しくは思わなかったでしょうか。
聞けるわけがなかった。
「……もう少し、読んでみたいです」
「そうか。ほかにも記されておらぬか、探してみよう」
「ありがとうございます」
牛若は頭を下げた。顔を上げるまで、少し時間がかかった。
僧は自分の文机へ戻り、積まれた書物を一つずつ確かめている。
牛若はもう一度、瞻の名へ目を落とした。
「あの、一字だけ、書き写してもよいですか」
「構わぬよ。紙はそこを使いなさい」
差し出された紙に筆を置く。
名を書き終えても、牛若の手は止まらなかった。
もう一字、書こうとして、筆を浮かせる。
父。
その字を残せば、誰かが読む。
牛若は筆を置いた。紙には瞻の一字だけが残る。
「それでよいのか」
「……はい」
墨が乾くのを待ち、紙を畳んだ。袂へしまおうとして、折ったところをもう一度開く。
たった一字だった。
指先で押さえながら、牛若は声を落とした。
「大きく、なったのですね……」
僧がこちらを見る。
「何か申したか」
牛若は紙を畳み直し、首を振った。
「ここまでお読みいただきありがとうございます!
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