第六話 書物の中の名
第六話 書物の中の名
仁安三年(一一六八年)。
「牛若、そちらも持ってきてくれるか」
僧が指したのは、文机の脇に置かれた包みだった。
十歳になった牛若は、もう書物を運ぶ手伝いにも慣れていた。それでも包みへ手を伸ばすと、念を押される。
「借り物だからな。両手で持つのだぞ」
「誰から借りたの?」
「都の知人だ。読みたい巻があると話したら、貸してくださった」
牛若は包みを抱え、僧の前へ運んだ。
紐がほどかれる。中から出てきた書物の題を、牛若はのぞき込んだ。
「三国志……」
「唐土で、国が三つに分かれて争った頃の記録だ」
牛若はその題をもう一度見た。
初めて見る書物だった。なのに、何かを忘れている気がする。
「読んでもいい?」
「片づけが済んだらな」
牛若は部屋の隅へ戻った。
棚へ一冊ずつ収めている間も、文机が気になる。最後の一冊を戻して振り返ると、僧が笑った。
「今日は早いな」
牛若は黙ってそばへ座った。
「全部は読めぬだろうが、見てごらん」
開かれた書物を受け取り、膝へ載せる。
文字が並んでいる。知っている字も、習っていない字もあった。読めないところを飛ばしながら目で追ううちに、指が止まる。
亮。
夢の兄の顔を描こうとして、書いてしまった字だった。
その前にも、二つの字がある。
牛若は指を戻した。
諸葛亮。
読めた。
僧に尋ねる前に、その名が胸の内で声になった。
すぐ先には、孔明の字。
紙を押さえる手に力が入る。
「牛若。皺になるぞ」
僧の声が聞こえた。手を緩めようとしたのに、指が動かない。
紙の上に、別の手が重なる。
墨のついた指。擦り切れた袖。
顔を上げると、夢の兄がいた。
道端に食べ物を置いた、あの兄だった。
いつもは目覚めた途端に分からなくなる顔が、今ははっきり見える。眉も、頬も、口元も。
――亮。
自分を呼ぶ声。
「……兄上」
牛若は手を伸ばした。
僧の肩へ触れる。
「どうした」
兄はいなかった。
牛若は手を引こうとする。けれど、今度は別の男の顔が浮かんだ。
向かい合って座り、こちらの話を聞いている。
まだ話し終えていないのに、顔をほころばせて身を乗り出す。
その人と、何度も笑った。
声を荒らげたこともあった。
そして、寝所でその手を取った。
痩せた手だった。
牛若は胸元をつかむ。書物が膝から滑り、僧が受け止めた。
「こちらを見なさい」
肩を支えられる。
戸の外には庭がある。廊を歩く足音も、鳥の声も聞こえた。それなのに、別の場所で呼ばれている。
孔明。
丞相。
どちらも、自分へ向けられた声だった。
「気分が悪いのか。横になろう」
「千寿を……」
牛若は僧の袖をつかんだ。
「千寿を、呼んで」
「分かった」
僧が戸口から声をかける。
牛若は座ったまま、両手を見下ろした。
小さい。
筆を握っていた手には皺があった。指も、こんなに短くはなかった。
廊を走る足音が近づく。
「牛若!」
千寿が飛び込んできた。
「倒れたって?」
「倒れてない」
「じゃあ、何があったんだよ」
膝をついた千寿の袖へ、牛若は手を伸ばす。
肘のところが繕ってある。昨日、その袖で顔を拭いて叱られていた。
「……千寿」
「何?」
千寿は牛若の手を握り、自分の膝へ置いた。
「冷たいな。気持ち悪いのか?」
牛若は首を振る。
「何があった?」
答えようとして、口が止まった。
僧の傍らに、開いた書物が置かれている。
諸葛亮。
あの名が、自分の名前だった。
「牛若?」
千寿が手を握り直した。
爪の端に土が残っている。朝、二人で庭の草を抜いたときについたものだ。
「……少し、目が回った」
「今も?」
「もう大丈夫」
千寿は僧を振り返った。
「寝かせたほうがいいですか」
「そうだな。今日は休ませよう」
牛若は立ち上がった。途端に身体が傾き、千寿の肩へつかまる。
「大丈夫じゃないだろ」
「……ごめん」
千寿が脇へ肩を入れた。
「ゆっくりでいい」
廊へ出る。少し軋む板も、戸口の欠けたところも、いつもどおりだった。
自分の部屋まで歩き、敷いてもらった寝床へ横になる。
「湯、もらってくる」
千寿が立ち上がった。
「すぐ戻るから」
牛若はうなずいた。
足音が遠ざかる。戸の向こうで誰かと話す声がして、それも聞こえなくなった。
目を閉じると、陣中の灯が浮かんだ。
書状へ伸ばした手。持ち直しても震える筆。机の端の椀は、もう冷えていた。
最後に何を命じた。
道を、調べるように。
明朝、人を出して――。
「私は……あのとき」
目を開ける。
低い天井があった。
寝具を握り、身を起こす。膝にかかった布を払うと、細い脚が見えた。
「これは、夢なのか……?」
頬へ手を当てた。髭はない。
自分の声も、あのときとは違う。
「牛若」
口にしてみた。
「父上は、義朝。母上は、常盤……」
干し柿の包みを開く母の顔が浮かんだ。傷のある手首を拭いたことも、石段の途中から振り返ってくれたことも覚えている。
その顔に、もう一人の母の顔が重なる。
ずっと昔に失った人だった。
牛若は目元を押さえた。
「兄上は、今若……乙若」
乙若が文を持ち上げ、「牛若には内緒」と笑う。
自分も笑って、紙の端へ手を伸ばした。
その指先に、別の兄の手が触れる。
諸葛瑾。
亮、と呼ぶ声。
牛若は寝具をつかんだ。
兄と道を歩いたことも、乙若へ文を届けたことも覚えている。どちらの兄のそばにも、自分がいた。
「私は、諸葛亮……」
その名を口にしたとき、寝所で握った手の感触が戻ってきた。
劉備の手だった。
かつてこちらの肩を力強くつかんだ手が、あのときはひどく軽かった。
指を握り返しても、少し動くだけだった。
孔明、と呼ばれた。
顔を近づけた。聞き漏らすまいと、あの人の口元を見ていた。
「陛下……」
声が詰まる。
答えたはずだった。
託されたものを守ると。道を閉ざさぬと。
なのに、最後に見たのは机の上の書状だった。その先に何があったのか、思い出せない。
「私は、まだ……」
寝具へ顔を押しつけた。
続きを見ていない。
自分を待っていた者たちは、どうなった。
息を吐こうとして、嗚咽が漏れる。口を押さえても止まらず、肩が震えた。
廊から足音がした。
牛若は顔を上げ、袖で目元を拭う。戸が開く前に横になったが、息はまだ整わなかった。
「入るぞ」
千寿が椀を持ってきた。
「少し冷ましてもらった。飲めるか」
「……うん」
起き上がり、両手で受け取る。温かさが指へ伝わった。
千寿は牛若の顔を見ている。
「泣いてた?」
椀へ口をつけたまま、答えられなかった。
千寿は寝床の脇へ座った。それ以上尋ねず、牛若が飲み終えるのを待つ。
「今日は、ここにいるから」
「勤めは?」
「僧に、おまえを見てろって言われた」
牛若は椀を膝へ下ろす。
「千寿」
「何?」
そばにいてほしい。
そう頼もうとして、唇を結んだ。目の前にいるのは、自分より少し年上の稚児だった。
千寿が首を傾げる。
「何だよ」
「……ぼくが寝ても、いてくれる?」
「いるって言っただろ」
千寿が椀へ手を伸ばす。牛若も渡そうとしたが、指が震え、湯の表面が揺れた。
「ほら、下から持つから」
二人の手で椀を下ろす。
千寿が肩に手を添えた。
「もう寝ろ。起きたら、飯を持ってきてやる」
牛若はその手に従って横になった。
目を閉じても、千寿が座り直す音は聞こえた。
*
目を覚ますと、千寿は膝を抱えたまま眠っていた。
額が膝から滑り、はっと顔を上げる。牛若と目が合うと、目元をこすった。
「起きたか」
「……ずっと、ここに?」
「私も寝た」
千寿は脚を伸ばし、顔をしかめる。
「痛い。動かない」
牛若は身を起こした。今度は天井も床も揺れなかった。
千寿の脚に手を伸ばすと、すぐに引っ込められる。
「触るな、今は」
「すまない」
千寿が顔を上げた。
「何?」
「……何でもない」
牛若は寝床の端へ足を下ろした。
「あの書物を、もう一度見たい」
「また具合が悪くなったらどうする」
「確かめたいことがある」
「何を?」
返事を待つ千寿の顔を見て、牛若は口を閉じた。
千寿も、しばらく黙っていた。
「僧に聞いてくる。勝手に行くなよ」
立ち上がるなり、痺れた脚がもつれる。戸口につかまった千寿へ、牛若は手を伸ばしかけて止めた。
「……待ってる」
*
僧が書物を持ってきてくれた。
「読むなら、ここでだ。気分が悪くなったら、すぐにやめなさい」
「はい」
膝の前へ置かれる。
牛若は両手を揃え、頭を下げた。僧が出ていっても、千寿は戸口に残っている。
「千寿は、勤めへ戻らなくていいの?」
「もう少ししたら行く」
牛若は書物を開いた。
さっきと同じ名があった。その先を読む。
生まれた土地。幼くして失った父。兄弟と過ごした日々。
短い文字の列を追うたび、忘れていた声が聞こえた。
紙をめくる。
劉備と初めて会った日のことまで、ここには書かれている。
けれど、あの人がどこで笑ったかはない。話が長くなり、差し出された椀が冷めてしまったことも。
牛若の指が紙の端を押さえた。
読み進めるうち、陣中の最期に行き着いた。
病を得て、軍中で没した。
その先にも文字が続いている。
手を止めたまま、牛若は何度もそこを読んだ。
誰かが、自分の死を書いた。
自分が灯を見失ったあとにも、人は生きて、この記録を残したのだ。
「また目が回るのか」
千寿がそばへ来た。
牛若は首を振った。千寿が膝をつき、開いた書物をのぞく。
「何が書いてある?」
「……この人が、亡くなったと」
「さっき見てた人?」
「うん」
千寿は牛若の指の先を見る。文字を追おうと眉を寄せ、やがて牛若へ顔を戻した。
「おまえ、これが読めるのか」
牛若は紙から手を離した。
いつ、どうして。
その答えは、もう分かっている。
「全部ではないよ」
千寿はもう一度書物を見る。
「私には、ほとんど分からない」
牛若は読んでいた行へ目を落とした。
千寿へ話せることを探しても、出てくるのは一緒に戦った者の顔ばかりだった。
書物を閉じる。
「もういいのか?」
「今日は、ここまでにする」
千寿が立ち上がり、牛若にも手を差し出した。
「飯、食べられそうか」
牛若はその手を取った。
「食べられる」
「じゃあ、行こう。待っててもらってるんだ」
戸を出る前に、牛若は振り返った。
書物は置いたところにあった。
まだ読んでいない紙が、その先に残っている。
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