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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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第五話 夢の向こう 

第五話 夢の向こう 


 夜半、牛若は手を伸ばした。


 つかんだ袖は、母のものではなかった。


「兄上」


 振り返った男は、今若よりずっと背が高い。

 泥のついた裾を引かれて足を止め、牛若の手元を見下ろした。


「どうした。歩けぬか」


 首を振る。


 道端に、女が座っていた。子を膝に寝かせている。こちらを見ているのに、何も言わない。


 昨日まで寺にいた母子ではなかった。


 男は懐へ手を入れる。布を開くと、干した食べ物が二切れあった。

 その一つを牛若へ渡し、もう一つを女の前に置いた。


 女が両手で拾う。


 男は歩き出しかけた。


「兄上」


 また袖を引く。


 牛若が指した先にも、人がいた。木の根元に二人。その向こうの溝にも、誰かが横たわっている。


 男の手が、空になった布を握り潰した。


「……行くぞ」


 袖を引いても、今度は止まらない。


 牛若は手の中の一切れを見た。腹が鳴る。口へ運ぼうとして、女の膝で子が身を起こすのが見えた。


 踵を返す。


「待て!」


 後ろから腕をつかまれた。


 食べ物が手を離れる。


 拾わなければ。


 土の上へ落ちる前に――。


 牛若は寝床から身を起こした。


 両手を見ても、何もない。


 隣で千寿が寝返りを打つ。


「……どうした」


「ごめん。起こした?」


「ん……」


 千寿は目を閉じたまま手を伸ばし、牛若の膝に触れた。


「寝ろよ。朝、起きられなくなる」


 返事をする前に、寝息へ戻ってしまう。


 牛若は横になった。手を衣の中へ入れても、夢の中で空腹だった腹が、まだ痛む気がした。


     *


 翌朝、牛若は粥を残さず食べた。


 椀の底についた米粒まで拾っていると、千寿がのぞき込む。


「今日は腹が空いてるんだな」


「千寿も、そこに残ってる」


「どこ」


「縁のところ」


 千寿は椀を回し、見つけた一粒を口へ入れた。


「これでいいか」


「うん」


 膳を下げると、牛若は厨の奥へ目を向けた。僧が米の入った袋を縛っている。


「それ、里へ持っていくの?」


「いや、しまっておく分だ」


「この前の家には、また持っていく?」


 僧の手が止まる。


「あの家だけではないからな。ほかにも待っておる者がいる」


「足りる?」


「皆が欲しいだけ持っていけば、ここで食べる分までなくなる」


 牛若は袋を見つめた。


「……じゃあ、どうするの」


「それで困っておる。昨日も、もう少し出せぬかと頼まれた」


 僧は袋を抱えようとして、腰を押さえた。


「いかん。おい、誰か――」


「ぼくも持つ」


 牛若が下から手を添える。千寿も膳を置き、反対側へ回った。


「せーので持つぞ」


「うん」


 重みが腕にかかる。三人でようやく持ち上げた袋を、牛若は離さなかった。


 夢の男も、これくらいの食べ物があれば、立ち止まっただろうか。


「牛若、そっちへ寄ると戸に挟まる!」


 千寿の声に、慌てて肩を引く。


「足元を見ろ」


 僧にも言われ、牛若は袋の陰から床をのぞいた。


 一歩ずつ、米をこぼさないように運んだ。


 袋を下ろすと、千寿はその場に座り込んだ。


「重かった……」


「助かった。二人とも、ありがとう」


 僧が腰を伸ばす。牛若は袋の口を見た。結び目のそばに、米粒が一つ挟まっている。


「ここ、こぼれるよ」


「おや。縛り直さねばな」


 牛若が指で押し戻すと、僧は紐をほどいた。傍らの板を膝へ寄せ、筆を取る。


「それ、何を書いてるの?」


「どれだけ残っておるかだ。忘れて同じ袋を二度数えては困る」


 千寿が立ち上がり、戸口へ向かう。


「牛若、行くぞ」


「もう少し」


「また?」


 千寿は戸の柱へもたれた。


 牛若が膝を寄せると、僧は板をこちらへ傾けてくれた。

 袋につけた印と、その隣に数字が並んでいる。


「この袋も?」


「今、運んだ分だ」


「なくなる前に、また持ってきてもらうの?」


「届くはずのものが届かぬこともある。そこが難しい」


 僧が筆を置き、板の隅を指した。


「これはまだ来ておらぬ。道で何かあったのか、こちらから人を出して確かめねばならん」


 牛若はその指先を見つめた。


 薄暗い部屋。


 机いっぱいに広げられた紙と、墨のついた指。


 誰かが、同じように紙の端を押さえている。


 ――まだ、届かぬのですか。


「牛若?」


 肩を叩かれ、顔を上げた。


 千寿がすぐそばにいる。


「呼ばれてるぞ」


「……え?」


「仕事が済んだから、出ろって」


 僧が袋を脇へ寄せていた。牛若は慌てて立ち上がり、戸口で頭を下げる。


「ありがとうございました」


 千寿に腕を引かれ、外へ出た。


「おまえ、目を開けたまま寝てたのか」


「寝てない」


「返事しなかっただろ」


 牛若は腕をさすった。今も、机へ手を伸ばせそうな気がする。

 けれど、何が置いてあったのか思い出そうとすると、紙も指もぼやけてしまう。


「具合、悪い?」


「違う。……変な夢を見たんだ」


「さっき?」


「夜。今も、少しだけ」


 千寿の手が腕から離れた。


「起きてるのに?」


 牛若はうなずく。


 二人で廊へ上がった。千寿は牛若を座らせ、自分も隣へ腰を下ろす。


「どんな夢」


「知らない人と歩いてた。その人を、兄上って呼んでた」


「今若殿じゃなくて?」


「うん」


 千寿は首を傾げた。


「ほかにも兄上がいるんだろ。その人じゃないか」


「会ったこと、ないのに?」


「私だって、会ったことのない伯父がいる。母から聞いただけだけど、夢に出てきたぞ」


「どんな人だった?」


「顔がなかった」


 牛若は千寿を見る。


「怖くない?」


「顔を知らないんだから、仕方ないだろ」


 千寿は真面目に答えた。牛若が笑うと、つられて口元を緩める。


 けれど、夢の兄には顔があった。


 腕をつかまれたところを、牛若はもう一度押さえる。


「また同じ夢を見たら、教えてよ」


「どうして?」


「気になるだろ。知らない兄上が、おまえを迎えに来たりしないか」


「来ないよ」


「なら、いい」


 千寿は脚を投げ出した。


 牛若も隣で膝を抱える。廊の向こうから僧が来て、二人を見るなり足を止めた。


「ここにおったか。薪を割るのを手伝え」


 千寿が牛若の肩へ額をぶつける。


「逃げればよかった……」


 牛若は笑いながら、その背を押した。


「牛若、もういいぞ」


 薪を束ねていた僧に呼ばれても、牛若は返事をしなかった。


 千寿が横から顔をのぞく。


「牛若」


「あ、うん」


「今日はそれで二度目だぞ」


 千寿は結び終えた束を抱え、牛若の膝に載せた。


「これ、持っていけるか?」


「持てるよ」


「じゃあ頼む。私の腕、もう上がらない」


 言いながら肩を回す千寿を見て、牛若は束を抱き直した。立つと、薪の端が顎に当たる。


「前、見えるか」


「少し」


「少しじゃ駄目だろ」


 千寿が何本か抜き取り、自分の脇へ挟んだ。


 二人で厨へ運び終える頃には、牛若も夢のことを忘れていた。

 袖についた木屑を払い、千寿の背にもついているのを取ってやる。


「まだある?」


「頭にも」


「どこ」


「動かないで」


 つまみ取ろうとした指を、千寿が振り向いて避けた。牛若の指が額を突く。


「痛っ」


「動くから!」


 厨の僧に振り返られ、二人とも口を閉じた。


     *


 夢を見る夜は、それからもあった。


 あの道を歩くこともあれば、家の中にいることもある。

 知らない兄は、いつも牛若より先に何かを見つけた。道の窪みも、雨の来そうな雲も。


 目覚めて顔を思い出そうとすると、もう分からない。


 そのくせ、叱られたときの声だけは耳に残った。


 いつもの書写の時間、牛若は手本を脇へ寄せた。


 僧が別の稚児の字を見ている間に、紙の端へ兄の顔を描いてみる。


 眉を二本。その下に目。


 違う。


 筆を持ったまま首を傾げていると、千寿がのぞき込んだ。


「誰?」


「夢に出てくる兄上」


「そんな顔なのか」


「違うんだ。描こうとすると、分からなくなる」


 千寿は絵を見つめたあと、牛若の顔を見る。


「おまえに似てるな」


「え?」


「眉。その描き方」


 牛若が紙へ目を戻す。千寿は自分の筆を取り、手本の続きを書き始めた。


 兄は、どんな眉だっただろう。


 夢の中では、見ればすぐに分かるのに。


 筆先が紙に触れた。


 顔の下へ、字が一つできる。


 牛若は手を止めた。


「これは、何と読む?」


 僧がすぐ後ろに立っていた。


「……分からない」


「自分で書いたのではないか」


「そうだけど」


 僧は紙を取り上げた。手本と見比べ、牛若へ返す。


「『亮』だ。りょう、と読む」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 牛若は紙を受け取る。指先に墨がついたが、拭こうとは思わなかった。


「どこで覚えた」


「覚えてない」


「書物で見たのかもしれぬな。さあ、顔の続きを描くなら、課業が済んでからだ」


 僧が離れていく。


 牛若は手本を戻した。それでも、端の一字から目が離れない。


 夢の兄が呼んでいた。


 道端で立ち止まったときも、食べ物を落としかけたときも。


 牛若ではなかった。


「……りょう」


 口にしてみる。


 千寿が筆を止めた。


「どうした?」


 牛若は紙を押さえた。絵の兄は、少しも似ていない。けれど、その字だけは消したくなかった。


「この紙、捨てないで」


「捨てないよ。おまえのだろ」


 千寿は硯を二人の間へ寄せた。


「ほら。続き、やらないとまた叱られるぞ」


 牛若は筆を握り直した。手本の最初の字へ戻るまでに、何度も、紙の端を見た。


 その紙は、書物の間に挟んでおいた。


 何日かして開いてみても、夢の兄の顔は戻ってこない。

 自分で描いた眉を見ているうちに、夢の中でもこんな顔だったような気がして、牛若はすぐに閉じた。


 紙の端の「亮」だけは、もう手本がなくても書けた。


 千寿に何度も書いているところを見られ、字の稽古かと聞かれた。


「うん」


 そう答えると、千寿は隣で自分の名を書き始めた。


     *


 常盤が訪ねてきたのは、それからしばらく後だった。


 牛若は呼びに来た僧の話を最後まで聞かず、廊へ飛び出した。曲がり角で千寿とぶつかりそうになる。


「どこへ――」


「母上!」


 千寿がさっと壁へ寄った。


 客を迎える部屋には、常盤が座っていた。牛若を見るなり立ち上がりかける。


「牛若」


 膝へ飛び込むと、懐かしい匂いがした。


「あらまあ。そんなに慌てて」


 常盤の手が背へ回る。牛若は顔を上げず、母の衣をつかんだ。


「どうしたの?」


「……何でもない」


「顔を見せて。せっかく来たのに、頭しか見えないわ」


 牛若が顔を上げると、常盤は両手で頬に触れた。


「よく食べている?」


「食べてる」


「眠れてる?」


「うん」


 答えてから、牛若は母の手へ自分の手を重ねた。


「夢は見るけど」


「怖い夢?」


「怖くないのも、ある」


 常盤の指が頬を撫でる。


「怖いときは、誰かに言える?」


「千寿が聞いてくれる」


「そう。千寿殿にも、お礼を言わなくちゃ」


 牛若はうなずいた。それから母の膝を離れ、部屋の入口を振り返る。


「見せたいものがある。待ってて」


「走らなくていいのよ」


 返事をしながら、もう走っていた。


 書物から紙を抜き取り、戻ってくる。常盤の前へ広げると、描きかけの顔が上を向いた。


「牛若が描いたの?」


「夢に出てくる人」


 常盤は紙を持ち上げた。


「会ったことのない人?」


「うん。でも、知ってるんだ」


「夢の中では?」


「……起きても、知ってる気がする」


 常盤はもう一度、絵を見る。


 牛若は端の字を指した。


「これ、その人が呼ぶ名前」


「亮……」


 母の口から聞くと、夢の声とはまるで違った。


 牛若は紙を引き寄せる。


「変だよね」


「牛若」


「知らない人を兄上って呼ぶんだ。今若兄上でも、乙若兄上でもないのに」


 常盤の手が牛若の肩へ触れた。


「だから、兄上が好きじゃなくなったわけではないでしょう?」


 牛若は強く首を振る。


「母上も好きだよ」


「ええ」


「ほんとに」


 常盤は紙を脇へ置き、牛若をもう一度抱き寄せた。


「知っているわ」


 牛若の額が母の肩に当たる。背を撫でる手は、幼い頃と同じだった。


 戸口で衣の擦れる音がした。


「……入っても、よいですか」


 千寿が立っている。手には、湯の入った椀を載せた盆があった。


 牛若が慌てて離れようとすると、常盤は腕を緩めながら笑った。


「千寿殿ね。いつも牛若と仲良くしてくださって、ありがとう」


「いえ。私は、別に」


 千寿が盆を置く。牛若と目が合うと、少しだけ口元が動いた。


「走ったら、叱られるぞ」


「母上が来たから」


「見れば分かる」


 常盤が二人を見比べる。


「私にも、寺でのことを聞かせてくれる?」


 牛若が口を開くより先に、千寿が座った。


「では、牛若が私の飯まで食べた話を」


「食べていいって言った!」


「半分とは言ってない」


 常盤が声を立てて笑う。


 牛若は紙が膝に当たらないよう、そっと脇へ寄せた。


「半分も食べてないよ」


「私が振り向いたときには、もうなかった」


「千寿が、いらないって言うから」


「少し分けてやるって言ったんだ」


 牛若が常盤を見ると、母は笑いながら懐の包みを取り出した。


「それなら今日は、一つずつね」


 開いた紙の上に、小さな干し柿が並んでいる。


 牛若が手を伸ばす。千寿は膝の上で両手を揃えたまま、常盤を見た。


「私も、いただいてよいのですか」


「ええ。千寿殿の分も持ってきたのよ」


 両手で受け取った千寿が頭を下げる。牛若はもうかじっていた。


「甘い」


「ほんとだ」


 千寿も口を動かし、柿を眺める。いつもならすぐに食べ終えるのに、

 今度は端から少しずつかじっている。


 常盤が椀へ手を伸ばしたとき、袖がずれた。


「母上、血が出てる」


 牛若がその手首をつかむ。


「ああ、枝に引っかけてしまったの。もう止まっているわ」


「痛い?」


「少しだけ」


 牛若が顔を近づけると、常盤は手を返して傷を見せた。


「帰ったら洗うから、大丈夫よ」


「ここにも水、あるよ」


 立ち上がろうとした牛若を、常盤が空いた手で引き寄せる。


「あとでお願いしようか。今は、ここにいて」


 牛若は母の隣へ座り直した。


 千寿が柿の種を紙に置く。牛若も種を出すと、千寿は二人の分を数え始めた。


「私の、三つ」


「ぼくも三つ」


 千寿は残りをかじり、もう一つ出した。


「四つ」


「種が多いと、食べるところが少ないんじゃない?」


 千寿が手の中の柿を見た。常盤が笑い、牛若も笑う。


「笑うなよ。甘いから、いいんだ」


     *


 帰り支度をする前に、牛若は水と布を持ってきた。


 常盤の手首へ濡らした布を当てる。母がわずかに指を曲げたので、慌てて離した。


「痛かった?」


「びっくりしただけ。ありがとう」


 傷の周りをそっと拭き、布を畳む。


 常盤は包みを牛若へ渡した。柿が二つ残っている。


「これは、あとで二人で食べてね」


 牛若は一つ取り出した。


「母上も持っていって」


「あなたたちの分よ」


「一つを半分にするから」


 千寿を振り返ると、すぐにうなずいてくれた。


「私も、それでよいです」


 常盤は二人を見てから、柿を受け取った。


「では、帰り道でいただこうか」


 母が懐へしまうのを見届け、牛若は残りを包み直す。


 門までは手をつないで歩いた。千寿も少し後ろからついてくる。


 石段の上で僧が待っていた。里で用があるので、途中まで一緒に下りてくれるという。


 常盤は牛若の前に膝を折った。


「また来るわね」


「いつ?」


「まだ決められないけれど、来る前に知らせるわ」


 牛若は母の手を両手で包んだ。傷のところだけ、指が触れないようにする。


「走らなくていいから」


「走ってきたのは、牛若でしょう」


 常盤が笑う。牛若も口元を緩め、手を離した。


 母は立ち上がり、千寿にも声をかけてから石段を下り始めた。


 途中で振り返る。


 牛若は大きく手を振った。母も手を上げ、僧に何か話しかけながら、また下りていく。


 木々の間に衣の色が見えなくなっても、牛若は門を出たところに立っていた。


 千寿が肩を並べる。


「もう見えないな」


「少し下りたら、見えるかな」


「下りるなら、僧に言わないと」


 牛若は石段へ足をかけかけて、戻した。


 千寿が包みを指す。


「柿、食べる?」


「……うん」


 二人で門の脇へ座る。千寿が柿を裂くと、大きさがずいぶん違ってしまった。


「どっち」


 牛若は小さいほうを取った。


 千寿が口へ運ぶ。牛若は柿を持ったまま、木々の向こうを見ていた。


「食べないのか」


「食べるよ」


 ひと口かじる。さっき母と食べたときより、固い気がした。


 牛若はもう一度、石段の下へ顔を向ける。


「母上、もう柿を食べたかな」


「まだじゃないか。歩いてるんだろ」


 千寿が隣で柿をかじった。牛若も、少しずつ口へ運んだ。

「ここまでお読みいただきありがとうございます!

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