第一話 雪の中の腕
第一節 常盤の子
第一話 雪の中の腕
雪を踏むたび、常盤の足が沈んだ。
腕の中で、牛若が身じろぎする。冷たい風が頬に触れたのか、小さな顔をしかめていた。
常盤は袖を引き上げ、牛若の顔を包む。
そうすると前が見えにくくなったが、立ち止まるわけにはいかなかった。
「母上、まだ歩くの?」
少し先を行く今若が振り返った。隣には乙若がいる。二人とも、雪の上では足を取られていた。
「もう少しよ」
常盤は答えた。どこまで行けば休めるのか、自分にも分からない。
今若が乙若の手を取って歩き出す。常盤はその背を追った。都を出てから、二人には何度も同じことを言っている。もう少し。あと少し。次に言うときこそ、本当に休ませてやりたかった。
牛若が泣き出した。
常盤は道の脇に寄り、背中を丸めて風を遮った。袖の内側はまだ温かい。
牛若の頬に指を当てると、赤くなっていた。
「寒かったね」
指を握られる。牛若の手は小さく、常盤の指一本を包むのがやっとだった。
今若と乙若も戻ってきた。
「牛若、どうしたの」
「大丈夫よ。少し休めば」
乙若が牛若の顔をのぞくと、牛若は泣きながらその声のほうを向いた。
今若は道の先を見ている。歩いてきた方角も気になるのだろう。何度も振り返っていた。
常盤は牛若を抱き直した。今若に声をかけようとして、先に唇を結ぶ。怖くないと言えば、嘘になる。
「二人とも、私のそばにいてね」
今若がうなずいた。乙若も常盤の袖をつかむ。
常盤は三人の顔を見て、それから雪の道へ目を戻した。
「行きましょう」
腕の中の牛若は、まだ常盤の指を握っていた。
道は林の中へ続いていた。
枝から落ちた雪が今若の肩にかかる。今若は立ち止まって払い、それから乙若を待った。
乙若の足が雪に埋まり、なかなか抜けない。
常盤は牛若を抱いたまま二人に近づいた。
「少し、こちらへ」
乙若の足元の雪を崩すと、ようやく足が抜けた。濡れた履物を見て、常盤は自分の袖で泥を拭った。
「母上の手も冷たいよ」
乙若が言った。
「そうね。早く火のあるところへ行きましょう」
常盤が立ち上がると、今若が林の先を指さした。木々の間に、かすかな明かりが見える。
「家かな」
「行ってみましょう」
近づくにつれ、低い屋根と、戸口から漏れる火の色が見えた。
常盤はすぐには声をかけられなかった。追う者のいる身だ。戸を開けてくれるとも限らない。
腕の中で牛若がまた泣いた。乙若が常盤の袖を握り、今若は戸口を見上げている。
常盤は戸の前に立った。
「夜分に申し訳ありません」
中で物音が止まる。
「子を三人連れています。少しの間だけ、雪を避けさせていただけませんか」
返事はなかった。常盤は牛若を抱く腕に力を込めた。
やがて戸の向こうから足音が近づき、閂の外れる音がした。
戸が、わずかに開いた。
隙間から男の顔がのぞく。常盤がもう一度頼もうとする前に、牛若が声を上げた。
男の視線が腕の中へ落ちる。
「……ずいぶん小さいな」
常盤は牛若の顔を袖で覆った。
「今夜だけ、雪を避けさせてください。朝になれば出ていきます」
男は答えず、今若と乙若を見た。二人は常盤のそばに並んでいる。
今若は男を見返していたが、乙若は常盤の衣の後ろに隠れた。
男が戸を大きく開ける。
「火は奥だ。早く入れ」
常盤は頭を下げ、二人を先に通した。戸が閉まると、背中を押し続けていた風がやんだ。
火の音が聞こえる。
乙若が土間の端で立ち止まった。濡れた履物から、雪が水になって落ちている。
「汚してしまいます」
常盤が言うと、男は足元を一度見ただけだった。
「雪の日は、誰が来てもそうなる」
今若が乙若の履物を脱がせようとした。乙若は足を引き、うまく脱げない。
常盤が牛若を片腕で支えながら膝をつくと、今若が顔を寄せてきた。
「母上、ぼくがやる」
今若は乙若の踵をそっと押した。履物が抜け、乙若は声を漏らす。
赤くなった足先を見て、今若の手が止まった。
「火のそばにおいで」
常盤がそう言っても、今若は先に乙若を座らせ、自分はその隣に腰を下ろした。
男が薪を一本、火にくべた。炎が高くなる。
常盤はそこで初めて、自分の腕が牛若の重みで震えていることに気づいた。
「抱いていようか」
男に声をかけられ、常盤はとっさに牛若を胸へ引き寄せた。
男はそれ以上近づかず、炉の向こうへ座る。
常盤は返事ができなかった。牛若の頬に触れると、先ほどより温かい。
握られていた指を抜こうとしても、眠った牛若は離さなかった。
今若が火越しにこちらを見る。
「母上も、こっちに来て」
常盤はうなずき、三人のそばへ座った。ようやく火の熱が膝に届いた。
乙若は火に足を向けたまま、うとうとしていた。今若が肩を貸すと、乙若はそのまま寄りかかる。
今若も目をこすっていたが、常盤と目が合うと、何でもないように背を伸ばした。
男は炉の向こうで椀を三つ並べていた。湯を注ぎ、常盤たちの前へ押しやる。
「熱いから、子には少し冷ましてやれ」
常盤が礼を言うと、今若が椀を受け取った。両手で包み、まず乙若の口元へ運ぶ。
乙若は眠そうな顔でひと口飲んだ。
「今若も飲んで」
「母上が先に」
「私はあとで飲むわ」
今若は常盤の腕の中を見た。
「牛若は?」
「まだ飲めないから、私が抱いている」
そう答えると、今若はようやく椀に口をつけた。湯気が顔にかかり、目を細める。
その顔が少しだけ幼く戻ったように見えた。
外で、雪を踏む音がした。
常盤は顔を上げた。男も戸のほうを見る。足音は近づいて、家の前を通り過ぎていった。
今若は椀を持ったまま動かない。
「誰か、歩いているだけよ」
常盤は言った。今若がうなずくまで、自分も戸から目を離せなかった。
やがて乙若の寝息が聞こえ始める。今若も椀を置き、乙若を支えたまま壁にもたれた。
常盤は空いた手で、今若の肩にずり落ちかけた衣を掛け直す。
「母上は眠らないの」
目を閉じたまま、今若が聞いた。
「二人が眠ったら」
「牛若も?」
「牛若も」
今若の返事はなかった。常盤の腕の中では、牛若がまだ指を握っている。
今若と乙若の寝息が揃うまで、常盤はその手を離さずにいた。
常盤は、いつの間にか眠っていた。
戸を叩く音で目が覚める。牛若を抱く腕に力が入り、まだ眠っている子の顔をのぞいた。
男が戸口へ向かう。常盤は今若を揺り起こそうとして、やめた。
今若は乙若を支えたまま、壁にもたれている。
「こんな時刻に誰だ」
男が戸の向こうへ声をかけた。
「道を尋ねたい。都へ戻るには、この先でよいか」
常盤は息を止めた。聞き覚えのない声だった。男が振り返ると、常盤は首を横に振る。
男はうなずきもせず、戸へ向き直った。
「この雪では先が見えん。明るくなるまで待つことだ」
「急ぎの用だ」
「なら、来た道を戻れ。ここから先は細い」
しばらく返事がない。やがて戸の外で雪を踏む音がして、遠ざかっていった。
男はすぐには戻らなかった。戸の隙間から外を見て、それから閂に手をかけたまま言う。
「知った者か」
「分かりません」
常盤の声に、今若が目を開けた。戸口と常盤を交互に見て、乙若の肩を抱く手に力を込める。
男は炉へ戻り、崩れた薪を寄せた。
「夜が明けたら出ていくと言ったな」
「はい」
「雪がやむまでいろ。子を連れて、この暗がりへは出せん」
常盤は礼を言おうとしたが、うまく声が出なかった。今若が常盤を見ている。
その目に、戸を叩く音がまだ残っているようだった。
「大丈夫よ」
常盤は今若の手に触れた。冷えはもう引いている。
今若は小さくうなずき、乙若が起きないよう、また壁に背を預けた。
朝になっても、雪はやまない。
乙若が目を覚まし、知らない家の中をきょろきょろと見回した。
常盤と目が合うと、急いでそばへ寄ってくる。
「もう行くの?」
「雪がやんでからよ。足はどう?」
乙若は片足を上げ、指先を動かしてみせた。
「歩ける」
「よかった」
戸口のほうで、男が閂を外す音がする。常盤の肩に力が入った。男は戸を少し開け、外を見ている。
「昨夜の足跡は、もう消えた」
戸が閉まる。常盤は胸の内に留めていた息を吐いた。
今若が男から椀を受け取った。湯気の立つ湯を乙若に渡し、自分の分を持って火のそばへ戻る。
「母上のは?」
「そこに置いてある」
男が炉の端を示した。常盤は礼を言い、椀を手に取る。温かさが指に移るころ、腕の中で牛若が動いた。
牛若の目が開く。
常盤を見上げ、昨日から離さなかった指をいったん放したかと思うと、また握り直した。
「おはよう、牛若」
戸の外には、まだ知らない道が続いている。常盤はそれを思うと落ち着かなかったが、
今若と乙若は並んで湯を飲み、牛若は自分の腕の中にいる。
椀を口に運ぶ。熱くて、すぐには飲めない。
「母上、ふうってしないと」
乙若が自分の椀を吹いてみせる。常盤も真似をすると、今若が笑った。
常盤はもう一度、湯に息を吹きかけた。
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