プロローグ 見届けられぬ道
プロローグ 見届けられぬ道
夜が更けても、陣中の灯は消えなかった。
机の上には報せが積まれている。兵の数、糧の残り、道の具合。
どれも明日を考えるために必要なものだった。諸葛亮は最後の一通を読み終え、筆を置いた。
指先が、思うように動かない。
それでも、まだ考えることはあった。今夜のうちに命じておくべきことも、確かめておくべきこともある。諸葛亮は次の書状へ手を伸ばしたが、紙の端に触れたところで動きを止めた。
灯の火が揺れる。
風が入ったのだろうか。顔を上げても、帳の外は静かだった。
諸葛亮は書状を引き寄せる。何度か同じ行を追ってから、ようやく内容が頭に入った。
読み違えぬよう、もう一度、初めから目を通す。
遠くで兵たちの声がした。見張りを交代する頃合いらしい。
彼らには、明日もその次の日もある。今夜の報せに目を通すのは、そのためだった。
「丞相」
帳の外から声がした。諸葛亮が返事をすると、控えていた者が入ってくる。
手には湯気の立つ椀があった。
「少しでも、お召し上がりください」
「そこへ置いてください」
相手は椀を机の端に置いたが、すぐには下がらなかった。積まれた書状と、諸葛亮の手元を見ている。
「残りは明朝にしては」
「明朝には、別の報せが来ます」
そう答えると、相手は黙って頭を下げた。退出する足音が遠ざかり、また紙をめくる音だけが残る。
諸葛亮は椀を取った。まだ温かい。口をつけると、思っていたより喉が渇いていたことに気づく。
半分ほど飲んで机に戻し、先ほどの書状へ目を落とした。
そこには、ある道の通行が滞っているとあった。兵を動かすにも、
糧を運ぶにも使う道だ。諸葛亮は地図を広げ、迂回できる場所を指でたどった。
指が止まる。
この道も、雨が降れば使えない。
朱を入れようとして、筆先を紙の上に留めた。別の道を考えなければならない。
分かっているのに、地図の線がかすんで見えた。
諸葛亮は筆を置き、しばらく目を閉じた。
休むつもりはなかった。ただ、線をもう一度はっきり見るためだった。
閉じた目の奥に、灯が見えた。
今いる帳の灯ではない。もっと昔、劉備と向かい合った夜の灯だった。
劉備は何かを話しながら、冷めかけた椀を諸葛亮の前へ押した。
諸葛亮が答えると、劉備は笑って首を振る。また言い返そうとして、諸葛亮も笑った。
声は、もう聞こえない。
諸葛亮は目を開けた。机の上には地図があり、先ほどの椀がある。湯気は消えていた。
筆を取り、道の脇に小さく印をつける。明日は人を出して確かめさせよう。
そう決めて、指示を書き添えようとした。
筆先が震えた。
墨が落ち、地図の端に黒い染みを作る。
諸葛亮は筆を持ち直した。字を一つ書く。
次の字も書けた。三つ目の途中で線が曲がり、そこで手を止める。
「……誰か」
帳の外に呼びかけた声は、思ったより小さかった。
すぐに足音が近づく。諸葛亮は地図を示し、明朝、この道を調べてほしいと伝えた。
相手は一度で聞き取り、地図を受け取る。
その手に紙が渡ったのを見届けて、諸葛亮は机に肘をついた。
劉備と話した夜には、まだ先があると思っていた。
あのとき差し出された椀を飲み干し、二人で続きを語った。その続きが、今も終わっていない。
地図を持った者が帳を出ていく。
諸葛亮は、その背を呼び止めかけた。もう一つ、伝えることがあった気がする。
だが、何を言おうとしたのか思い出せない。
帳が下り、足音が遠ざかった。
机の上に手を伸ばす。書状はまだ残っている。今夜のうちに読むつもりだったものだ。
封を切ろうとして、諸葛亮は指を離した。
明朝、読もう。
そう考えた自分に、わずかに驚く。
冷えた椀を脇へ寄せ、書状を一番上に置いた。朝になれば、すぐに分かるように。
帳の外から風が吹き込み、灯が細く揺れた。
諸葛亮は劉備の名を口にしようとした。けれど声にはならない。
あの夜、向かい合って語ったことを思い出す。その先にあるものを、いつか二人で見るつもりだった。
劉備は、もういない。
そして自分も、この道の行く末を見届けることはできないのだろう。
諸葛亮は書状へ向けた手を静かに下ろした。
灯の揺れが、見えなくなった。




