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義士英雄譚-緑と赤の誓い-  作者: レイン
第二章 鞍馬の稚児

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幕間 保元元年(一一五六年)(4)

 腕を吊っていた布を外してからも、為朝は毎朝、家の裏で木の枝を曲げていた。


 初めは細い枝さえ握っていられなかった。今は、親指ほどの太さなら両手で撓(たわ)ませられる。

 ただ、力を緩めるときに肘が痛む。

 今日も枝を取り落とし、足元へ屈んだところへ、浜で会った子供が駆け込んできた。


「でかい人!」


「名で呼べと申したであろう」


「為朝! 船が来た!」


「船なら昨日も来た」


「でも、あんたを捜してる人が乗ってる」


 為朝は枝を拾わず、顔を上げた。


 浜には荷を下ろす男たちがいる。その中で一人だけ、降ろした荷をまた背負おうとしていた。

 長い包みが肩から滑り、男は慌てて両腕で抱え直す。


 為朝が砂を踏む音に、男が振り返った。


「……為朝様」


 頬が痩せていた。剃った頭には短い髪が生え、袖から出た腕は以前より細い。


 為朝は男の前まで来て、足を止める。


「何をしに参った」


「お預かりしたものを」


 男が包みを差し出す。


 為朝は受け取らなかった。


「戻れとは申したが、島まで追って参れとは申しておらぬ」


「はい」


「ここへ来て、どうするつもりだ」


「それは……」


 郎等は包みを抱えたまま、為朝の腕を見た。


「お怪我はいかがでございますか」


「見て分からぬか」


「見たところで、私には分かりませぬ」


 為朝は口をつぐむ。


 郎等は包みへ目を落とし、紐を解き始めた。布の下から、見慣れた弓の握りが現れる。


「濡らしてはおりませぬ。途中、雨に遭いましたが、屋根のあるところで待ちました。

 船でも、荷の下には置かせず……」


「もうよい」


「傷も、つけておりませぬ」


「もうよいと申しておる」


 郎等の手が止まる。


 為朝は弓へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。郎等はそれを見ても、弓を下げようとしない。


「儂は、引けぬぞ」


「今は、でしょう」


「二度と引けぬかもしれぬ」


「では、そのときに仰せください」


 為朝は郎等の顔を見る。


 男の唇が震えていた。弓を差し出す腕まで震え始め、為朝はようやくその下へ手を添えた。


「……重かったか」


「いえ」


「嘘を申せ。おまえには大きすぎる」


「為朝様の弓ですから」


 郎等が笑おうとする。うまく笑えず、顔を伏せた。


 為朝は弓を受け取り、動くほうの腕で脇へ抱える。

 空いた手を郎等の肩へ置くと、男はそこへ額を押しつけた。


「ご無事で……」


 続きが出てこない。


 為朝は浜を見た。荷を運ぶ男が足を止めていたが、目が合うと、何も言わず仕事へ戻っていく。


「飯は」


 郎等が首を振る。


「ならば、来い」


 肩を離そうとすると、袖をつかまれた。


 為朝はその手を見下ろす。


「歩けるか」


「はい」


「では、離さずともよい」


 郎等を横に従え、家へ向かう。


 弓の端が砂へ触れそうになり、為朝は抱え直した。吊らなくなった腕が、少しだけ上がる。


 それを見た郎等が弓へ手を添えた。


 為朝は、今度は振り払わなかった。


 翌朝、為朝が目を覚ますと、隣の莚(むしろ)は空いていた。


 炉には火が入っている。外から、木を削る音が聞こえた。


 戸を開けると、郎等が膝の間に枝を挟み、小刀を動かしていた。傍らには削り屑が積もっている。


「何をしておる」


 郎等は顔を上げ、すぐに手元を隠しかける。


「隠すな。見えておる」


「……弓にございます」


 為朝は、戸の脇に立てかけた自分の弓を振り返った。


「儂の弓なら、そこにある」


「はい」


「ならば、誰のために作る」


 郎等は答えず、膝に置いた枝へ目を落とす。


 細い枝だった。両端を削り、紐を結べるよう溝をつけている。


 為朝は外へ出た。郎等が腰を浮かせたが、手で制して、自分の弓を取る。


「為朝様、まだ――」


「黙っておれ」


 弓には弦が張っていない。


 為朝は弦の端を下へ掛け、弓の内側へ脚を入れた。上端を曲げようとすると、肘の奥が引きつる。


 もう少しだ。


 腕を伸ばし、弓へ体重を掛ける。弦の輪まで、あと指二本ほど。


 肘から力が抜けた。


 弓が跳ね返り、為朝の手を弾く。郎等が飛びついて受け止めたが、為朝はその肩を押しのけた。


「触るな!」


 郎等が弓を抱えたまま止まる。


 為朝は手を握り、開いた。昨日より動く。今朝、戸も自分で開けた。椀も持てる。


 なのに、この弓だけが張れない。


「貸せ」


「今日は、おやめください」


「貸せと申しておる」


 郎等がそっと弓を差し出す。為朝は受け取ったものの、もう一度脚を掛けることができなかった。


 肘が痛い。


 それよりも、今度も張れなければと思うと、手が動かなかった。


 家の中で、鍋を置く音がする。


「朝から何を怒鳴ってるんだい」


 女が戸口へ顔を出した。


 為朝は弓を壁へ立てかける。


「何でもない」


「その人、昨日やっと来たんだろ。まだ飯もろくに食べてないのに」


 女は郎等へ向かって手招きする。


「先に入んな。汁が煮えたよ」


 郎等は為朝を見た。為朝がうなずくまで待ち、削りかけの枝を足元へ置いて家に入る。


 為朝は一人、庭に残った。


 枝を拾う。握りのところだけ、薄い布が巻いてある。


 下手な仕事だった。削った面には刃の跡が残り、左右の長さも揃っていない。


 為朝は指で溝をなぞった。


 戸が鳴る。


 郎等が椀を持って出てきた。枝を握る為朝に気づき、足を止める。


「……それなら、腕を痛めずに引けるかと」


「儂に、童の弓を持てと申すか」


 郎等は唇を結び、それから頭を下げた。


「はい」


 為朝は枝を持ち上げる。軽い。あの弓とは比べものにならない。


「上が長い。これでは釣り合わぬ」


「直します」


「握りも細すぎる」


「布を足します」


 郎等は椀を置き、為朝の前へ膝をついた。


 為朝は枝を渡さず、空いた手を差し出す。


「小刀(こがたな)を」


 郎等が、鞘ごとその手へ乗せる。


 為朝は長すぎる側へ刃を当てた。押し込もうとして、傷のある腕がぶれる。


 郎等が枝の端を持った。


「押さえております」


「……そこではない。もう少し、内側だ」


「ここで」


「うむ」


 薄い木片が、二人の足元へ落ちる。


 為朝は刃を当て直した。


「汁、冷めちまったよ」


 戸口から声が飛び、郎等が慌てて立ち上がる。


 為朝は削りかけの弓を膝へ置いた。

 飯を済ませて戻るつもりだったが、女が差し出す椀の向こうから、子供が手元をのぞき込んでくる。


「それ、弓?」


「そうだ」


「ちっちゃいね」


 郎等が子供を止めようとする。為朝は椀を受け取り、汁をすすった。


「おまえには、まだ大きい」


「引けるよ」


「ならば、持ってみよ」


 子供は弓を受け取ると、片手をいっぱいに伸ばした。弦はまだ張っていない。

 それでも何かを狙うつもりらしく、庭の向こうへ顔を向ける。


「どこを射る」


「あの木」


「人がおるぞ」


 子供がびくりとして弓を下げる。木の陰には、洗った桶を運ぶ女の姿があった。


「弦も矢もないけど」


「持ったときから、気をつけるのだ」


 子供は木と女を見比べ、うなずいた。


 為朝は椀を空にして立ち上がる。


「貸せ」


 弓を返す小さな手から、握りを受け取る。布の厚さは、もう一巻き足したほうがよさそうだ。

 郎等が寄ってきて、弦を渡した。


 今度は張れた。


 細い枝が撓み、紐がまっすぐ伸びる。為朝は親指で弾いてみた。頼りない音に、郎等が顔を上げる。


「矢を持って参ります」


「儂の矢は使えぬ。重すぎる」


「では、何か……」


「俺のがある!」


 子供が走り出す。ほどなく戻ってきたときには、葦の棒を三本、胸に抱えていた。

 先に鏃はなく、羽の代わりに葉が結びつけてある。


 為朝は一本を取り、目の高さへかざした。


「曲がっておる」


「作ったときは、まっすぐだった」


「ならば、作ってから曲がったのであろう」


 子供が唇を尖らせる。為朝は残りの二本も見て、その中から一本を選んだ。


 郎等が庭の端へ莚を掛ける。人のいないことを確かめ、為朝は矢を番(つが)えた。


 握りを押す腕に、まだ力が入らない。


 弦を引く。肘の奥が痛み、肩までこわばる。郎等が何か言いかけたが、為朝は目だけで制した。


 もう少し。


 指を放す。


 矢は莚の手前へ落ち、土に跳ね返って横倒しになった。


 誰も声を出さない。


 為朝は落ちた矢を見ていた。以前なら、あの距離で的を外すなど考えたこともない。


「……紐が緩いのか」


 子供が自分の腹の前で、弦を引く真似をする。


「俺のも、あそこまでしか飛ばない」


 郎等が為朝をうかがった。


 為朝は歩き出し、矢を拾う。先についた泥を指で落とし、莚のそばへ立つ。


「ここからならどうだ」


「近すぎるよ!」


「当たらねば、始まらぬ」


 子供が笑った。


 為朝は弓を構え直す。郎等が今度こそ手を伸ばしかけ、途中で下ろしたのが、視界の端に見えた。


 矢を番える指に汗がにじむ。


 引き切る前に痛みが来る。歯を食いしばり、息を吐いてから、少しだけ腕を戻した。


 放った矢が、莚に触れて落ちる。


「当たった!」


 子供が駆け寄ろうとして、郎等につかまった。


「まだ前へ出るな」


「でも、当たったよ!」


 為朝は弓を下ろした。


「うむ」


 返事は、それだけにした。


 郎等が拾った矢を差し出す。為朝は汗ばんだ手を衣で拭い、もう一本、受け取った。



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