幕間 保元元年(一一五六年)(4)
腕を吊っていた布を外してからも、為朝は毎朝、家の裏で木の枝を曲げていた。
初めは細い枝さえ握っていられなかった。今は、親指ほどの太さなら両手で撓ませられる。
ただ、力を緩めるときに肘が痛む。
今日も枝を取り落とし、足元へ屈んだところへ、浜で会った子供が駆け込んできた。
「でかい人!」
「名で呼べと申したであろう」
「為朝! 船が来た!」
「船なら昨日も来た」
「でも、あんたを捜してる人が乗ってる」
為朝は枝を拾わず、顔を上げた。
浜には荷を下ろす男たちがいる。その中で一人だけ、降ろした荷をまた背負おうとしていた。
長い包みが肩から滑り、男は慌てて両腕で抱え直す。
為朝が砂を踏む音に、男が振り返った。
「……為朝様」
頬が痩せていた。剃った頭には短い髪が生え、袖から出た腕は以前より細い。
為朝は男の前まで来て、足を止める。
「何をしに参った」
「お預かりしたものを」
男が包みを差し出す。
為朝は受け取らなかった。
「戻れとは申したが、島まで追って参れとは申しておらぬ」
「はい」
「ここへ来て、どうするつもりだ」
「それは……」
郎等は包みを抱えたまま、為朝の腕を見た。
「お怪我はいかがでございますか」
「見て分からぬか」
「見たところで、私には分かりませぬ」
為朝は口をつぐむ。
郎等は包みへ目を落とし、紐を解き始めた。布の下から、見慣れた弓の握りが現れる。
「濡らしてはおりませぬ。途中、雨に遭いましたが、屋根のあるところで待ちました。
船でも、荷の下には置かせず……」
「もうよい」
「傷も、つけておりませぬ」
「もうよいと申しておる」
郎等の手が止まる。
為朝は弓へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。郎等はそれを見ても、弓を下げようとしない。
「儂は、引けぬぞ」
「今は、でしょう」
「二度と引けぬかもしれぬ」
「では、そのときに仰せください」
為朝は郎等の顔を見る。
男の唇が震えていた。弓を差し出す腕まで震え始め、為朝はようやくその下へ手を添えた。
「……重かったか」
「いえ」
「嘘を申せ。おまえには大きすぎる」
「為朝様の弓ですから」
郎等が笑おうとする。うまく笑えず、顔を伏せた。
為朝は弓を受け取り、動くほうの腕で脇へ抱える。
空いた手を郎等の肩へ置くと、男はそこへ額を押しつけた。
「ご無事で……」
続きが出てこない。
為朝は浜を見た。荷を運ぶ男が足を止めていたが、目が合うと、何も言わず仕事へ戻っていく。
「飯は」
郎等が首を振る。
「ならば、来い」
肩を離そうとすると、袖をつかまれた。
為朝はその手を見下ろす。
「歩けるか」
「はい」
「では、離さずともよい」
郎等を横に従え、家へ向かう。
弓の端が砂へ触れそうになり、為朝は抱え直した。吊らなくなった腕が、少しだけ上がる。
それを見た郎等が弓へ手を添えた。
為朝は、今度は振り払わなかった。
翌朝、為朝が目を覚ますと、隣の莚は空いていた。
炉には火が入っている。外から、木を削る音が聞こえた。
戸を開けると、郎等が膝の間に枝を挟み、小刀を動かしていた。傍らには削り屑が積もっている。
「何をしておる」
郎等は顔を上げ、すぐに手元を隠しかける。
「隠すな。見えておる」
「……弓にございます」
為朝は、戸の脇に立てかけた自分の弓を振り返った。
「儂の弓なら、そこにある」
「はい」
「ならば、誰のために作る」
郎等は答えず、膝に置いた枝へ目を落とす。
細い枝だった。両端を削り、紐を結べるよう溝をつけている。
為朝は外へ出た。郎等が腰を浮かせたが、手で制して、自分の弓を取る。
「為朝様、まだ――」
「黙っておれ」
弓には弦が張っていない。
為朝は弦の端を下へ掛け、弓の内側へ脚を入れた。上端を曲げようとすると、肘の奥が引きつる。
もう少しだ。
腕を伸ばし、弓へ体重を掛ける。弦の輪まで、あと指二本ほど。
肘から力が抜けた。
弓が跳ね返り、為朝の手を弾く。郎等が飛びついて受け止めたが、為朝はその肩を押しのけた。
「触るな!」
郎等が弓を抱えたまま止まる。
為朝は手を握り、開いた。昨日より動く。今朝、戸も自分で開けた。椀も持てる。
なのに、この弓だけが張れない。
「貸せ」
「今日は、おやめください」
「貸せと申しておる」
郎等がそっと弓を差し出す。為朝は受け取ったものの、もう一度脚を掛けることができなかった。
肘が痛い。
それよりも、今度も張れなければと思うと、手が動かなかった。
家の中で、鍋を置く音がする。
「朝から何を怒鳴ってるんだい」
女が戸口へ顔を出した。
為朝は弓を壁へ立てかける。
「何でもない」
「その人、昨日やっと来たんだろ。まだ飯もろくに食べてないのに」
女は郎等へ向かって手招きする。
「先に入んな。汁が煮えたよ」
郎等は為朝を見た。為朝がうなずくまで待ち、削りかけの枝を足元へ置いて家に入る。
為朝は一人、庭に残った。
枝を拾う。握りのところだけ、薄い布が巻いてある。
下手な仕事だった。削った面には刃の跡が残り、左右の長さも揃っていない。
為朝は指で溝をなぞった。
戸が鳴る。
郎等が椀を持って出てきた。枝を握る為朝に気づき、足を止める。
「……それなら、腕を痛めずに引けるかと」
「儂に、童の弓を持てと申すか」
郎等は唇を結び、それから頭を下げた。
「はい」
為朝は枝を持ち上げる。軽い。あの弓とは比べものにならない。
「上が長い。これでは釣り合わぬ」
「直します」
「握りも細すぎる」
「布を足します」
郎等は椀を置き、為朝の前へ膝をついた。
為朝は枝を渡さず、空いた手を差し出す。
「小刀を」
郎等が、鞘ごとその手へ乗せる。
為朝は長すぎる側へ刃を当てた。押し込もうとして、傷のある腕がぶれる。
郎等が枝の端を持った。
「押さえております」
「……そこではない。もう少し、内側だ」
「ここで」
「うむ」
薄い木片が、二人の足元へ落ちる。
為朝は刃を当て直した。
「汁、冷めちまったよ」
戸口から声が飛び、郎等が慌てて立ち上がる。
為朝は削りかけの弓を膝へ置いた。
飯を済ませて戻るつもりだったが、女が差し出す椀の向こうから、子供が手元をのぞき込んでくる。
「それ、弓?」
「そうだ」
「ちっちゃいね」
郎等が子供を止めようとする。為朝は椀を受け取り、汁をすすった。
「おまえには、まだ大きい」
「引けるよ」
「ならば、持ってみよ」
子供は弓を受け取ると、片手をいっぱいに伸ばした。弦はまだ張っていない。
それでも何かを狙うつもりらしく、庭の向こうへ顔を向ける。
「どこを射る」
「あの木」
「人がおるぞ」
子供がびくりとして弓を下げる。木の陰には、洗った桶を運ぶ女の姿があった。
「弦も矢もないけど」
「持ったときから、気をつけるのだ」
子供は木と女を見比べ、うなずいた。
為朝は椀を空にして立ち上がる。
「貸せ」
弓を返す小さな手から、握りを受け取る。布の厚さは、もう一巻き足したほうがよさそうだ。
郎等が寄ってきて、弦を渡した。
今度は張れた。
細い枝が撓み、紐がまっすぐ伸びる。為朝は親指で弾いてみた。頼りない音に、郎等が顔を上げる。
「矢を持って参ります」
「儂の矢は使えぬ。重すぎる」
「では、何か……」
「俺のがある!」
子供が走り出す。ほどなく戻ってきたときには、葦の棒を三本、胸に抱えていた。
先に鏃はなく、羽の代わりに葉が結びつけてある。
為朝は一本を取り、目の高さへかざした。
「曲がっておる」
「作ったときは、まっすぐだった」
「ならば、作ってから曲がったのであろう」
子供が唇を尖らせる。為朝は残りの二本も見て、その中から一本を選んだ。
郎等が庭の端へ莚を掛ける。人のいないことを確かめ、為朝は矢を番えた。
握りを押す腕に、まだ力が入らない。
弦を引く。肘の奥が痛み、肩までこわばる。郎等が何か言いかけたが、為朝は目だけで制した。
もう少し。
指を放す。
矢は莚の手前へ落ち、土に跳ね返って横倒しになった。
誰も声を出さない。
為朝は落ちた矢を見ていた。以前なら、あの距離で的を外すなど考えたこともない。
「……紐が緩いのか」
子供が自分の腹の前で、弦を引く真似をする。
「俺のも、あそこまでしか飛ばない」
郎等が為朝をうかがった。
為朝は歩き出し、矢を拾う。先についた泥を指で落とし、莚のそばへ立つ。
「ここからならどうだ」
「近すぎるよ!」
「当たらねば、始まらぬ」
子供が笑った。
為朝は弓を構え直す。郎等が今度こそ手を伸ばしかけ、途中で下ろしたのが、視界の端に見えた。
矢を番える指に汗がにじむ。
引き切る前に痛みが来る。歯を食いしばり、息を吐いてから、少しだけ腕を戻した。
放った矢が、莚に触れて落ちる。
「当たった!」
子供が駆け寄ろうとして、郎等につかまった。
「まだ前へ出るな」
「でも、当たったよ!」
為朝は弓を下ろした。
「うむ」
返事は、それだけにした。
郎等が拾った矢を差し出す。為朝は汗ばんだ手を衣で拭い、もう一本、受け取った。




