幕間 保元元年(一一五六年)(3)
戸が開いた途端、為朝は腰を浮かせた。
「遅いぞ。どこまで行っておった」
僧のなりをした郎等は、戸口に立ったまま頭を下げる。
肩に掛けた袋から、大根の葉がはみ出していた。
「京まで参りました」
「京?」
為朝の顔がほころぶ。
「父上の居場所が分かったか」
郎等は答えない。袋を下ろそうとして、紐を取り損ねた。大根が一本、土間へ転がる。
「どうした」
「……義朝様のもとへ、身を寄せられたそうにございます」
「兄上か」
為朝は膝を打った。
「そうか。ならば、迎えに行けばよいな。兄上も、父上までは――」
「為朝様」
その声に、口を閉じる。
郎等は額を床につけた。
「大殿は、お斬られになりました」
外で鶏が鳴いている。
為朝は戸口を見た。郎等が閉め忘れた戸の隙間から、朝の光が差していた。
「誰が」
「義朝様の仰せで、鎌田政清殿が父上を斬るよう命じられたそうにございます」
「政清が、父上を斬ったのか」
「いいえ……父上が政清殿のお名を呼ばれ、手を止めたとか。最後は、別の者が」
「誰が斬ったと聞いておる!」
郎等の肩が跳ねた。
為朝はその襟をつかみ、顔を上げさせる。日に焼けた頬が、涙で濡れていた。
「兄上が、父上を斬るか。父上が頼って参ったのだぞ」
「私も、そう思いました。ですから、何度も……」
襟をつかむ指から、力が抜けた。
郎等は崩れた衣を直そうともせず、もう一度頭を下げる。
為朝は弓を取った。
「馬を出せ」
「どちらへ」
「京だ」
「今、京へ入られては――」
「出せ!」
立ち上がった拍子に、梁へ頭をぶつけた。
狭い家だった。立つにも身をかがめねばならぬ。
こんなところで息を潜め、他人の施しで腹を満たしている間に。
為朝は戸を蹴り開けた。
庭の隅につないだ馬が、驚いて首を上げる。手綱へ伸ばした手に、郎等がすがった。
「大殿は、もうおられませぬ」
「離せ」
「為朝様まで失っては、私は……」
振り払えば、容易に離れる手だった。
為朝はその手首をつかむ。細い。以前は、もう少し肉のついた男だった。
「……飯は食うておったか」
郎等が顔を上げる。
「は」
「儂にばかり食わせて、おまえは」
「食べております」
「嘘を申せ」
為朝は手を離した。
馬が鼻先を寄せてくる。いつものように撫でようとして、手が止まった。
父を馬に乗せておけばよかった。
あのとき、嫌がろうが腕に抱えて、連れ出しておけば。
「よく門を守った、などと……」
声が喉につかえた。
郎等が何かを言いかける。為朝は顔を背け、馬の首に額を押しつけた。
「儂を褒めておる場合では、なかったでしょうが」
馬のたてがみを握る。
「父上」
後ろで、郎等が戸を閉めた。
山道の途中で、郎等が足を止めた。
「為朝様、こちらへ」
木立の奥に、崩れかけた小屋があった。
戸は外れ、囲炉裏には灰が残っている。人が住まなくなって久しいらしい。
為朝は中へ入ると、壁にもたれた。馬に乗ろうにも、もう脚に力が入らない。
郎等が膝をつき、傷口を確かめる。
「歩けぬほどではない」
「そのような顔で申されましても」
「どのような顔だ」
「怒っておいでです」
為朝は返事をしなかった。
郎等は懐から布を出し、傷に巻き直す。指先が震えていた。
「おまえこそ、何を怖がっている」
「追手にございます」
「儂が捕らえられるのがか」
「はい」
為朝は小屋の外へ目をやった。枝の向こうに、雪の残る山肌が見える。
「ならば、儂だけ置いて行け」
「できませぬ」
「これは命だ」
「大殿をお見送りしたばかりでございます。今度は為朝様を置いて行けと仰せですか」
為朝は口を閉じた。
そのとき、遠くで犬が吠えた。
郎等が立ち上がり、戸口へ向かう。
為朝は弓に手を伸ばしたが、指が届く前に、郎等がその手を押さえた。
「弓は、ここへ置いてください」
「武士に弓を捨てろと申すか」
「今は、見つからぬことが先でございます」
為朝は郎等の手を見た。先ほどより震えは止まっている。
弓を壁に立てかけ、矢筒をその横へ置いた。
「おまえはどうする」
「私は法師になり、里へ下ります。為朝様は、この先の山道を」
「別れるのか」
「追手を散らします」
犬の声が近づいた。小屋の外で、馬の蹄が雪を踏む。
為朝は立ち上がろうとした。郎等が肩を貸す。
「まだ行ける」
「存じております」
「ならば手を離せ」
「それはできませぬ」
戸の向こうから、誰何する声がした。
郎等は為朝の弓を抱え、裏口へ向かった。為朝はその背を見送りかけて、袖をつかむ。
「戻れ」
「はい」
「必ずだ」
郎等は一度だけ振り返り、うなずいた。
戸が開く。雪を踏む音が、小屋の中へ近づいてきた。
戸口に現れた男が、為朝を見て立ちすくむ。
後ろの兵に押され、ようやく太刀を構えたものの、切っ先は戸の内へ入ったきり動かない。
「鎮西八郎為朝だな」
「名を知って訪ねて参ったのであろう。いちいち聞くな」
為朝は壁に手をつき、腰を上げる。膝が折れかけるのを踏みこらえると、男の目が脚へ落ちた。
「おとなしく縛につけ。逃げ道は塞いである」
裏で枝が鳴る。
為朝は男から目を離さず、足を踏み出す。
切っ先が胸へ迫るが、持ち手のほうは戸口から動こうとしない。
「それでは届かぬぞ」
「寄るな!」
「斬るなら、もっと近う来い」
男が退く。その腕へ、為朝が手を伸ばす。
つかんだ手首を柱へ叩きつけると、太刀が落ち、男の悲鳴が小屋に響いた。
為朝は襟を引き寄せ、続いて入ろうとする兵へ突き飛ばす。
戸口で二人がもつれ合う隙に、肩から外へ押し出た。
「弓を! 早く!」
庭の兵が矢を番えている。
為朝は外れかけた戸を引き剥がし、胸の前へ掲げる。矢が板を貫き、頬のすぐ脇で止まった。
「その程度か!」
戸を突き出しながら迫る為朝に、兵が弓を捨てて逃げる。
投げつけた板が背を打ち、男は顔から地面へ倒れ込んだ。
その背を越えようとして、脚がもつれる。
傷口が裂けるように痛んだ。とっさに土へ手をつくと、背後で誰かが叫ぶ。
「今だ! 押さえろ!」
肩へ飛びついた男を振り落としても、すぐに別の腕が首へ回る。
為朝はその腕ごと引き寄せ、頭をぶつけた。呻いて手が緩む。
立とうとしたところで、縄が喉へ食い込み、後ろへ引き倒される。
息ができぬ。
縄へ指をかけると、その手に太刀の柄が振り下ろされた。
「放せ!」
為朝は歯を食いしばって男を睨む。傷のある脚を踏まれ、こらえきれず声が漏れた。
その隙に両腕を背へねじられ、頬が土へ押しつけられる。
「ほかに誰がおる!」
「……見てのとおりだ」
「小屋を改めろ。裏も捜せ」
兵の一人が、為朝の脇を抜けて裏口へ向かう。
行かせるか。
為朝は土を蹴り、片膝を突き立てる。背に乗っていた男がずり落ち、慌てて首へしがみついた。
構わず体を起こそうとする為朝に、横から二人が飛びつく。
「まだ暴れるか!」
「この人数を連れて参って、まだ怖いか」
拳が顔へ叩き込まれる。
口の中に血が広がった。為朝は唇を歪め、殴った男へ顔を寄せる。
「もう一つ打ってみよ」
「こやつ……!」
裏へ向かっていた兵まで引き返し、為朝の脚へ縄を回す。
締め上げられる痛みに息を吐いたとき、林の奥で馬が鳴いた。
為朝は口を閉じる。
蹄の音が遠ざかっていく。兵たちが顔を上げ、何人かは声を掛け合って林へ駆け込んだ。
追う男の足首が、すぐ目の前を通る。
手を伸ばそうにも、腕は背に縛りつけられたまま動かない。
為朝は血を吐き、蹄の音が消えたほうを見つめる。
戻るな。
先ほど自分がつかんだ袖を思い出し、土についた指を握り込む。
戻ってくるなよ。
戸が開くと、為朝は顔を上げた。
飯を運ぶ者ではない。文を持った男の後ろに、兵が四人控えている。
「源為朝。命は助けられた。伊豆の大島へ流すとの仰せである」
「……流罪か」
男は文を畳み、懐へ収める。
為朝は壁から背を離した。立とうとすると、脚を縛る縄が張る。
兵の一人が身構えたのを見て、鼻で笑った。
「安心せよ。今の儂では、ここから駆け出すこともできぬ」
「縄を解け」
男の命に、兵たちが寄ってくる。
為朝が腕を差し出すと、一人はその手首を取り、もう一人は背後へ回った。
縄が緩む。久しく動かせなかった肩を回そうとして、為朝は顔をしかめる。
「水をもらえるか」
誰も答えない。
背後の男が、肩を押さえつけた。
「何をする」
手首を持つ兵が腕を引く。別の兵が膝をつき、為朝の肘へ手をかけた。
為朝は文を持ってきた男を見た。
「命を助けると申したな」
「そのままでは、再び弓を取る」
為朝の目が、自分の腕へ落ちる。
手首を握る兵の指が、汗で滑っていた。
「離せ」
兵が握り直す。
「離せと申しておる!」
為朝は腕を引き戻し、男を胸元へ引き寄せた。兵の額が顎にぶつかる。
背後から首を押さえられても、なお腰を浮かせたが、傷のある脚には踏ん張る力がない。
横から肩を蹴りつけられ、床へ倒れる。
「押さえておけ!」
背に膝が食い込んだ。顔を上げようとすると、髪をつかまれ、頬を板へ押し戻される。
腕だけが、体から引き離されていく。
「待て」
為朝の声に、手首を持つ兵が止まる。
「待て。儂は――」
「早くせよ」
腕がねじられた。
息が喉に詰まり、声にならない。為朝は板を蹴った。踵が床を打ち、何度も同じ場所を滑る。
兵たちの手が離れても、しばらく身を起こせなかった。
「出立までに手当てをせよ」
戸口の男が言う。
為朝は片腕で床を押し、体を起こした。もう一方の腕は、肘から先が思うようについてこない。
男はもう文を持っていなかった。袖へ両手を収め、兵が退くのを待っている。
「これで……満足か」
為朝が顔を上げると、男は視線を外した。
「命は残ったであろう」
為朝は笑おうとした。
口がうまく動かない。
戸が閉じる。廊を遠ざかる足音に、飯を運んできた者の声が重なった。
椀が触れ合う音まで、はっきり聞こえる。
為朝は膝の上へ腕を引き寄せる。
指は動いた。
握れ。そう思って力を込めると、指先がわずかに曲がる。もう一度。
今度は親指を添え、弦を引く形にしようとする。
肘に痛みが走り、手が膝から落ちた。
為朝はその手を拾い上げる。
誰にも見せぬよう、体を丸めて、もう一度握ろうとした。
浜へ下りると、潮の匂いがした。
為朝は足を止め、沖に浮かぶ船を見た。あれに乗せられるらしい。
背を押す兵の手を払い、砂へ足を踏み出す。
「押さずとも歩く」
兵は何か言いかけたが、為朝の顔を見ると口を閉じた。
船までの板は細い。片腕を胸に吊った為朝が乗るたびに軋み、船端で待つ男が眉を寄せる。
「おい、一人で乗せるな。板が折れるぞ」
「ならば丈夫な板を持って参れ」
「そう簡単に申されてもな」
船の男は袖をまくり、為朝へ手を差し出した。
為朝はその手を見下ろす。男は引っ込めず、波に揺れる板へ目をやった。
「落ちられては、こちらも困る」
「儂を引き上げられるか」
「落ちる前なら、なんとか」
為朝は鼻から息を漏らし、その手を取った。
船へ移ると、底に敷かれた莚へ座らされる。
傷のある脚を伸ばした途端、そばの兵が縄を持って寄ってきた。
「まだ縛るか」
「決まりだ」
「この腕で、船を奪うとでも思うか」
兵は答えず、為朝の足首へ縄を回す。
為朝は浜へ顔を向けた。
人が何人か集まっている。荷を担ぐ者、子を背負った女。
こちらを指さしかけた子の手を、女が慌てて下ろしていた。
その向こうに、笠をかぶった法師がいる。
為朝の背が伸びる。
法師は顔を上げなかった。胸に抱えた長い包みを、両腕で押さえている。
「どうした」
縄を結ぶ兵が振り返る。
「何でもない」
為朝は足を引き、兵を自分のほうへ向かせた。
「きつい。緩めよ」
「逃げられては困る」
「海へ飛び込んで、どこへ行く」
兵が結び目を直している間に、法師は船着き場の人の中へ紛れていく。
こちらを見るな。
為朝は胸に吊った腕を、動くほうの手で抱え直す。
あの弓を預けたまま、何も言えなかった。別れ際には戻れと命じ、捕まってからは戻るなと願った。
法師の笠が、荷を積んだ牛の陰へ消える。
「出すぞ!」
船が岸を離れた。
櫓を漕ぐ音に合わせ、浜が少しずつ遠のく。為朝は人の姿が見分けられなくなるまで、そこから目を離さなかった。
波を越えた拍子に、腕がずれる。
顔をしかめた為朝へ、先ほど手を貸した男が近づいてきた。丸めた布を差し出す。
「肘の下へ入れなされ。揺れるたびに痛むだろう」
「……儂が誰か、聞いておるか」
「聞いておるよ」
男はしゃがみ、為朝の腕を見た。
「そのなりなら、誰だろうと痛かろう」
為朝は布を受け取ったが、片手ではうまく挟めない。何度か押し込むうちに、端が莚へ落ちる。
男が拾い、肘の下へ入れ直した。
「こうだ」
為朝はうなずく。
礼を言おうとして、口を開いたまま黙ってしまった。男はもう立ち上がり、船尾へ戻っていく。
為朝は布の端を握った。
「……助かった」
櫓の音に紛れるほどの声だった。
男が振り返り、片手を上げた。
島の浜には、出迎えの役人と、その後ろに子供が二人いた。
為朝が船から下りると、子供たちは役人の背へ隠れる。
だが、すぐに一人が顔を出し、為朝を頭から足まで見上げた。
「でかい」
「こら」
役人が振り返る。子供は引っ込んだが、為朝にはまだ丸い目が見えていた。
「おまえも、飯を食えば大きくなる」
「そんなにはならないよ」
「儂も、ここまでなるとは思わなんだ」
子供が笑いかけたところで、役人に追い払われる。
為朝は案内された家の戸口で足を止めた。中にいる女が、役人へ向かって声を上げる。
「先に大きさを言っておくれよ。この寝床じゃ足が出る」
「何とかしてくれ」
「何とかってねえ」
女は敷いた莚を眺め、為朝の脚を見て、ため息をついた。
「まあ、入んな。頭をぶつけるよ」
為朝が身をかがめると、女は戸の上へ手を添える。
くぐり終えるまで待ち、それから役人へ腕を差し出した。
「その縄は?」
「ここで解く」
足首の縄が外される。為朝は裸足で土間へ立ち、戸の外を見た。
浜へ続く道に柵はない。
「逃げるな、と申さぬのか」
役人は海のほうへ顎を向ける。
「船を勝手に出させるなとは、皆に言ってある」
為朝は返事をせず、莚へ腰を下ろした。
役人が帰ると、女は竈の前へ戻る。鍋の蓋を開けた途端、魚の匂いが部屋へ広がった。
「腹は?」
「空いておる」
「なら、食べな」
差し出された椀には、汁と魚が入っていた。
為朝は膝へ椀を置き、箸を取る。魚を押さえようとしても、椀が揺れてうまくいかない。
吊った腕を下ろしかけたところで、女が椀を押さえた。
「どこをやられたんだい」
「腕だ」
「それは見りゃ分かるよ」
女は為朝の手元をのぞき、箸へ手を伸ばす。
「骨、取ってやろうか」
「自分でできる」
「そうかい」
手が引っ込む。
為朝は魚へ箸を入れた。身が滑り、汁が膝へこぼれる。
女が布を寄こしたが、為朝は箸を置こうとしない。
もう一度押さえる。
骨ごと身を持ち上げ、口へ運びかけたところで止まった。
女は竈へ薪を足している。こちらを見てもいない。
「……骨を」
「ん?」
「取ってもらえるか」
「はいよ」
女は椀を受け取り、魚を皿へ移す。指で骨を抜きながら、残った汁を為朝の前へ戻した。
「先に飲んでな。冷めちまう」
為朝は椀を持ち上げた。
手が震え、縁が歯に当たる。
女が気づいて振り向くより早く、為朝は汁を飲み込んだ。
熱かった。喉が焼けるようで、思わず咳き込む。
「ほら、急ぐから」
背へ手が触れる。
為朝は咳きながら、その手を払いかけた。上げた手を膝へ戻し、椀が倒れぬよう押さえる。
「魚は逃げないよ」
「……知っておる」
「じゃあ、ゆっくり食べな」
皿には、骨を除いた身が寄せてあった。
為朝は箸を握り直した。




