幕間 保元元年(一一五六年)(2)
義朝が門を抜けたとき、御所の奥にはまだ煙が流れていなかった。
追いつける。そう思って馬を進めたが、廊の向こうは空だった。
庭に残った馬の足跡だけが、幾筋にも分かれている。
「為義殿のお姿、見えませぬ!」
戻ってきた兵が告げた。
「上皇は」
「お発ちになったようです」
義朝は兜を脱いだ。飾りの削れた箇所に指が触れる。為朝が射た、あの一矢だ。
門のほうから別の馬が入ってきた。清盛だった。義朝の兜を見ると、眉を上げる。
「八郎か」
「ああ」
「よく馬上に残れたものだ」
「残してくれたのだろうよ」
清盛はしばらく義朝を見た。
「為義殿を追うのか」
「追わずにおれるか」
「見つけて、どうする」
義朝は兜を馬の首に掛けた。そこから先の答えを、まだ持っていない。
「父上には、降っていただく」
「降った後のことを聞いておる」
清盛の声は低かった。義朝は顔を上げる。
「命は、私が願い出る」
「おまえ一人の願いで決まることか」
「決めさせる」
清盛はそれ以上、言わなかった。自分にも、敵方に立った伯父の忠正がいる。
庭へ兵が駆け込んできた。
「西の道に落ち武者の一団を見ました!」
義朝は馬の向きを変える。清盛が横に並んだ。
「父上には手を出すな。まず私が話す」
兵たちへ命じる声は、いつもどおり通った。だが義朝の手は、手綱を握ったまま兜の傷へ戻りかけた。
為朝は自分を射なかった。
今度は、自分が父に会わねばならない。
父が降ると伝えてきたのは、戦から幾日か過ぎた夜だった。
義朝は使いの話を聞くと、すぐに輿を出させた。
人目を避けて父を迎えにやり、自分は屋敷の戸口で待つ。
戻ってきた輿の簾を上げると、為義は目を細めた。
「義朝か」
「父上。お手を」
差し出した腕に、父の手が掛かった。立ち上がろうとして膝が折れ、義朝は慌てて肩を支える。
「大事ない」
「そのお体で、どこまで行かれるおつもりでした」
「八郎は、東国へ下れと言いおった」
為義がわずかに笑う。
「あれは、わしも同じように馬を走らせられると思うておる」
義朝は笑えなかった。父を座らせると、家人の運んできた湯を手元へ寄せた。
為義は椀を取ったが、飲まずに膝の上で包んでいる。
「八郎には会いましたか」
「別れた。ほかの者も、今頃はそれぞれ身を隠しておろう」
「そうですか」
「おまえのもとへ参ると申したら、止められたわ」
義朝の手が止まる。
「……為朝が」
「皆がな」
為義は椀へ目を落とした。
「それでも、ここへ来た」
義朝は父の前に膝をついた。何を言えばよいか分からず、衣の裾に付いた泥を見ていた。
落ちる途中で濡れたらしい。まだ乾ききっていない。
「着替えを持て。寝所も整えよ」
家人が下がると、為義がようやく湯を飲んだ。
「おまえに頼める身ではないことは、承知しておる」
「今はお休みください」
「義朝」
呼ばれて顔を上げる。為義は椀を置き、両手を畳についた。
義朝はその腕をつかんだ。
「おやめください」
「弟たちを、助けてやってくれ」
「父上もです」
「わしは――」
「父上も、お助けする」
父の肩が小さく揺れた。義朝は腕を離せなかった。
しばらくして、為義の手が義朝の手に重なる。
「すまぬな」
義朝は首を振った。もう一度言われたら、何も返せそうになかった。
助命の願いは、聞き届けられなかった。
義朝はもう一度参内した。父はすでに降っている。
髪を落とし、二度と弓を取らぬようにさせる。遠国へ流してもよい。自分の勲功に代えて、命だけは。
返ってきたのは、父を斬れという命だった。
「清盛は、伯父の忠正を斬った。為義だけを許すわけにはゆかぬ、と」
命を伝える者の顔を、義朝は見上げた。
「伯父と父を、同じに申されるか」
「勅定である」
「父を斬って何を得ます。すでに兵もなく、病んでおります」
「なお背くならば、ほかの武士に命じられる」
義朝は口を閉じた。
屋敷へ戻る途中、何度も馬を止めかける。そのたび後ろをついてくる政清が手綱を引いた。
「殿」
「分かっておる」
何が分かっているのか。父を死なせねばならぬことか。それを自分で命じねばならぬことか。
屋敷に着くと、家人が迎えに出た。
「父君はお休みになっておられます。先ほど、粥を少し召し上がりました」
義朝はうなずくこともできず、父のいる部屋へ向かった。
戸の隙間から、寝顔が見える。
逃れていた間はろくに眠れなかったのだろう。
昨夜より顔のこわばりが取れていた。枕元には、着替えた衣が畳んである。
ここなら休めると思ったのだ。
義朝は戸に掛けた手を下ろした。
「政清」
「はっ」
「父上を連れて逃げる。馬を用意せよ」
政清はすぐには答えなかった。
「殿。関は固められております」
「ならば道を外れる」
「父君のお体がもちませぬ」
「輿を使えばよい」
政清が膝をついた。
「どうか、お声をお抑えください。父君がお目覚めになります」
義朝は振り返った。戸の向こうで、衣の擦れる音がする。
「義朝か」
父の声だった。
「戻ったのなら、顔を見せよ」
義朝は戸を開けた。
「……ただいま、戻りました」
為義は身を起こそうとして、義朝へ手を伸ばす。
昨夜と同じように、その手を取った。
為義は義朝の手を借りて身を起こした。
「よい。そこまでで」
背に衣を当ててやると、父は息をついた。義朝は隣に座ったまま、その手を離す。
「帝は、何と仰せになった」
義朝は口を開きかけた。
流罪と決まった、と言えればよかった。明日には発つのだと告げて、輿に乗せれば、父は疑いもせず従うだろう。
「義朝」
「……父上の命は、お許しいただけませなんだ」
為義は動かなかった。
「もう一度、願い出ます」
「何度、参った」
義朝は答えない。
「その顔で、わしを助けると申すか」
「ほかに何と申せばよいのです!」
声を荒らげてから、義朝は膝へ目を落とした。
「父上を斬れと、命じられました」
為義の息が止まる。
「おまえにか」
「……はい」
しばらく、父の顔を見られなかった。
畳に置かれた手が震えている。先ほどまで自分の腕を頼りにしていた手だった。
「それが、戦に勝ったおまえへの仰せか」
義朝はうなずいた。
為義は唇をかみ、戸のほうを見る。逃げる道を探しているのだと気づいて、義朝は顔を上げた。
「馬でも輿でも、用意いたします。私も共に――」
「関は」
答えられなかった。
「わしの足では、山も越せぬな」
「私が背負います」
為義は義朝を見た。
「その先で、おまえまで捕らえられたらどうする」
「父上をこのまま……」
義朝は口元を押さえた。為義は手を伸ばしかけ、膝へ戻す。
「わしはな。おまえのもとへ来れば、助かると思うたのだ」
義朝の肩が震えた。
「皆に止められても、長男の顔を見れば、どうにかなると……」
為義はそこで言葉を切った。目を閉じ、長く息を吐く。
義朝は頭を下げた。
「申し訳、ありませぬ」
「顔を上げよ」
上げられなかった。
為義はもう一度呼んだ。義朝がようやく顔を向けると、父の目にも涙があった。
「まだ、行くな」
義朝は父のそばへ寄った。
為義がその袖をつかむ。義朝は何も言わず、そこに座っていた。
夜が明ける前、義朝は政清を廊へ呼んだ。
父の部屋からようやく出てきたところだった。袖には、つかまれていた皺が残っている。
「父上を……おまえに、任せたい」
政清は頭を下げた。
「お送りする役でございますか」
義朝の唇が動く。声にはならない。
政清は顔を上げた。義朝が自分の腰の太刀を見ている。
「私に、父君を斬れと」
「ほかの者に引き渡せば、どのような扱いを受けるか分からぬ」
義朝は廊の柱へ手をついた。
「だが、私には……」
政清は膝をついたまま、しばらく動かなかった。やがて畳へ両手をつく。
「承りました」
義朝は政清の肩に手を置いた。すぐに離したが、政清はその手を目で追った。
*
朝、為義を乗せる輿が庭へ運び込まれた。
義朝は父の衣の紐を結んでいた。何度やっても左右の長さが揃わない。為義が見かねて手を添える。
「貸せ」
「私がいたします」
「そう引いては、苦しいわ」
義朝は慌てて緩めた。
為義は紐を結び直すと、戸口に控える政清へ目を向ける。
「参ろうか」
立ち上がる父を、義朝が支えた。庭へ下りる段でつまずき、為義の体が肩へ掛かる。
「すまぬ」
義朝は父を抱えるようにして輿まで進んだ。
為義が座っても、衣の裾を直し、足元に敷いたものを寄せる。簾を下ろそうとする家人を手で止めた。
「ほかに、何か」
父が見ている。
「湯を持たせます。道で喉が……」
「義朝」
声が途切れた。
為義は息子の袖をつかんだ。
「おまえが負けて、わしを頼って参ったなら」
義朝は顔を上げる。
「わしは……」
その先は出なかった。義朝が袖に掛かった手を包むと、父は顔を背けた。
政清が膝をつく。
「お時刻にございます」
為義の手が離れた。
簾が下り、担ぎ手が輿を上げる。義朝は一歩ついていったが、政清が振り返ったところで止まった。
「頼む」
政清は頭を下げたまま、答えなかった。
*
輿が止まると、為義は外の物音を聞いていた。
鳥の声がする。砂利を踏む足音が近づいてきた。
簾を上げた政清に、為義は手を差し出す。
「難儀を掛けるな」
「……いえ」
降りた先には、敷物が用意されていた。
為義が座ると、政清は背後へ回って太刀を抜いた。だが、首筋に掛かった髪を見るなり、腕が下がる。
「どうした」
太刀を持ち直した。髪を払おうと手を伸ばし、触れる前に引っ込める。
「政清」
呼ばれると、膝が折れた。
「申し訳、ございませぬ……」
為義は振り向きかけたが、やめた。
別の男が政清のそばへ来る。政清は柄を握りしめていたが、やがて指を一本ずつ離した。
為義は衣の襟を緩める。
「南無阿弥陀仏……」
声が震える。もう一度唱えようと息を吸ったとき、背後で砂利が鳴った。
政清が戻るまで、義朝は父のいた部屋に座っていた。
敷いたままの寝具のそばに、椀が置かれている。底に少し残った粥は、もう乾き始めていた。
廊で足音が止まる。
「殿」
義朝は戸口を見た。
政清が膝をついている。朝に出ていったときより、深く頭を垂れていた。
「父上は」
「……お亡くなりになりました」
義朝は椀へ目を戻した。
「そうか」
政清は動かなかった。義朝も、下がれとは言わない。
「私は、斬れませなんだ」
顔を上げた政清の頬に、乾いた涙の跡がある。
「太刀を抜いたところで、父君に名を呼ばれ……」
「誰が斬った」
政清が答えようとすると、義朝は手を上げた。
「よい」
その手を膝へ置く。握り込もうとしても、指が閉じきらなかった。
「苦しまれたか」
「一太刀にございました」
「そうか」
同じ返事しかできなかった。
政清が懐から包みを出す。
「父君の、お数珠にございます」
義朝は手を伸ばした。布を開くと、見覚えのある数珠が収まっている。
父がこれを持つ姿など、ろくに見たことはなかった。
いつも目についたのは弓か太刀で、こちらを見るときも大抵は何かを叱る顔だった。
珠を一つ、指で送る。
「何か、申されたか」
「お念仏を」
「ほかには」
政清は首を振った。
義朝は待った。政清の口がもう一度開くのを、顔を見たまま待っていた。
やがて、数珠を握った手を下ろす。
「……下がれ」
政清が退出しかけたところへ、家人が膳を運んできた。
「こちらへお持ちしてよろしいでしょうか」
湯気が立っている。義朝は父の寝具を見て、膳を置く場所を空けようとした。
「父上にも――」
家人の足が止まる。
義朝は膝の上の数珠を見た。
「殿」
政清が戻ってくる。義朝は顔を上げず、手で制した。
「置いていけ」
膳が畳に触れる音がした。
誰もいなくなってから、義朝は椀を取った。持ち上げたところで息が詰まり、両手で支える。
椀を戻したつもりが、縁から粥がこぼれた。
拭うものを探して袖を持ち上げる。
父につかまれていた皺が目に入り、義朝はその袖を顔へ押し当てた。




