⑤魔導書=鈍器
絶望だった。
俺の背中には今、一糸纏わぬ美少女が密着している。
豊満な胸の感触が肩甲骨に押し付けられ、滑らかな白い腕が俺の首元に回されている。 シーラだ。彼女は俺の背後に膝立ちになり、柔らかく温かい手で、俺の肩を一生懸命に揉みほぐしていた。
「主様……どうか、元気を出してください」
耳元をくすぐる、甘く吐息混じりの声。
密室。深夜。全裸の美少女によるマッサージ。
本来なら、男としてこれ以上ない至福の絶頂にいるはずだ。
だが、俺の煩悩は完全なる沈黙を保っていた。微塵も、一ミリたりとも、エロティックな昂りを感じないのだ。
終わった……。俺の男としての機能は、園芸への情熱に完全に喰い殺されてしまった……。
俺は両手で顔を覆い、深い深い溜息を吐き出した。
そんな俺の絶望を、シーラは決定的に勘違いしていたらしい。
「主様のお手入れは、世界一です。だから、ご自分の魔法をそんなに卑下しないでください……っ」
シーラの指先に、きゅっと力がこもる。
「私、お花だった頃の記憶があるんです。冷たい土の中で、動くことも喋ることもできず、ただじっと風に耐えていました。ガンツ様のお水だけが命綱で……生きているのか死んでいるのかも分からない、孤独な時間でした」
背中から伝わる彼女の体温が、微かに熱を帯びる。
「でも、主様は違いました。主様の手は、乾ききっていた私の根っこの一番深いところまで、温かい熱と潤いを届けてくれた。ただ生かされるだけじゃない、私を『愛して』くれたんです」
シーラの声が震えていた。
「主様に触れられた時、私の中に魂が芽生えました。だから私、少しも怖くありません。主様が望むなら、この体……何度萎れても、そのたびに綺麗に咲かせてみせますから……っ」
俺は目を見開いた。
健気だ。あまりにも健気すぎる。前世のブラック花屋でただの商品として花を扱っていた親父に聞かせてやりたい。花にも心があり、俺の施した園芸ケアが、これほどまでに彼女の魂を救っていたのだと。
男としての機能が死滅した悲しみなど、どうでもよくなるほどの感動が胸に迫る。
「シーラ……お前って奴は……!」
俺は感動に打ち震えながら、後ろを振り返って彼女を強く抱きしめようとした。
その時だった。
ドゴォォォンッ!!
けたたましい轟音と共に、自室の分厚い木製の扉が吹き飛んだ。
「……っ!?」
もうもうと舞い上がる土埃の中、冷気を纏った影が一つ、ずかずかと部屋に踏み込んでくる。
片手に分厚い魔導書を握りしめ、もう片方の手から攻撃魔法の残滓である白煙をくすぶらせたエミリーだった。
彼女の蒼い瞳が、ベッドの上の光景を捉えて凍りつく。
深夜の密室。
全裸で俺にすがりつくように密着し、涙目で頬を紅潮させてハァハァと息を荒くしているシーラ。
そして、その前で胡座をかき、謎の達成感に満ちた顔をしている俺。
「……信じられません」
地を這うような、絶対零度の声だった。
「自室から卑猥な声と不気味な魔力波形が漏れ出ていると思えば……。平民の娘をさらった上に精神を完全に破壊し、己の快楽と魔力供給のための肉奴隷に堕とすなど」
「ち、違う。これは健全な肩揉みと、身の上話の最中で……それに平民の娘じゃなくってだな、俺の魔法で……」
「言い訳は不要です。その娘の焦点の合っていない狂信的な瞳が、何よりの証拠。……不潔です。そして、邪悪すぎます」
エミリーの魔導書がパラパラと不気味な音を立ててめくれ上がり、彼女の周囲に殺意を伴った氷の槍が数本、実体化し始めた。
「妹として、愚兄の凶行はこの場で討ち滅ぼします。……消えなさい、ド変態」
「待てエミリー! 話を聞け! 俺はまだエロいことなんて何一つしてないんだぁぁっ!」
俺は、無慈悲に放たれた魔導書の角で気を失った。
***
ずきり、と額に鈍い痛みが走って目を覚ました。
見慣れた自室の天井だ。俺はベッドの上に横たわり、額には冷たいタオルが乗せられていた。
「……気がつきましたか」
ベッドの脇から、ひどく神妙な声が降ってきた。視線を動かすと、エミリーが丸椅子に座り、分厚い魔導書を膝の上に置いて俺を見下ろしている。どうやら看病してくれていたらしい。
「魔導書の角で殴って、すみませんでした」
エミリーが、ほんの少しだけバツの悪そうな顔で頭を下げた。
「ハナ兄さんが倒れた瞬間、あの娘が……シュンッ、と音を立てて元のシクラメンの花に戻ったのを確認しました。本当に、花を人に変える魔法だったんですね……」
「だから、最初からそう言ってるだろう。痛てて……」
俺は痛む頭を押さえながら上体を起こした。鈍器(魔導書)による一撃で気絶したのか……魔法より威力が高い気がするのは気のせいか。
だが、エミリーの誤解が解けたのは朗報だ。これで俺が平民の娘を誘拐して洗脳するような、変態ド外道ではないと証明されたわけだ。
「でも、私に嘘を付いて。夜中に一人で魔法を使ったってことは、やっぱり卑猥なことを考えてのことなのでしょう? 変態には違いありませんね」
証明されていなかったか……まぁいい。
「でも、凄い魔法だと思います。やはりどんな文献にも記載されていませんでした」
エミリーの目から疲労が見て取れた。もしかしてずっと調べていたのか? 相変わらず勉強熱心だな。堅苦しいとも言えるが。そんなんじゃモテないぞ。兄として心配だ。
「お父様に報告するのですか?」
今度は寂しそうな顔をした。
「俺が魔法を使えるようになったことを親父に報告するのが不安なのか?」
薄々感じていたが、無能だった俺が急に超絶魔法を使えるようになったことで少なからず悲壮感を感じているのだろう。
「いえ、喜ばしいことだと思います……きっとお父様もお喜びになることでしょう。あの毒魔法などは戦闘でも役に立ちそうです。他のお兄様と同様に前線での活躍も期待されるのでしょうね」
「報告はしないぞ」
「え?」
「するわけがない。俺は平和主義者だからな」
戦闘とか無理。辺境へ追放万々歳。そこでハーレムを作って平和にイチャコラ生活を送るんだ。




