39:花壇を荒らしただけなのに(アンネッタ視点)
わたくしは、その日のことを生涯忘れることができない……。
夕闇が迫る庭園の並木道。
わたくしの合図とともに、植え込みから飛び出した黒装束の男たちが、抜刀した刃を煌めかせてハナとエミリーの背後へと迫った。
本来なら、それで終わるはずだったのだ。落ちこぼれのハナなど腰を抜かし、エミリーはあっさりと袋詰めにされて、わたくしは高笑いをしながら王宮へ戻る──そんな筋書きのはずだった。
男の一人が、最短距離でエミリーに飛びかかろうとして、並木道の脇に整然と植えられていた花壇へ無造作に足を踏み入れた、その瞬間までは。
グシャッ。
夕日に照らされていた色鮮やかなパンジーとマリーゴールドが、泥のついた靴底に無残に踏み潰された。
「おいっ。今、何をした」
氷点下まで凍りついたような、低く、重い声が庭園に響いた。
わたくしは思わず息を呑んだ。声を上げたのは、あの冴えない落ちこぼれのはずのハナだった。
だが、振り返った彼の顔から、先ほどまでの間の抜けた笑みは完全に消え失せていた。ただ冷え切った瞳だけが、踏み潰された花弁を見つめている。
「あ? 邪魔なんだよ、ガキが! 寝てろ!」
先頭の男がハナの肩口へ剣を振り下ろす。
しかし、ハナは一歩も動かなかった。ただ静かに片手を上げた瞬間──隣にいた長身の少女が閃光のような速さで割り込み、素手でその白刃を真正面から受け止めたのだ。
ガキィィンッ!!
鋼と鋼がぶつかり合ったかのような金属音が鳴り響き、男の剣が半ばからポッキリとへし折れた。
「なっ……!? 素手で剣を折っただと!?」
「ああっ……なんという殺意、なんという鋭い斬撃……! だが、主様の逆鱗に触れた貴様らの暴力からは愛を感じない。大人しく去るが良い」
少女が恍惚と怒りの入り混じった声で男を弾き飛ばす。
その背後から、ハナがゆっくりと一歩、前へと踏み出した。
「植物だって、生きているんだよ」
ハナの全身から、大気をビリビリと震わせるほどの異様な威圧感が膨れ上がる。
「お前らごときに、花を踏み潰す権利はない。……一度踏み潰されて茎が折れた花々が、元の元気を取り戻すのに、どんくらい大変か知らねぇだろ。根が傷んで、導管が潰れて、どれだけの時間と手間をかけて養生しなきゃいけないか」
「ひっ……な、なんだこいつは……!?」
熟練の工作員であるはずの男たちが、ハナの放つ純粋にして絶対的な『殺意』に呑まれ、揃って後ずさった。
「その痛み、身をもって知れ。……いや、手ぬるいな。花を踏んだ罪は万死に値する。死刑だ」
ハナが冷酷に宣告し、指を鳴らした。
それはまさに、地獄の釜が開いた瞬間だった。
「主様の命により……お腹の底から悔い改めなさいっ!」
小柄な少女がふわりと舞い踊るように手を振ると、淡いピンクの霧が男たちを包み込んだ。
直後、男たちが一斉に武器を取り落とし、自らの腹部を掻きむしりながら地面に転がり落ちる。
「ぐあああっ!? は、腹が……内臓が捻じ切れるぅぅっ!!」
「た、助けてくれ、俺たちはフラウゲートの工作員なんだ、人質を取れと命じられて……うあああっ、漏れる、尊厳ごと全部漏れるぅぅっ!!」
フラウゲート? 隣国の? この人たちはいったい何を言っているのだろうか……そんな疑問すらも忘れ、わたくしは魅入ってしまっていた。
「仕上げだ。死体は肥料にすらさせん。消し飛べっ」
ハナの後ろに隠れていた幼女が冷ややかな視線で頭を掻くと、その手元からトゲだらけの巨大な『イガグリ』のような物体が次々と生成され、悶絶する男たちの頭上へと容赦なく降り注いだ。
ドゴォォォンッ! バガァァァンッ!!
轟音とともにイガグリが炸裂し、無数の鋭いトゲと爆風が並木道を吹き荒れる。もちろん、花壇には傷ひとつつけない完璧な指向性爆撃だった。
「ひっ……あ、あぁ……」
植え込みの陰で、わたくしは腰を抜かし、ガタガタと震えることしかできなかった。
花壇を荒らされた程度で、あんなにも狂気的なまでにブチ切れる人間を、わたくしは見たことがない。
そして何より──あんなにも圧倒的で、慈悲のかけらもない『強さ』を見たことがなかった。
自身は指先ひとつ汚すことなく、絶対防御の盾と、状態異常の呪毒と、広範囲殲滅の爆撃を、まるで自分の手足のように完璧に統率してみせる圧倒的な覇気。
こんなの、落ちこぼれどころではない。王国最強と謳われる剣士序列一位のイワンお兄様と同等……いいえ、もしかしたら、それ以上の怪物!?
一体どうなっているの……。
「くっ、話が違うぞ。なんだコイツは……」
「ここは一旦、引けっ」
「しかし、任務が……放棄したら、それこそ殺される」
「くそっ……いや、王族でいいなら、あのアンネッタとかいう小娘が居る」
黒装束の男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そして、その会話のなかにわたくしの名前があったことに気づいたときには、男の一人がわたくしの目の前に立っていて拳を振り上げた……それから記憶が途切れた。




