煩悩確認作業
っていう、夢だったのだろうか。
時が動き出した静寂の中、俺は荒い息を整えながら、先ほどまで少女が立っていたはずの空間を見つめていた。
だが、そこに彼女の姿はどこにもない。
エミリーに花玉のことをそっと話してみると、「時間が止まるわけないじゃないですか。馬鹿なんですか? 夢は寝ている時だけにしてくださいね」と、冷ややかな目で一刀両断されてしまった。
シーラも、ニチコも、プータスさえも「マスター、何を寝ぼけたことを言っているんですか」と不思議そうな顔をするだけで、誰も俺の体験を信じてくれなかった。
だが、実際問題として目の前の光景はどう説明がつくというのか。
あんなにも圧倒的な力と絶望感を放っていたエメラルドドラゴンは、コアが木端微塵に砕け散り、微動だにせず完全に死んでいる。
そして、紅花山玉蘭の花は、痛々しく萎れた蕾がポツンと地面に落ちてしまっていた。時間が戻った瞬間に、無理やり花開かせた反動で枯れてしまったのだろうか……そう思うと、胸の奥がチクリと痛む。
「待っててくれよ、花玉。必ず、俺の手で君をもう一度咲かせてみせるからな」
俺は誰にも聞こえない声で呟き、落ちていた萎れた蕾を拾い上げ、ポケットへとそっとしまった。
「一体全体何が起こったのでしょうね。本当に不思議です……」
エミリーは、エメラルドドラゴンの死を不可解な怪奇現象として何とか片づけたいらしい。ハラハラと冷や汗を拭いながら、必死に自分を納得させている。
これを「美少女が時間を止めて、俺がドラゴンを倒したんだ」と説明しても、信じてもらうには骨が折れそうだった。
それから俺は、少し気になるところがあって、シーラたちを呼び寄せてそれぞれの状態を確認するための作業を行うことにした。
「あっ……主様……そこは……いや、もっと……もっと強く……触れて……」
シーラは、頬をぽっと朱に染め、妙に色っぽい吐息を漏らす。
「うっ……さすがだな主様。優しさの中で厳しさもある絶妙な手つきだ。私のことを心の底から分かってくれている。……くっ、最高に滾るぞ」
ニチコは、身を悶えさせ、荒い鼻息を立てながらガタガタと震えてた。
「……ま、マスター。その手つきは、我の高度な思考を完全に停止させる……あっ、そこはもう……ダメ、回路が焼き切れる……」
プータスは、真っ赤な顔でフーフーと息を乱し、自分で自分の服のボタンを外し始めた。
俺は、自分の煩悩が本当に復活したのかどうかを確認するために、その後もみんなの体をあちこち触りまくったのだが……。
やっぱり、まったくダメだった。
シーラの肌の乾燥状態は最悪レベル。あんなに言ったのに、全自動水やり機の設定には本気で失望させられる。
ニチコは逆に潤い過ぎていて、葉や茎の質感が少し悪いし、根本周辺が湿気を吸い過ぎている。植木鉢の置き場所の選定を根本的に間違えたかもしれない。
プータスは、プラタナスを模した魔導植物という特殊な品種であるため、相変わらず状態の良し悪しの把握が難しいが、触ってみた感じではやはり完璧とは言い難い。まだまだ、要観察といったところか。
……といった具合に、どうあがいても彼女らを「一人の女性」ではなく「少し手のかかる植物」としてしか扱うことができなかった。
やはり、不完全な状態の花を人に変えても、俺の長年の園芸知識が邪魔をして、肝心の煩悩がうまく働かないらしい。
それとも、やはりエミリーが言うように、あの空間で起きた出来事はすべて俺の幻覚、あるいは夢だったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
今でもこの頬に残っている、あの切なくも甘いキスの温もり、そして花玉に感じたあの感情……あれはまぎれもない現実だったと鮮烈に証明している。
「なんで今この瞬間に、堂々といかがわしい行為ができるんですか……! もう、見てられません! その脳みそのお花畑を完全にお覚まししてあげましょうか!?」
呆れ果てた表情のエミリーが、魔導書を握りしめ、眉間を抑えながら冷ややかな声を投げつけてきた。
「じゃあなんだ、お前が俺の煩悩の確認のために体を触らせてくれるのか?」
俺が真顔でそう言い放った瞬間──。
ガコッ!!
「ぐえっ!?」
ものすごい音とともに、エミリーが両手で振り下ろしたぶ厚い魔導書の角が、俺の頭蓋骨に綺麗にクリーンヒットした。
視界が真っ白になり、俺はそのまま盛大に地面へとひっくり返った。
「そこで一生寝てて下さい! さぁ、みんな、こんな変態は置いて帰りましょう。こんな危険な最深部に長居をしていると、今度はどんな凶悪な魔物が現れるか分かりませんからね」
エミリーがスカートの裾の埃をパパッと払いながら、キリッとした姿勢を正した。
「いてて……暴力反対……。ところでエミリー、あの最高位の魔法スクロールってやつを使うのか? それの効果って、いったいどんな凄いものなんだ?」
そういえば、さっきはドラゴンとの死闘で慌てていて、肝心の詳細を聞きそびれていた。あの絶体絶命のピンチを一瞬で切り抜けられるほどの切り札なんだから、 きっと次元の違う凄まじい効果があるんだろうな。
「……歩いて帰りますよ」
「ええーっ、なんでだよ! 帰りは歩きでもいいから、そのスクロールの効果くらい教えてくれよ」
「ダメです。絶対に教えません。すべて聞きなかったことにしてください」
「なんだよそれ、ケチだな……あ、そうだ。シーラさん、いつものあれをやっておしまいなさい」
俺は、隣でソワソワしていたシーラへ、目配せで自白作用の香気を強めるように合図を送った。
「あっ、シーラを使うなんて、ずるいですよハナ兄さん!」
シーラの淡い紫色の香気がふわりと漂った瞬間、エミリーはあっけなく白旗を上げて崩れ落ちた。
まさか、一瞬で王宮へと帰還できるような転移魔法なんてものが、この世に本当に存在するとは知らなかったな。
だけど、その凄い効果を発動するのには、王宮の超一流の魔法使いの人たちが何ヶ月も掛けて膨大な魔力をみっちり蓄えなければならないらしい。
そんな途方もなく貴重で凄いものを持たされるなんて……さすがは優秀なエミリーだ。きっと父上である国王からも、目に入れても痛くないほど溺愛されているんだろう。
そんな国家機密レベルの貴重な魔力を使って、こんな個人的なダンジョン通いの帰りにホイホイと転移するなんて、そんな贅沢をしたら罰が当たるってもんだ。
ここは大人しく、みんなと一緒に来た道を引き返そう。
帰ったら、兄のナナキに頼み込んで、王宮の魔導研究所とやらにでも案内してもらおう。
待っててくれよ、花玉。今度こそ、俺の手で完璧な花を咲かせてみせるからな。




