㉛紅花山玉蘭
「エメラルドドラゴン?」
エミリーの言葉に、思わず胸がときめいてしまった。
やはりこの世界にはドラゴンがいるのか。しかもエメラルド……かっこよすぎだろ。
だが、俺の少年心は完膚なきまでに打ち崩された。
大空洞の闇を切り裂き、翠玉の輝きを放つ双眸が俺たちを射抜く。
一歩、その巨体が踏み出すだけで、洞窟の岩盤が悲鳴を上げて軋む。先ほどまでの陽気なハイキング気分など、ひと吹きで消し飛ぶほどの圧倒的な死の気配だった。
「ひっ……で、でかい……なんだよあれ、ちょっとした城くらいあるぞ!」
俺は腰が抜けそうになるのを必死で堪え、後ずさった。
エミリーは魔導書を胸に抱きしめたまま、青い顔で唇を震わせている。
「災害級のモンスターです。ですが、アビスダンジョンに生息しているなんて報告に上がっていません」
「どういうことだよ、どっからこんなもんが入ってこれるっていうんだ」
「やはり……アビスダンジョンには、まだ探索できていない領域があるということですね……ハナ兄さん、あれは絶対に戦っていい相手じゃありません! 王国の騎士団が一個師団で挑んでも全滅する化け物です!」
エミリーの強張った顔に、事の重大さを感じた。
「わ、分かった! おい、ニチコ、プータス、シーラ! ここは一旦退却だ」
「いや、待てマスター。退路はすでに塞がれている」
プータスが険しい声で遮った。
彼女が指差す方を見れば、エメラルドドラゴンの長く巨大な尾がぐるりと大空洞の入り口側を薙ぎ払うように陣取っており、俺たちが来た通路は完全に分断されていた。
「私が前に出ます! あんなに大きくて強そうなトカゲさん、きっと骨の髄まで痺れるような暴力を持っているはずです!」
ニチコが荒い息を吐きながら前へ出ようとするが、その肩をプータスが小さな手で強く掴んで制止した。
「早まるなニチコ! 我が今、奴の魔力総量と生体構造を演算した。あの鱗は高密度の魔力結晶そのもので、我のイガグリ爆弾でも表皮すら砕けぬ。そして顎の奥に収束しつつあるブレスの熱量は、お前の絶対防御の許容量とほぼ互角……いや、長期戦になれば確実に焼き切られるぞ!」
「えっ……私が、耐えきれない……? そんな馬鹿な、やってみないと分からないじゃないか」
「落ち着けニチコ。プータスの言うことが本当ならアウトだ。もし今、お前が居なくなったら、俺とエミリーは一秒で灰になる。ここは逃げるべきだ」
「それに、あのドラゴンには鼻の孔が見当たらないわ。たぶん、皮膚呼吸か魔力循環だけで生きている高位の生命体ね。私の下痢魔法も効きそうにないわよ!」
シーラまで焦ったように声を上げた。
プータスの爆弾が通じず、シーラの毒も効かない。そして頼みの綱であるニチコの防御ですら、ギリギリ耐えられるかどうかという極限状態。だが引き返せない。
「仕方がないですね。持ってきたスクロールを使います」
「スクロール? なんだそれ……あっさっきの紙切れか?」
エミリーは魔導書に挟んであった紙切れを取り出した。
「詠唱が必要です。みんなで時間を稼いで下さい」
「ぎゃっ!」
エミリーの言葉に返事をしようとした矢先、エメラルドドラゴンの巨大な尻尾が俺たちに襲い掛かった。幸いにもニチコが体を張って止めてくれたからみんな無傷だ。
「エミリー、そのスクロールってやつの詠唱時間は?」
「5分……」
「長いな」
「最高位の魔法なので仕方がないです」
「けど、それが成功すれば皆助かるんだな」
「はい、確実に」
そんな切り札をもってきていたとは、さすが我が妹……いや、俺が無計画過ぎか。
「5分ですか。あの尻尾の攻撃範囲外に出なければなりませんね」
プータスが冷静に分析を始める。
「ドラゴンの脇を抜け、ダンジョンの奥へ向かいましょう。 岩の裂け目で狭くなっていますから、あの巨体ならすぐには入ってこられないはずです!」
プータスの指さすほうへ向かって、俺たちは駆け出した。
「よし、ニチコは先頭で尻尾を防ぎながら。プータスは目くらましだ! 突っ走るぞ!」
「了解した。閃光配合のイガグリを放つ。今だ、走れ!」
プータスがドラゴンの顔面めがけて数個の球体を投げつけ、目を焼くような激しい閃光が炸裂した。
エメラルドドラゴンが眩しさに首を振って唸り声を上げた隙に、俺たちはニチコを先頭にしてその巨大な脚の脇を全力で駆け抜けた。
グオオオオオオオッ!!
背後から鼓膜が破れそうなほどの咆哮が轟き、振り下ろされた巨大な鉤爪が俺たちのすぐ後ろの岩床を豆腐のように抉り取る。
飛び散る岩の破片をニチコが背中で受け止め、俺たちは転げるようにして大空洞の奥にある狭い岩の裂け目へと飛び込んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! こ、ここなら……って、ここは……」
狭い通路を抜け出た先は、ドーム状の静かな空間になっていた。四方は全て岩壁。つまり行き止まりだ。
「最深部?」
エミリーの言葉に反応し、地面を見つめる。
そしてドームの中央、天井のわずかな亀裂から差し込む淡い光の下に、それはひっそりと佇んでいた。
「これが……紅花山玉蘭の苗……か?」
俺は息を呑んで駆け寄った。
人間の上半身ほどもある立派な枝ぶりに、肉厚な緑の葉。地面には血管のように太く複雑な根が張り巡らされ、ドーム全体の岩盤へと深く食い込んでいる。
だが──肝心の花は、まだ固い蕾のままだった。
「やっぱり咲いてないですね。でも、今はそれどころじゃありません。すぐに詠唱を始めます」
エミリーがスクロールを取り出し、書かれている文字を読み始めた矢先。
ドゴォォォォンッ!!
俺たちがくぐり抜けてきた岩の裂け目が、外側から強引に砕かれた。
通路の岩盤を力任せに押し広げ、エメラルドドラゴンがその獰猛な頭部を最深部へと突き入れてきたのだ。
「ひぃっ! あいつ、岩を壊して入ってきやがった!」
「まずいぞマスター! 奴め、この閉鎖空間ごとブレスで焼き払う気だ!」
ドラゴンの大きく開かれた顎の奥で、エメラルドグリーンの魔力が渦を巻きながら収束していく。
逃げ場のないドーム内に、肌がビリビリと焼けるような規格外の魔力圧が充満した。空気が震え、大気が発光するほどの圧倒的なエネルギーが溢れ返る。
「ダメだ。間に合わない。こんな場所でドラゴンのブレスを浴びたら一巻の終わりです」
「ブレスだろうがなんだろうが、わたしが全て受け切ってみせる」
ニチコの言葉は頼もしかったが、エミリーやプータス、シーラまでもが絶望に膝を落とした。
だが、俺はある異変に気付く。
ドラゴンが放つ莫大な魔力の奔流に呼応するように、地面に張り巡らされていた紅花山玉蘭の根が、突如として淡い紅色の光を放ち始めたのだ。
「な、なんだ……!? 根が光ってるぞ!?」
「これは……ドラゴンの規格外の魔力に呼応している? まさか、紅花山玉蘭の開花のためのトリガーは、魔力なのか?」
プータスの叫びと同時に、紅花山玉蘭の固い蕾がふわりと輝き、音を立てるようにしてその花弁を解き放った。
息を呑むほどの、絶景だった。
透き通るような純白のベースに、鮮やかな紅のグラデーションが浮かび上がる大輪の花。そこから放たれる清らかで気高い芳香が、ドラゴンの殺気立つ魔力すら浄化するようにドーム内へと広がっていく。
「す、すげえ……本当に咲いたぞ……!」
「でも、もう手遅れじゃん。花を食べても死んでしまうなら意味がないよ」
シーラの言葉に、俺は首を横に振った。
「呪いが残っていたら死んでも死にきれない。俺はやるぜ」
俺は震える手を伸ばし、咲き誇る紅花山玉蘭の花弁に触れた。
しっとりとした極上の質感。脈打つような生命の鼓動。幾重にも重なる花びらの完璧な黄金比。
長年、数え切れないほどの植物を愛でてきた俺の魂が、根底から激しく揺さぶられていた。
「……やっぱ、無理だ」
「えっ?」
「こんな……こんな芸術品みたいに美しく咲いたばかりの花を、むしり取って噛み砕くなんて……園芸師として、絶対にできるわけがないだろうがぁぁっ!!」
俺の中で、男としての煩悩を取り戻したいという願望を、園芸師としての狂気的なまでの植物愛が完全に凌駕した。
食べるなんて罰当たりにもほどがある。むしろ俺が今、猛烈に知りたくてたまらないのは──この世で最も美しい幻の花に俺の魔法を注ぎ込んだら、一体どれほど神々しい『美少女』が生まれるのか、ただその一点だった。
「もう、ドラゴンも死ぬのも関係ない。数年に一度しか拝めない美少女がどんな姿をしているのか……それを知ることができれば死んで本望ってことだ」
「こんなときに、なに言ってるんですかハナ兄さん!?」
「こんなときだからこそだよっ。咲き誇れ、紅花山玉蘭――ッ!!」
ドラゴンの顎から破滅の翠光が放たれる寸前、俺は紅花山玉蘭の茎を両手で包み込み、ありったけの魔力を一気に流し込んだ。




