㉑白亜紀より
重厚な真鍮の飾りが施された純白の扉。そこが、王宮の一角にある第七王子ナナキの専用図書室だそうだ。
室内に一歩足を踏み入れれば、消毒液と漂白剤の混ざった鋭い匂いが鼻を突いた。埃一つない大理石の床、壁一面を埋め尽くす古今東西の魔導書と研究資料。そして、中央の執筆机で銀縁の片眼鏡を光らせる冷徹な男──ナナキが、不快そうに眉をひそめてこちらを睨みつけていた。
「……なんだお前ら」
ナナキは手元の白手袋をきつく締め直し、まるで汚物を見るような目を俺たちに向けた。
「ナナキ兄さん。実は折り入って頼みたいことがあって来たんだ」
この人に小細工は効かない。ここは直球勝負だ。
「ニチコという女のことか? お前の後ろにいる小娘がニチコとは言うまいな。まだ寝小便を垂れていそうなガキどもに用はない」
くっ。やはり俺たち三人じゃ子供扱いか。
「視線の角度、二五度。手袋の摩耗状態から推測する潔癖症の度合い、重度。……ふん。目の前の生物の構造的真理を見抜くことすらできず、表面的な汚れだけに神経をすり減らす、極めて低効率な精神回路ですね。貴方が噂の『鑑定魔法の天才』ですか? 失笑を買うにも値しない雑魚個体ですね」
怯む俺とエミリーをよそに、プータスが先陣を切った。
「なっ……!?」
ナナキのモノクルがガクリと揺らいだ。王宮の誰もが恐れ敬う第七王子に対し、初対面の幼女から「雑魚個体」呼ばわりされたのだ。ナナキの青白い頬に怒りの筋が浮かび上がる。
「貴様……どこの馬の骨とも知れぬガキが、よくも王族に向かって……!」
「待てよ、ナナキ」
俺は一歩前に出て、不敵に笑ってみせた。不思議と、頭が冴え渡っている。思考の霧が晴れ、世界の理が数式のように見えてくる感覚……なんだこれ。
「この子は、俺の友人で天才少女のプータスだ。天才といえばこの国で右に並ぶものは居ないと言われているナナキ兄さんと知恵比べがしたいと言ってごねていたから無礼を承知で連れてきた」
「はぁ? お前らみたいな無知で無能なガキどもと遊んでいる暇はない。親族でなければ即時死刑宣告でもしたいところだ」
「この子が、人間じゃないって言ったらどうだ?」
「は? 気でも狂ったか無能」
「ちょっとハナ兄さんっ」
ナナキとエミリーの心拍数が上がった音が聞こえた。
なんだか全神経が研ぎ澄まされている感じだ──もしかしてこれは、プータスの能力? 俺も頭の回転が速くなっているのか?
「ナナキ兄さんのモノクルで鑑定してみればいい。面白い情報が出てくるぜ」
挑発に乗ってこい。
「ちっ、煩わしいガキどもだ。何も出なかったら今日一日書庫の掃除でもしてもらおう。鑑定・全構造解析」
ナナキのモノクルがチリチリと音を立てると同時に幾何学模様の魔方陣を作り出し、眩い光がプータスを取り囲んだ。
「な、なんだこれは……プラタナス? スズカケノキ科スズカケノキ属の落葉広葉樹? くそっまさか、昨日の鑑定魔法もバグだったのか?」
ナナキが狼狽えている。
「バグじゃないさ。この子はプラタナスから生まれた魔導生物だ」
「なっ、なんだと。貴様、城に魔物を招き入れたのか。死罪どころではないぞ」
「ハナ兄さん。無茶苦茶ですよ。いったい何を考えているんですか」
いいぞ、エミリーの動揺も相まって、この部屋の空気が淀んでいる。
「プータス。今だぞ」
俺の合図に、プータスはすっと一歩前に出た。ダボダボの袖を翻し、据わった漆黒の瞳でナナキを見据える。
「解析結果への反論の機会を与えましょう。貴方のその片眼鏡、情報処理の帯域が狭すぎて見ていられませんね。我が存在をただの『落葉広葉樹』と誤認した時点で、貴方の脳内データベースは旧石器時代の遺物と同等であると証明されました」
「なんだと……? 私の『全構造解析』が誤認を起こすはずがない……っ!」
ナナキは歯噛みし、さらに魔力を絞り出そうとする。
だが、プータスは冷徹な声音でその言葉を遮った。
「無駄です。貴方が観測しているのは、あくまで我が表層の仮象に過ぎません。本質は、虚数空間に展開された魔導多重構造体。数式で示すならば──」
プータスが空中に指先で光の数式を紡ぎ出した瞬間、部屋の空気が一変した。
それは人間の脳が一度に処理できる限界を優に超えた、狂気的なまでの超高密度魔導方程式の奔流だった。ナナキの銀縁モノクルが悲鳴を上げ、バチバチと火花を散らす。
「ぐっ……!? なんだ、この数式は……! 収束しない……! 定義域から外れた変数が無限に発散していく……っ!?」
ナナキは両手で頭を抱え、床へと崩れ落ちそうになった。しかし、その顔に浮かんでいるのは恐怖ではない。完全に未知の領域に触れた者の、底知れぬ歓喜と狂気だった。
「あぁ……素晴らしい……! なんという美しく、かつ破綻のない超高度論理……! 私の知性が……音を立てて書き換えられていく……ッ!」
完全にハマった。
プータスの魔力バフを受けて研ぎ澄まされた俺の脳みそは、この絶好の機会を逃さなかった。俺は一歩踏み出し、冷徹かつ流暢なトーンでまくし立てる。
「驚いたか、ナナキ。我が庭園に満ちる魔導生態系は、お前の矮小な常識など遥かに超越している。なにせ、彼女の種族であるプラタナスは、地球でいうところの白亜紀の時代から途方もない年月を生き抜いてきた太古の系譜だ。幾億年の環境変動をその身に刻み込み、世界の理を蓄積してきた生き字引の頭脳が、人間の浅知恵に劣るわけがない。
さらに、我が配下であるセンニチコウの『ニチコ』の肉体は不朽の魔力繊維で構築されており、いかなる物理攻撃も『快楽』という名の絶対防壁へと変換する。その構造は至って合理的だ」
流れるような早口で、我が家の「変態的なヒロインたち」を最先端の生物学的論文のようにプレゼンしていく。
エミリーが「お兄様、さっきから何を誇らしげに狂った解説を……!」と青ざめて絶句しているが、今の俺には止まらない。
床に這いつくばっていたナナキは、ガバッと顔を上げた。その目は血走るほどに輝いていた。
「な……なんだと……!? ニチコは単なる異国からの不法入国者などではなく、白亜紀からの系譜を受け継ぐ超高度魔導生態系の構築だと……!? ハナ、お前……! お前はこれほどの研究を一人で……!」
勝手に盛大に誤解していくナナキ。
頭の良すぎる人間は、勝手に都合の良い天才的ストーリーを脳内で補完してくれるから実にありがたい。
「あ、ああ。そういうことだ。だから、ニチコの件も……」
「決定的だ……!」
ナナキはよろよろと立ち上がり、俺の両手をガシリと掴んだ。その瞳には本物の熱が宿っている。
「査問委員会など、馬鹿馬鹿しい茶番だ! そんな低次元な審議、今この場で私が握り潰してやる!」
「おお、助かる」
「その代わりだ、ハナ!」
ナナキは爛々と目を輝かせ、隣でツンとそっぽを向いているプータスをチラリと見た。
「今後も、この『プータス』との高次元なディベートの場を私に提供しろ! 定期的にこの図書室に彼女を派遣し、私の知的好奇心を刺激し続けろ! それが条件だ!」
「いいだろう。いつでも相手をしてやるわ。せいぜい私の知的優位性にひれ伏すがいい」
プータスがふんと鼻を鳴らすと、ナナキは「ああ、素晴らしい……! この冷徹なまでの知性……!」と身悶えした。
そして、ナナキは急用が出来たと言って、俺たちを部屋から追い立てた。
あまりにも呆気ない幕引きに、俺もエミリーも肩をすくめたが、明日の査問委員会は実施されないという口約も得たことだし、危機は回避できたのだろう。
俺たちはひとまず部屋に戻ることにした。




