②シクラメンの毒
後頭部の鈍痛に顔をしかめながら、俺は芝生の上で身を起こした。
分厚い魔導書を抱いたエミリーが、いまだに絶対零度の瞳で俺を見下ろしている。傍らでは、俺のシャツを羽織ったシーラが、小動物のように震えていた。
「……で。この方はどなたなのですか? そしてなぜ全裸だったのですか?」
氷の刃のような声が降ってくる。
「あー、その、この娘はだな……」
返答によっては左遷どころじゃ済まされなくなる可能性もある。それくらい今の俺の親父、つまり国王は厳しい人だ。
俺はしどろもどろになりながら、必死に脳を回転させた。
本当のことを言えば、ただ単に花の手入れをしていただけ、その花が美少女の格好をしていただけなのだが……いや最初は本当に卑猥なことをしようとしていたのだけど、俺のなかの煩悩がどこかへ行ってしまって……って言っても言い訳にしかならない。
まったく、一体どうなっているのだ、この魔法は……魔法、そうか。
「ま、魔法なんだ! 俺にもついに魔法が覚醒して……この子は、そこにあったシクラメンが人間の姿になったんだよ!」
俺は指を突き出し、奇跡の覚醒を高らかに宣言した。
しかし、エミリーの表情はピクリとも動かない。冷ややかな視線が、むしろ哀れみを含んで細められた。
「植物を……いいえ、無機物や別の生命体を人間の姿に変える魔法など、歴史上いかなる文献にも存在しません。ついに虚言癖まで併発したのですか」
「本当だって! 俺の魔法なんだよ!」
「見苦しいです。無能の事実から目を背け、誘拐してきた平民の女に奇妙な設定を押し付けるなど……」
エミリーが蔑みの溜息を吐きかけた、その時だった。
「よお、無能のハナ王子。今日も一人遊びか? それとも妹に泣きついてんのか?」
幼いが、不快さを帯びた声が俺を呼び止めた。
石畳を蹴り上げながら現れたのは、王都の有力貴族の次男坊であるメルキと、その取り巻きのダンボル、アンカード。よく俺を虐めている奴らだ。
「無能がうつるぜ、近づくなよ」
青白い顔のダンボルが指先から冷気を漏らす。
「全くだ。魔法の一つも使えないなんて、息をしてる価値もないよなぁ」
アンカードが杖を振ると、突風が足元の落ち葉を巻き上げた。
炎魔法が得意なメルキ、氷魔法が得意なダンボル、風魔法が得意なアンカード。基礎属性とはいえ、彼らは十三歳にしてすでに魔法の力を体現している。
魔法が使えず、前世の記憶もなかった俺は、怯えて逃げ隠れするしかできなかった。
だが、今の俺は違う。俺にはシーラがいる。花を美少女に変えるという最強の魔法が。
俺は鼻息を荒くし、脳内で反撃のシミュレーションを開始した。
どうやって美少女でこいつらを撃退する?
色仕掛けで骨抜きにするか。シャツの裾を少しはだけさせ、豊満な胸の谷間を見せつける。最高だ。俺なら一秒で平伏する。
だが待て。こいつらはまだ十三歳のガキンチョだ。エロの真髄など理解できる年齢ではない。肉体の神秘よりもカブトムシに興奮する年頃だ。色仕掛けなど馬の耳に念仏である。
くっ、美少女の正しい戦闘への組み込み方が分からない……!
というか、そもそも美少女を盾にしては漢として負けじゃないか?
なんなんだ、この魔法は、ただ俺の煩悩が具現化しただけなんじゃないのか?
俺が一人で頭を抱え、懊悩している隙を突かれた。
「何ブツブツ言ってんだよ、気持ちわりぃな!」
アンカードの放った突風が、俺の体を無様に吹き飛ばした。
「ぐはっ!」
芝生を転がり、尻餅をつく。
「きゃあっ、主様!」
シーラが悲鳴を上げ、慌てて駆け寄ってきた。
その光景を見て、メルキたちが下劣な嘲笑を響かせる。
「なんだぁ? その女は。無能の分際で、いっちょ前に女なんか侍らせてんのかよ」
羨ましかろう……いや、優越感に浸っている場合じゃない。こいつらを排除しないと俺とシーラのめくるめく肌と肌の対話の時間がなくなってしまう。
「……品性の欠片もない騒ぎ声ですね。耳が腐りそうです」
一瞬、俺の心の声が漏れ出て一括されたのだと思ったが、冷たく蔑んだエミリーの声は、メルキ達に向けられていた。
「エミリー……っ。お前、無能の兄貴を庇う気か?」
「勘違いしないでください。私はただ、王城の庭で野犬が吠えているのが目障りなだけです」
ピシャリと放たれた正論の刃。プライドをへし折られたメルキの顔が、怒りで真っ赤に染まった。こういうときのエミリーは頼りになる。
「てめえ、生意気な口を……! 王族だからって魔法の力が弱けりゃ下に見られるって知ってんだよなぁ」
メルキの手のひらで、炎の球が膨れ上がる。熱波が周囲の空気を歪ませた。ダンボルとアンカードも、それぞれ氷の槍と風の刃を形成し、臨戦態勢に入る。
メルキの言い放ったことは事実だ。たとえ王族であっても、魔法の力で優劣が決する国。俺の親父である国王の方針だ。だから魔力のない俺は、王子であっても下に見られ、虐められていた。
「止めて下さい。主様を虐めないで……」
シーラが俺を庇うように両手を広げ身を乗り出す。
なんて健気で献身的なんだ。
「おい、そこの女! 丸焦げになりたくなければ、そこをどけ!」
メルキが、赤々と燃える炎の球をシーラの目の前まで突きつける。
ジリ、と。
炎の熱波が、シーラの白い肌を炙った。
──その瞬間。
俺の脳内で、何かがブチッと千切れる音がした。
急激な温度変化……だと……?
泥と肥料の臭いが、肺の奥底から込み上げてくる。
シクラメンの生育適温は、おおよそ十度から十五度。冬の寒さには比較的強いが、暖房の効いた部屋や急激な熱には極端に弱い。葉は黄色く変色し、花は萎れ、最悪の場合は休眠状態に入ってそのまま枯死する。
それを、なんだ。
至近距離で炎魔法だと?
極端な温度変化を起こすだと……?
「……てめえら」
地を這うような低い声が漏れた。
ゆっくりと立ち上がる。視界が真っ赤に染まっていた。もはやエロもハーレムも関係ない。あるのは、素人の杜撰な温度管理に対する、園芸ガチ勢としての純粋な殺意のみ。
「シクラメンの適温は十から十五度だと言っているだろうがァァァッ!!」
俺は吠えた。
「至近距離で熱波を当てやがって! 葉水で補った水分が一瞬で蒸発するだろうが! 根腐れより恐ろしいのは乾燥と急激な温度変化だ! 俺のシクラメンを枯らす気かァァッ!」
口から飛び出すのは、激しい園芸の説教。親父に毎日殴られながら叩き込まれた、花の命を守るための絶対的な真理だ。
自分の言葉に困惑しながらも、怒りは最高潮に達した。
そして、それに呼応するように、シーラの体が淡い赤紫色の光を放ち始めた。
「主様……ああ、主様……っ」
シーラがうっとりとした表情で両手を胸の前で組む。
そして彼女の体から、目に見えない微細な粒子がふわりと空気中に放たれた。
この匂いを俺は知っている。
シクラメン。和名『豚の饅頭』
その球根には、サポニンという名の毒が含まれている。
猛烈な消化器系の破壊。致死性はないが、人間の尊厳を徹底的に蹂躙する。
それは、凶悪に腹を下す毒だ。
「な、なんだこいつ、急に……って、痛っ!?」
最初に異変を訴えたのはメルキだった。
彼の顔から一瞬にして血の気が引き、手のひらの炎がシュンと消滅する。
「あ、腹が……ぎゅるるるるっ!」
「おいメルキ、どうし……痛ぁっ! なんだこれ、腹が割れる……っ!」
「ひいぃっ! 漏れる、漏れるゥゥッ!」
ダンボルとアンカードも次々に腹を抱え、芝生の上に転げ回った。
「お、覚えてろよ無能ォォッ!」
三人はお尻を両手で必死に押さえながら、涙目で庭園の奥へと逃げ去っていった。
残されたのは、彼らが撒き散らしたであろう、かすかな異臭だけである。




