⑯第七王子ナナキ(三人称視点)
第七王子ナナキは、この世界に存在するあらゆる「未知」と「不潔」を極端に嫌悪している。
すっきりと伸びた長身に、上質な布地で仕立てられた学者風のローブを隙なく纏う男。若草のような緑の短髪は一糸の乱れもなく撫でつけられ、冷たいエメラルドグリーンの瞳の片側には、精巧な銀細工の片眼鏡が光っている。
誰もが振り返るほどの見目麗しいイケメンだが、その完璧な美貌は、彼自身の極度な潔癖症と神経質な性格によって、触れることすらためらわれるような冷気を放っていた。
彼の代名詞である『鑑定魔法』は、視界に収めたあらゆる物質の構造と真理を絶対的に暴き出す。
たとえば今朝も、王宮の筆頭料理長が自信満々に淹れた紅茶を、純白の手袋をはめた指先でカップの縁をなぞるだけで、一口も飲まずに突っ返した。
「茶葉の乾燥工程でわずかにカビの胞子が混入している。抽出温度も適正から二度低い。不衛生極まりない、やり直せ」と。
冷徹で、理屈っぽく、極度の潔癖症。査問委員会において絶対的な発言力を持つこの天才を、多くの者は恐れ、そして煙たがっていた。だが同時に、彼が王宮の不正や隠蔽を次々と暴き、完璧な秩序をもたらしていることも事実であり、誰も彼に逆らうことはできない。
そんな完璧主義のナナキには、一つだけ致命的な悪癖があった。
ひとたび「未知の事象」や「論理的な破綻」に遭遇すると、それを完全に解明するまで寝食を忘れて没頭してしまう、狂気的な執着心である。
その日、ナナキは王宮の回廊を歩きながら、美しい顔に微かに皺を寄せた。
日差しが差し込む窓の下、騎士団の演習場から、およそ規律とは無縁の異様な喧騒が聞こえてきたからだ。
ナナキは足を止め、磨き上げられた窓ガラス越しに眼下を見下ろした。
そこには、土埃の舞う中で騎士団長ヤーンの苛烈な説教を受ける半裸の女と、それを見守る無能な弟ハナの姿があった。
「無能が、一体何の騒ぎを起こしているのか」
ナナキは鼻で笑った。魔力を持たず、王族としての矜持も持たないあの弟は、ナナキの愛する『完璧な秩序』を乱すノイズでしかない。本来なら視界に入れることすら不愉快だった。
興味を失い、立ち去ろうと踵を返したその時である。
彼の極め尽くした『鑑定の眼』が、視界の隅で微かな、しかし決定的な違和感を捉えた。
「……奇妙だな」
ナナキは再び窓辺に戻り、白手袋の指先でモノクルを押し上げた。右目に魔力を集中させ、眼下で正座させられている女をじっと睨みつける。
おかしい。あの女から放たれる魔力密度が、人間の枠を逸脱している。さらに不可解なのは、魔力がないはずのハナから、あの女へと全く同質の魔力のパス(繋がり)が伸びていることだ。
奴は無能ではなかったのか? いや、そもそもあの女は何者だ。
思考より先に、極限まで鍛え上げられた鑑定魔法が自動的に対象の真理を暴き出し、ナナキの脳内に情報を羅列していく。それは、この世の絶対的な真実。
【個体名】ニチコ
【種族】センニチコウ(ヒユ科・変異体)
【属性】土・水
【状態異常】極度の被虐嗜好(ドM)
「……は?」
ナナキの冷静沈着な思考が、一瞬にして完全に停止した。
ヒユ科? 植物だと?
馬鹿な。眼下にいるのはどう見ても人間の女だ。だが、鑑定魔法は絶対である。さらにナナキを混乱させたのは、その下の一行だ。
状態異常、極度の被虐嗜好。
物質の構造を暴くはずの至高の鑑定魔法が、なぜ個人の精神的な性癖などという下世話な情報をステータスとして抽出してしまったというのか。
ナナキはモノクルを外し、純白のハンカチでレンズを乱暴に拭き上げた。疲労による幻覚か。もう一度モノクルを装着し、魔力を最大まで練り上げて再鑑定を行う。
結果は同じだった。無慈悲なほどくっきりと【ドM】の文字が脳裏に浮かび上がる。
あり得ない。魔法の誤作動か、あるいは私の眼すら欺く未知の高度な幻惑魔法か。私のこの、完璧な世界にバグが生じたとでもいうのか。
「……面白い」
ナナキの緑の瞳に、研究者としての暗くねっとりとした執着の火が灯った。
完璧な数式の中に、突如として現れた解読不能の記号。それは彼の癇に障る極めて不愉快な現象であり、同時に、どうしようもなく知的好奇心を刺激する極上の謎だった。
ナナキは乾いた唇を舐め、回廊を急ぎ足で駆け出した。
向かった先は王宮の地下にある巨大な書庫である。潔癖症の彼にとって、長年放置された地下の埃っぽい空気など普段なら絶対に耐えられない空間だ。
だが今の彼は、純白のハンカチを口元に当てて咳き込みながらも、国民登録の戸籍台帳を棚から次々と引きずり出し、異常な速度でページをめくり続けた。未知のパズルを与えられた今、不衛生さへの不快感すら彼の執着心を止める理由にはならなかった。
インクの匂いと紙が擦れる音が、静寂の書庫に乱暴に響き渡る。
結果は、推して知るべしだった。『ニチコ』という名の、あのような特異な魔力を持つ女の戸籍など、この国のどこにも存在しない。完全に空白だ。
「戸籍を持たない、正体不明の高濃度魔力体。それを王宮内に引き入れているとなれば、もはや無能の道楽では済まされないな」
ナナキは分厚い台帳をバンッと音を立てて閉じ、暗い書庫の中でひっそりと、しかし酷く楽しそうに唇を吊り上げた。
「ハナ。お前の隠している秘密、査問委員会で私が丸裸にしてやろう。あの女の構造を、骨の髄まで解き明かしてやる」
それは兄としての冷酷な笑みではなく、未知の巨大なパズルを与えられ、没頭する理由を見つけてしまったオタク気質な天才の、純粋で狂気的な笑顔だった。




